奈良時代の幕開け ①中学/政治
710
平城京へ遷都
元明天皇
語呂
覚え方
なんと(710)立派な平城京
な(7)ん(1)と(0)立派な平城京
710年(和銅3年)、元明天皇が藤原京から平城京(現在の奈良市)へ都を移しました。平城京は中国・唐の都「長安」をモデルに設計された条坊制の計画都市で、碁盤の目状に区画された大規模な都です。ここから784年の長岡京遷都まで約70年間、奈良時代の政治・文化の中心地として栄えました。和同開珎(708)の流通、古事記・日本書紀の編纂、東大寺大仏の建立など、「天平文化」と呼ばれる華やかな文化はすべてこの都を舞台に花開きました。
この記事のポイント
- 710年、元明天皇が藤原京から平城京(現・奈良市)へ遷都
- 唐の都・長安をモデルにした条坊制の計画都市
- 南北約4.8km・東西約4.3kmの広大な都(平城宮を中心に配置)
- 奈良時代(〜784年)の政治・文化の中心地として約70年栄えた
- 東大寺大仏(752)・古事記(712)・日本書紀(720)など天平文化の舞台
ここが面白い「なんと(710)立派」と語呂で覚える平城京。実は藤原京からわずか16年で引っ越した理由があった。
平城京遷都は突然起きたわけではありません。飛鳥時代から続く律令国家づくりの集大成として、都を新たに建設する必要が生じていました。なぜ藤原京から移り、なぜ奈良の地が選ばれたのか、その背景を見てみましょう。
律令国家体制の確立
7世紀後半、天智天皇・天武天皇らの改革を経て、日本は中国(唐)の制度を手本にした律令国家の建設を急ぎます。701年に大宝律令が完成し、法律(律)と行政法(令)に基づく国家体制が整いました。こうした強大な中央集権国家を運営するには、それに見合った規模の都城が必要でした。
藤原京の限界
694年に完成した藤原京(現在の橿原市・明日香村あたり)は、日本初の本格的な条坊制都市とされますが、規模が平城京に比べて小さく、平城京遷都後わずか16年で役割を終えました。人口の増加や国家行政の拡大に対応する新たな都が求められたと考えられています。
唐・長安をモデルにした都市設計
平城京は唐の都・長安を模して設計されました。朱雀大路と呼ばれる幅約70〜75mの大路が都の中央を南北に貫き、左京(東側)と右京(西側)に分かれる左右対称の構造です。北端中央に天皇が政務を執る平城宮(大内裏)が置かれ、碁盤の目状の街路が整然と区画を分けていました。
奈良時代へ——天平文化の開花
平城京遷都によって始まった奈良時代は、仏教が国家の柱とされた時代でもあります。聖武天皇の時代には国分寺・国分尼寺が全国に建てられ、都には東大寺と大仏が造立されました(752年開眼供養)。また古事記(712)・日本書紀(720)の編纂、万葉集の成立など、文学・文化も大きく花開きました。
条坊制の計画都市を建設
≒ 碁盤の目状に区画された都市計画朱雀大路を中心軸に左京・右京を対称に配置。唐の長安を手本にした大規模な都城を新たに建設した。
平城宮を政治の中枢に
≒ 国会議事堂+皇居にあたる中枢機能の集約都の北端中央に平城宮(大内裏)を設置。大極殿・朝堂院で政務・儀式が行われ、律令国家の中枢となった。
仏教を国家護持の柱に
≒ 宗教を国家運営に組み込む政策奈良時代を通じて国家仏教が推進され、東大寺・興福寺・薬師寺など大寺院が都に集中。大仏建立(752)はその集大成。
694藤原京遷都持統天皇が飛鳥から藤原京へ遷都。日本初の本格的条坊制都市とされる。
701大宝律令大宝律令が完成し、律令国家体制が整う。中央集権の法的基盤が確立。
708和同開珎日本初の流通貨幣・和同開珎が鋳造される。都市経済の基盤が整い始める。
710平城京遷都元明天皇が藤原京から平城京(現・奈良市)へ遷都。奈良時代が始まる。
712古事記完成太安万侶が古事記を完成。日本最古の歴史書で、神話・天皇の系譜を記す。
720日本書紀完成舎人親王らが日本書紀を完成。漢文で書かれた正史で、古事記とともに日本の歴史を伝える。
743墾田永年私財法新たに開墾した土地の永久私有を認める法が制定され、貴族・寺院の土地集積が進む。
752大仏開眼供養聖武天皇の発願により建立された東大寺の大仏で開眼供養が行われる。天平文化の象徴。
784長岡京遷都桓武天皇が平城京から長岡京へ遷都し、奈良時代が終わる。
◎平城京は約70年にわたって日本の政治・文化の中心として機能し、律令国家体制が完成した。天平文化が花開き、東大寺大仏・古事記・日本書紀など後世に残る偉業が生まれた。
△奈良時代後半には貴族や仏教勢力による権力争いが激化。墾田永年私財法(743)により土地の私有化が進み、のちの荘園制拡大と律令制の弛緩につながった。
元明天皇
第43代天皇(在位707〜715年)女性天皇。710年に平城京へ遷都し、和同開珎の普及にも尽力。大宝律令の運用を実質的に推進した。
藤原不比等
右大臣・律令国家の立役者大宝律令の制定に深く関与した藤原氏の基礎を築いた人物。平城京遷都後も国政を主導した。
太安万侶
古事記の編者元明天皇の命を受け、稗田阿礼が語り伝えた内容を記録し古事記(712)として完成させた。
聖武天皇
第45代天皇(在位724〜749年)天平文化を代表する天皇。国分寺建立の詔(741)と東大寺大仏建立の詔(743)を発した。
- 条坊制
- 都城を碁盤の目状に区画する都市計画の方式。南北の通りを「条」、東西の通りを「坊」と呼ぶ。唐の長安を手本にした。
- 平城宮(大内裏)
- 平城京の北端中央に置かれた天皇の居所と国家の政務機関。大極殿・朝堂院・内裏などからなる。現在は特別史跡として整備されている。
- 奈良時代
- 平城京に都が置かれた710年から784年の長岡京遷都までの時代。律令国家体制が成熟し、天平文化が花開いた。
- 天平文化
- 奈良時代中期(8世紀)に花開いた文化。聖武天皇・光明皇后の時代を中心に、仏教美術・建築・文学が大きく発展した。東大寺大仏・正倉院宝物が代表例。
- 朱雀大路
- 平城京の中央を南北に貫く大路。幅は約70〜75mとされる。都の左京(東側)と右京(西側)を分ける中心軸。
1「なんと立派」の語呂が生まれた理由
710の読み方は「な(7)・ん(1)・と(0)」。「なんと立派な平城京」という語呂は、数字の読みと感嘆詞が自然にはまる名フレーズとして、受験生に長く親しまれている。シンプルながら音の響きも心地よく、一度聞いたら忘れにくい。
2平城宮は1300年後に「復元」されている
現在の奈良市西部に広がる平城宮跡(特別史跡・世界遺産)では、大極殿や朱雀門が現代に復元されている。奈良時代の都の壮大さを、現地で体感できる貴重な史跡だ。
3右京はほぼ使われなかった?
平城京は左京・右京に二分されるが、右京(西側)は湿地が多く実際にはあまり住まれなかったとされる。都の機能は左京に集中しており、さらに左京北東部に「外京」が加えられ、興福寺などの大寺院が置かれた。
4「奈良」の地名の由来は諸説あり
「奈良」という地名の語源には「ならす(平らにする)」という意味で土地を切り開いたことに由来するという説など複数の説がある。いずれにせよ、平城京遷都によって「奈良」の名は日本史に深く刻まれることになった。

ここが出る博士のワンポイント
遷都の年は710年。語呂「なんと(710)立派な平城京」で確実に覚える。
遷都した天皇は元明天皇(女性天皇)。藤原京から移った点も押さえる。
平城京は唐の都・長安をモデルにした条坊制の計画都市(現・奈良市)。
奈良時代(710〜784年)=平城京の時代。784年の長岡京遷都で終わる。
この時代の文化は「天平文化」。東大寺大仏(752)・古事記(712)・日本書紀(720)がセットで問われやすい。
語呂クイズ
「なんと(710)立派な平城京」= 平城京へ遷都は西暦何年?
- Q. 平城京へ遷都したのは何年ですか?
- A. 710年(和銅3年)です。語呂合わせは「なんと(710)立派な平城京」。
- Q. 遷都したのはどの天皇ですか?
- A. 元明天皇です。女性天皇で、707〜715年在位しました。
- Q. 平城京はどこにありましたか?
- A. 現在の奈良県奈良市にあたります。平城宮跡は特別史跡・世界遺産として残っています。
- Q. 平城京はなぜ長安をモデルにしたのですか?
- A. 当時の日本は唐(中国)の制度・文化を積極的に取り入れており、都市設計も唐の首都・長安の条坊制を手本にしました。律令国家にふさわしい壮大な都城を目指したためです。
- Q. 奈良時代はいつからいつまでですか?
- A. 710年の平城京遷都から784年の長岡京遷都までが奈良時代とされます。約74年間です。
- Q. 平城京と平安京はどう違いますか?
- A. 平城京(710年〜)は現在の奈良市にあった都で奈良時代の中心。平安京(794年〜)は現在の京都市にあり、平安時代の中心です。遷都の順番は平城京→長岡京(784)→平安京(794)です。
710年の平城京遷都は、飛鳥時代の改革と律令整備(大宝律令701)の集大成として実現しました。唐の長安を手本にした壮大な計画都市で奈良時代が幕を開け、天平文化という日本史屈指の文化の黄金期が訪れます。「なんと(710)立派な平城京」の語呂とともに、元明天皇による遷都・奈良時代の始まり・天平文化の舞台という三点をセットで押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
平城京の規模(南北約4.8km・東西約4.3km)は諸説あり、発掘調査が進行中のため数値は概算として記載。
朱雀大路の幅については「約70〜75m」と記載したが、研究によって若干の差異がある。
右京の居住実態については研究が進んでおり、「ほぼ使われなかった」は通説的理解の紹介として trivia に収めた。
「奈良」の地名の語源は定説がなく trivia での「諸説あり」として記載した。