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坂上田村麻呂が征夷大将軍にの浮世絵イラスト
桓武天皇の東北経営高校/政治
797

坂上田村麻呂が征夷大将軍に

坂上田村麻呂(征夷大将軍)・桓武天皇
語呂
覚え方
泣くな(797)田村麻呂、征夷大将軍
泣(7)く(9)な(7)田村麻呂

797年(延暦16年)、桓武天皇は坂上田村麻呂を「征夷大将軍」に任命しました。征夷大将軍とは、朝廷に従わない東北の人々(蝦夷=えみし)を討伐するための総指揮官です。田村麻呂は翌年から東北へ遠征し、802年には胆沢城(現在の岩手県奥州市付近)を築いて蝦夷の拠点を押さえました。蝦夷の指導者「アテルイ(阿弖流為)」は抵抗を続けましたが、同年ついに降伏。朝廷に連行され処刑されました。この出来事は、律令国家が東北支配を大きく進めた転換点として重要です。

この記事のポイント

  • 797年、桓武天皇が坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命
  • 征夷大将軍とは蝦夷(えみし)征討の総指揮官の称号
  • 802年、胆沢城を築城し蝦夷の勢力圏に朝廷の拠点を設置
  • 蝦夷の指導者アテルイ(阿弖流為)が降伏・のちに処刑される
  • 803年には志波城を築き、支配地域をさらに北に拡大
ここが面白い

坂上田村麻呂は、敵将「アテルイ」の命乞いをした武将でもある。勇猛な英雄の意外な一面。

ここに至るまでの流れ
背景

坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命された背景には、律令国家が抱えていた二つの大きな課題があります。一つは東北の蝦夷との長い対立、もう一つは律令制を支えた軍事制度の変質です。

蝦夷とは何者か

蝦夷(えみし)とは、東北地方に住み、朝廷の支配体制(律令制)に組み込まれていなかった人々の総称です。朝廷は「化外の民」と呼んで征服の対象としましたが、東北は肥沃な土地も多く、支配できれば国力増強につながりました。蝦夷側も強い自治意識を持ち、断続的に朝廷軍と激しく戦いました。

桓武天皇の東北経営と三十八年戦争

780年ごろから蝦夷との大規模な戦闘が激化し、朝廷は繰り返し遠征軍を送りました。しかし789年の巣伏の戦いでは、アテルイ率いる蝦夷が朝廷軍を大敗させるなど、制圧は容易ではありませんでした。桓武天皇はこの状況を打開するため、軍事的才能に優れた坂上田村麻呂を征夷大将軍に抜擢しました。

徴兵制の弛緩と健児の制

律令制の軍事制度(軍団制)は、農民に徴兵を課すものでしたが、農村疲弊などで機能不全に陥っていました。そこで792年、桓武天皇は東国・西国の多くの軍団を廃止し、地方豪族の子弟から精鋭を選ぶ「健児の制(こんでいのせい)」を導入しました。職業的な武士の原型ともいえるこの制度への転換が、田村麻呂の東北遠征を支える基盤になりました。

平安京遷都との関係

794年の平安京遷都と東北経営は、桓武天皇の二大事業として並行して進められました。遷都の目的には、疫病や政争が相次いだ長岡京(784年遷都)からの脱却のほか、仏教勢力の政治介入を断ち切る狙いもありました。新都の整備と東北遠征は国家の財政・人力を大きく消費し、後代の歴史家から「桓武天皇の強権政治」と評されることもあります。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

征夷大将軍への任命(797年)

≒ 軍の最高司令官ポストの設置

桓武天皇が田村麻呂を「征夷大将軍」に任命。それまでの征東大使・征夷大使に代わる常設に近い最高軍事職。後の鎌倉幕府以降の「将軍」とは別の職だが、名称はここから引き継がれた。

胆沢城の築城(802年)

≒ 敵地の中心に拠点を建設する前進基地戦略

現在の岩手県奥州市付近に胆沢城を築き、それまで陸奥国府の拠点だった多賀城(宮城県)より北側に支配の軸足を移した。胆沢城はその後長く東北支配の中枢となった。

アテルイの降伏と処刑(802年)

≒ 抵抗勢力のリーダーが捕虜として連行される

蝦夷の指導者アテルイ(阿弖流為)と副将モレ(母礼)が降伏し、京都へ連行された。田村麻呂は二人の武勇を称え助命を嘆願したが、朝廷に拒否され河内国で処刑された。

前後のできごと
年表
789
大敗巣伏の戦い。アテルイ率いる蝦夷が朝廷軍を大破する。
792
健児の制軍団制を縮小し、地方豪族子弟を選抜する健児の制を導入。
794
遷都平安京へ遷都。東北経営と並行して新都の整備が始まる。
797
任命坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命される。
802
胆沢城胆沢城を築城。アテルイが降伏・連行後に処刑される。
803
志波城さらに北方(現在の盛岡市付近)に志波城を築く。
結果とその後
結果
胆沢城・志波城の築城によって朝廷の東北支配は大きく進展し、律令国家の版図が拡大した。
長年の東北遠征は国家財政と農民を疲弊させ、桓武天皇晩年には遠征の縮小が余儀なくされた。また蝦夷側の犠牲も大きく、アテルイは現代では地域の英雄として再評価されている。
登場人物
人物

坂上田村麻呂

征夷大将軍

渡来系の家系(東漢氏の末裔とされる)で、武芸に秀でた武将。797年に征夷大将軍となり東北遠征を指揮。アテルイへの助命嘆願でも知られる。

桓武天皇

第50代天皇

794年の平安京遷都と東北経営を二大事業とした天皇。律令制の建て直しを強力に推進したが、その強権ゆえに財政・民力の疲弊も招いた。

アテルイ(阿弖流為)

蝦夷の指導者

789年の巣伏の戦いで朝廷軍を大敗させた蝦夷の英雄。802年に降伏して京都へ連行され処刑された。現代では岩手県の地域的英雄として顕彰されている。

モレ(母礼)

蝦夷の副将

アテルイとともに降伏・連行された蝦夷の幹部。アテルイと同様に処刑された。

キーワード解説
用語
征夷大将軍
蝦夷を征討する最高指揮官の称号。797年の田村麻呂が著名だが、後に鎌倉・室町・江戸幕府の将軍号として引き継がれた。
蝦夷(えみし)
東北地方に住み、朝廷の律令支配の外にいた人々の総称。朝廷側の呼び方であり、自称ではない。
胆沢城(いさわじょう)
802年に田村麻呂が現在の岩手県奥州市付近に築いた城柵。多賀城に代わる東北支配の中枢となった。
健児の制(こんでいのせい)
792年に導入された軍事制度。従来の農民徴兵(軍団制)に代わり、地方豪族の子弟から精鋭を選抜した。武士の原型とも言われる。
城柵(じょうさく)
東北地方に設けられた朝廷の軍事・行政拠点。多賀城・胆沢城・志波城などが代表例。
もっと知りたい
豆知識

1田村麻呂は敵将の命乞いをした

アテルイが降伏して京都に連行されたとき、田村麻呂はその武勇を称え「国家のために役立つ者だから助命してほしい」と朝廷に嘆願した。しかし朝廷の公卿たちは「野蛮人を都に置くのは危険だ」と拒否。アテルイとモレは河内国で処刑された。勇猛な将軍が敵を助けようとしたこの逸話は、武士道的な精神の先駆けとして語り継がれている。

2「征夷大将軍」はのちに幕府の将軍号になった

797年当時の「征夷大将軍」は東北遠征のための臨時的な最高軍事職だった。しかし1192年に源頼朝がこの称号を得て鎌倉幕府を開いて以降、征夷大将軍は「武家政権の最高権力者」を意味する称号として定着した。田村麻呂の頃とは意味合いが大きく変わっている点に注意が必要だ。

3現代のアテルイ再評価

長らく「朝廷に反抗した賊」とされてきたアテルイだが、岩手県では近年「故郷を守った英雄」として顕彰が進んでいる。奥州市には顕彰碑が建てられ、毎年追悼行事も行われる。田村麻呂を祀る京都の清水寺の境内にも、アテルイとモレを顕彰する石碑がある。

4桓武天皇の二大事業の重さ

平安京造営と東北遠征は、国家財政を極度に圧迫した。805年の「徳政相論(徳政論争)」では、藤原緒嗣が「天下の民が苦しむのは軍事(征夷)と造作(造都)である」と論じ、桓武天皇はこれを容れて両事業の中止を決めたとされる(「日本後紀」)。遠征に動員された農民の負担は重く、東北遠征はこうして805年に事実上縮小された。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
797年、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命。語呂は「泣くな(797)田村麻呂」。
802年に胆沢城を築城、蝦夷の指導者アテルイが降伏・処刑。
792年の健児の制(軍団制の縮小)と797年の征夷大将軍任命はセットで押さえる。
平安京遷都(794年)と東北経営(797〜)は桓武天皇の二大事業として並列で出題されやすい。
「征夷大将軍」は後に幕府将軍の称号になるが、797年当時は東北遠征専用の軍事職。
語呂クイズ
「泣くな(797)田村麻呂、征夷大将軍」= 坂上田村麻呂が征夷大将軍には西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 坂上田村麻呂が征夷大将軍になったのは何年ですか?
A. 797年(延暦16年)です。語呂合わせは「泣くな(797)田村麻呂、征夷大将軍」で覚えましょう。
Q. 胆沢城が築かれたのはいつですか?
A. 802年です。田村麻呂が東北遠征中に現在の岩手県奥州市付近に築き、蝦夷の拠点を押さえました。
Q. アテルイとは何者ですか?
A. 東北地方の蝦夷(えみし)の指導者で、789年の巣伏の戦いで朝廷軍を大敗させた人物です。802年に田村麻呂に降伏し、京都に連行後に処刑されました。
Q. 征夷大将軍と鎌倉幕府の将軍は同じですか?
A. 称号は同じですが意味が違います。797年当時は東北遠征の最高指揮官という軍事職でした。1192年に源頼朝が同じ称号を得て以降、武家政権の最高権力者を指す称号に変わりました。
Q. 健児の制とは何ですか?
A. 792年に導入された軍事制度で、農民を徴兵する従来の軍団制を縮小し、地方豪族の子弟から精鋭を選抜する仕組みです。後の武士の原型とも言われます。
まとめ

797年の坂上田村麻呂の征夷大将軍任命は、桓武天皇が推進した「東北平定」の象徴的な出来事です。胆沢城の築城(802年)とアテルイの降伏によって東北支配は大きく前進しましたが、長年の遠征は国家財政と農民を疲弊させました。「征夷大将軍」という称号はのちに武家政権の将軍号として引き継がれ、鎌倉・室町・江戸と続く日本の歴史を貫くキーワードになります。「泣くな(797)田村麻呂」の語呂とともに、794年の平安京遷都とセットで記憶しておきましょう。

編集メモ(ファクト)
征夷大将軍の任命年797年は「延暦16年」に対応する。797年が主流の通説。
アテルイの処刑地は「河内国」(現在の大阪府東部)とされるが、史料により記述に差がある。
健児の制の導入は792年(延暦11年)。軍団制の完全廃止ではなく、東国・西国一部で縮小された。