
794年(延暦13年)、桓武天皇は現在の京都市に平安京を造営し、都を移しました。710年に平城京(現在の奈良市)に都が置かれてから約80年、奈良では仏教勢力が政治に深く介入し、天皇の権威を脅かす事態が続いていました。桓武天皇はまず784年に長岡京(現在の京都府向日市付近)へ遷都しますが、相次ぐ災難を理由に10年もたたず移転を決断。新たに選んだ地が平安京です。「平安」の名のとおり、平安京はその後1000年以上にわたって日本の都であり続け、明治維新まで政治・文化の中心として栄えました。
平安京は「平安」という名にふさわしく、以後1000年以上にわたって日本の都であり続けた。しかし桓武天皇は、この10年前に長岡京へ遷都したばかり。わずか10年で2度も都を移す異例の決断だった。
平安京への遷都は、突然の思いつきではありません。奈良時代後半から続いた「仏教と政治の癒着」という深刻な問題を解決しようとした、桓武天皇による長期的な改革の一環でした。なぜ都を動かす必要があったのか、その背景を順を追って見ていきましょう。
奈良時代(710〜784年)、聖武天皇は国分寺・国分尼寺の建立や東大寺大仏の造営を行い、仏教を国家の柱に据えました。その結果、寺院・僧侶は莫大な経済力と政治的影響力を持つようになります。特に孝謙(称徳)天皇の時代には、僧・道鏡が太政大臣禅師・法王という異例の地位につき、皇位継承にまで影響を及ぼしかねない事態となりました(770年に道鏡は失脚)。この「仏教勢力の政治介入」こそ、桓武天皇が都を移す最大の理由のひとつとなります。
781年に即位した桓武天皇は、まず784年(延暦3年)に山背国(のちの山城国)の長岡京へ遷都を断行しました。奈良の大寺院の影響力を物理的に断ち切り、律令制度を立て直すことが目的でした。しかし長岡京の造営は順調ではありませんでした。造長岡宮使・藤原種継が785年に暗殺され(この事件への関与を疑われた皇太子・早良親王は廃されて流刑途上で憤死)、さらに洪水・疫病・飢饉が相次ぎます。これらの災いは早良親王の怨霊によるものと恐れられ、長岡京への定着は断念されることになりました。
桓武天皇は長岡京の北東にあたる賀茂川と桂川に挟まれた盆地を新たな都の地に選びます。風水(四神相応)的に優れた地形であること、水運の便がよいことなどが理由とされています。794年(延暦13年)に平安京が完成し、遷都が行われました。都の設計は唐の長安城をモデルにした碁盤の目状の区画で、東西約4.5km・南北約5.3kmの規模でした。
桓武天皇の治世は遷都だけではありませんでした。同時期に東北地方の蝦夷(えみし)への征討が積極的に進められ、797年には坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命されます。田村麻呂は胆沢・志波城を築いて東北への支配を広げました。遷都と蝦夷征討はともに「律令国家の立て直し」という桓武天皇の大きな構想の両輪でした。
天皇・貴族・官人・市場・寺院など、国家機能のすべてを新地に移す大事業。現代でいえば首都機能移転に相当する。
奈良の大寺院は政治的影響力が強く、国家予算も多く流れていた。物理的に距離を置くことで介入を遮断しようとした。
桓武天皇は遷都と並行して令外官(令に規定のない官職)を新設するなど、行政の実態に合わせた制度改革を進めた。
天智天皇系の皇統に連なる。律令制立て直しと蝦夷征討を両輪に積極的な改革を推進した。
長岡京造営の責任者。785年に暗殺される。この事件が長岡京を断念するきっかけのひとつとなった。
種継暗殺への関与を疑われ廃位・流刑。配流途上で憤死し、その後の災難は怨霊によるものとされた。
蝦夷征討を指揮し胆沢城・志波城を築く。平安京造営とほぼ同時期に活躍した武将。
遷都当時の正式名称は「山背(やましろ)国葛野郡の宮」などと記され、「平安京」という呼称が一般化するのはやや後のことです。「平安」には「平和・安らか」という意味が込められており、長岡京での災難続きへの反省も影響していたとも言われています。
794年から明治天皇が東京に移った1869年まで、約1080年にわたって京都が日本の都でした。ペリー来航・黒船騒動のときも、幕末の動乱のときも、都は京都にありました。世界的に見ても一都市がこれほど長期間首都であり続けた例は珍しい部類に入ります。
平安京の都市設計は唐(中国)の首都・長安城をモデルにしており、南北・東西に走る大路・小路が格子状に並ぶ「条坊制」を採用しました。中央を貫く幅約85mの朱雀大路が都の目抜き通りで、北端に大内裏(だいだいり)が置かれました。現在の京都市の碁盤の目状の街並みはこの設計に由来しています。
語呂「鳴くようぐいす平安京」のうぐいすは早春(2〜4月)の鳥です。実際の遷都(延暦13年)は秋(10月)とされており、季節は合っていません。あくまで語呂合わせの覚え方として、音の近さを利用した工夫です。

平安京への遷都は、単なる「引っ越し」ではありません。奈良仏教の政治介入に悩んだ桓武天皇が、国家の再建を目指して断行した一大改革でした。長岡京という失敗を経たからこそ、平安京は入念に選ばれた都です。そしてその選択は大正解となり、以後1000年以上にわたって京都は日本の中心であり続けました。「鳴くよ(794)うぐいす平安京」の語呂とともに、遷都の背景・天皇名・その後の歴史的意義をセットで押さえておきましょう。