
坂上田村麻呂
さかのうえの・たむらまろ 758–811 / 平安初・武将・大名
蝦夷を平定した征夷大将軍基本データ
- よみ
- さかのうえの・たむらまろ
- 生没年
- 758–811
- おもな地位
- 征夷大将軍
- 家柄
- 渡来系の坂上氏の出身と伝わる
- 主君
- 桓武天皇
- 縁者
- 武芸に秀でた武将
どんな人?
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、平安時代初めに蝦夷を平定した征夷大将軍です。渡来系の家系の出身とされ、武芸に秀でた武将として桓武天皇に重用されました。
桓武天皇が進めた東北経営の中心となり、蝦夷征討を指揮して胆沢城や志波城を築きました。797年には征夷大将軍に任じられ、平安京の造営とほぼ同じ時期に東北遠征で活躍しました。
蝦夷の指導者アテルイを降伏させた後、その助命を朝廷に嘆願した逸話でも知られます。武人としてだけでなく人柄でも語り継がれ、のちの武士のあこがれとなった平安初期を代表する武将です。
おもな業績・つくったもの
- 征夷大将軍に任命される(797年)桓武天皇により蝦夷征討の最高指揮官に任じられた。この征夷大将軍の名は後の武家政権の将軍号の由来となった。
- 蝦夷征討を指揮し東北を平定軍を率いて蝦夷を征討し、朝廷の支配を東北へ広げた。長く続いた蝦夷との戦いを大きく前進させた。
- 胆沢城を築く(802年)現在の岩手県奥州市付近に胆沢城を築いた。多賀城に代わり東北支配の中枢となる拠点とした。
- 志波城を築く胆沢城よりさらに北に志波城を築いた。朝廷の支配の前線を北へ押し進める拠点とした。
- 蝦夷の指導者アテルイを降伏させ助命を嘆願抵抗を続けた蝦夷の指導者アテルイを降伏させた。その武勇を惜しみ助命を嘆願したが、朝廷に退けられたと伝わる。
生涯のあゆみ(年表)
- 758坂上氏の一族として生まれる
- 797征夷大将軍に任じられる解説を見る →
- 802胆沢城を築き、蝦夷の指導者アテルイが降伏する
- 811死去する
ゆかりの地
清水寺京都府坂上田村麻呂が創建に深く関わったと伝わる寺で、世界遺産
胆沢城跡岩手県田村麻呂が蝦夷平定の拠点として築いた城柵の跡
豆知識
敵将アテルイの助命を嘆願
降伏した蝦夷の族長アテルイの武勇を惜しみ、田村麻呂は朝廷に助命を願い出た。願いは退けられたが、敵将をかばうこの逸話は後世まで語り継がれた。
「征夷大将軍」の先駆け
田村麻呂が任じられた征夷大将軍は当時、東北遠征の臨時職だった。後に源頼朝が同じ称号で幕府を開き、武家政権の頂点を指す名へと変わっていった。
立ったまま葬られた伝説
田村麻呂は死後、その武勇を惜しまれ、甲冑をまとい太刀を帯びて都に向かい立ったまま葬られたという伝説が残る。
人物相関
坂上田村麻呂
主君桓武天皇宿敵アテルイ
よくある質問
坂上田村麻呂は何をした人?
平安時代初めの武将で、797年に征夷大将軍に任じられました。桓武天皇の東北経営の中心となって蝦夷征討を指揮し、胆沢城などを築きました。降伏した蝦夷の指導者アテルイの助命を嘆願した逸話でも知られます。
征夷大将軍とはどんな役職?
もとは蝦夷征討のための臨時の総司令官の職でした。田村麻呂が任じられたこの称号は、のちに源頼朝が同じ名で幕府を開いて以降、武家政権の頂点を指す名へと変わっていきました。