
797年(延暦16年)、桓武天皇は坂上田村麻呂を「征夷大将軍」に任命しました。征夷大将軍とは、朝廷に従わない東北の人々(蝦夷=えみし)を討伐するための総指揮官です。田村麻呂は翌年から東北へ遠征し、802年には胆沢城(現在の岩手県奥州市付近)を築いて蝦夷の拠点を押さえました。蝦夷の指導者「アテルイ(阿弖流為)」は抵抗を続けましたが、同年ついに降伏。朝廷に連行され処刑されました。この出来事は、律令国家が東北支配を大きく進めた転換点として重要です。
坂上田村麻呂は、敵将「アテルイ」の命乞いをした武将でもある。勇猛な英雄の意外な一面。
坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命された背景には、律令国家が抱えていた二つの大きな課題があります。一つは東北の蝦夷との長い対立、もう一つは律令制を支えた軍事制度の変質です。
蝦夷(えみし)とは、東北地方に住み、朝廷の支配体制(律令制)に組み込まれていなかった人々の総称です。朝廷は「化外の民」と呼んで征服の対象としましたが、東北は肥沃な土地も多く、支配できれば国力増強につながりました。蝦夷側も強い自治意識を持ち、断続的に朝廷軍と激しく戦いました。
780年ごろから蝦夷との大規模な戦闘が激化し、朝廷は繰り返し遠征軍を送りました。しかし789年の巣伏の戦いでは、アテルイ率いる蝦夷が朝廷軍を大敗させるなど、制圧は容易ではありませんでした。桓武天皇はこの状況を打開するため、軍事的才能に優れた坂上田村麻呂を征夷大将軍に抜擢しました。
律令制の軍事制度(軍団制)は、農民に徴兵を課すものでしたが、農村疲弊などで機能不全に陥っていました。そこで792年、桓武天皇は東国・西国の多くの軍団を廃止し、地方豪族の子弟から精鋭を選ぶ「健児の制(こんでいのせい)」を導入しました。職業的な武士の原型ともいえるこの制度への転換が、田村麻呂の東北遠征を支える基盤になりました。
794年の平安京遷都と東北経営は、桓武天皇の二大事業として並行して進められました。遷都の目的には、疫病や政争が相次いだ長岡京(784年遷都)からの脱却のほか、仏教勢力の政治介入を断ち切る狙いもありました。新都の整備と東北遠征は国家の財政・人力を大きく消費し、後代の歴史家から「桓武天皇の強権政治」と評されることもあります。
桓武天皇が田村麻呂を「征夷大将軍」に任命。それまでの征東大使・征夷大使に代わる常設に近い最高軍事職。後の鎌倉幕府以降の「将軍」とは別の職だが、名称はここから引き継がれた。
現在の岩手県奥州市付近に胆沢城を築き、それまで陸奥国府の拠点だった多賀城(宮城県)より北側に支配の軸足を移した。胆沢城はその後長く東北支配の中枢となった。
蝦夷の指導者アテルイ(阿弖流為)と副将モレ(母礼)が降伏し、京都へ連行された。田村麻呂は二人の武勇を称え助命を嘆願したが、朝廷に拒否され河内国で処刑された。
渡来系の家系(東漢氏の末裔とされる)で、武芸に秀でた武将。797年に征夷大将軍となり東北遠征を指揮。アテルイへの助命嘆願でも知られる。
794年の平安京遷都と東北経営を二大事業とした天皇。律令制の建て直しを強力に推進したが、その強権ゆえに財政・民力の疲弊も招いた。
789年の巣伏の戦いで朝廷軍を大敗させた蝦夷の英雄。802年に降伏して京都へ連行され処刑された。現代では岩手県の地域的英雄として顕彰されている。
アテルイとともに降伏・連行された蝦夷の幹部。アテルイと同様に処刑された。
アテルイが降伏して京都に連行されたとき、田村麻呂はその武勇を称え「国家のために役立つ者だから助命してほしい」と朝廷に嘆願した。しかし朝廷の公卿たちは「野蛮人を都に置くのは危険だ」と拒否。アテルイとモレは河内国で処刑された。勇猛な将軍が敵を助けようとしたこの逸話は、武士道的な精神の先駆けとして語り継がれている。
797年当時の「征夷大将軍」は東北遠征のための臨時的な最高軍事職だった。しかし1192年に源頼朝がこの称号を得て鎌倉幕府を開いて以降、征夷大将軍は「武家政権の最高権力者」を意味する称号として定着した。田村麻呂の頃とは意味合いが大きく変わっている点に注意が必要だ。
長らく「朝廷に反抗した賊」とされてきたアテルイだが、岩手県では近年「故郷を守った英雄」として顕彰が進んでいる。奥州市には顕彰碑が建てられ、毎年追悼行事も行われる。田村麻呂を祀る京都の清水寺の境内にも、アテルイとモレを顕彰する石碑がある。
平安京造営と東北遠征は、国家財政を極度に圧迫した。805年の「徳政相論(徳政論争)」では、藤原緒嗣が「天下の民が苦しむのは軍事(征夷)と造作(造都)である」と論じ、桓武天皇はこれを容れて両事業の中止を決めたとされる(「日本後紀」)。遠征に動員された農民の負担は重く、東北遠征はこうして805年に事実上縮小された。

797年の坂上田村麻呂の征夷大将軍任命は、桓武天皇が推進した「東北平定」の象徴的な出来事です。胆沢城の築城(802年)とアテルイの降伏によって東北支配は大きく前進しましたが、長年の遠征は国家財政と農民を疲弊させました。「征夷大将軍」という称号はのちに武家政権の将軍号として引き継がれ、鎌倉・室町・江戸と続く日本の歴史を貫くキーワードになります。「泣くな(797)田村麻呂」の語呂とともに、794年の平安京遷都とセットで記憶しておきましょう。