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大宝律令の制定の浮世絵イラスト
律令国家の完成 ①中学/政治
701

大宝律令の制定

文武天皇・刑部親王・藤原不比等
語呂
覚え方
名を一つ(701)にまとめた大宝律令
な(7)を(0)ひとつ(1)

701年(大宝元年)、文武天皇のもとで刑部親王と藤原不比等が中心となり、大宝律令が完成しました。律(刑法)と令(行政・民事のルール)をあわせもつ本格的な法典で、唐の律令を手本としながら日本の実情に合わせて編んだものです。これにより中央には二官八省、地方には国・郡・里という行政組織が整備され、班田収授法や租・庸・調の税制が法的に確立しました。日本がはじめて一つの法典で国全体を統治する「律令国家」として完成した画期的な出来事です。

この記事のポイント

  • 701年(大宝元年)、文武天皇のもとで刑部親王・藤原不比等らが編纂した律令
  • 律(刑法)と令(行政法・民法)の二本立てで国家運営の全ルールを定めた
  • 唐の律令を手本にしながら日本の実情に合わせて整理した本格的な法典
  • 中央:二官八省、地方:国・郡・里という行政組織を体系化
  • 班田収授法・租庸調など、律令国家の経済基盤を法的に確立した
ここが面白い

唐の律令を手本にしながら、日本独自の事情を盛り込んだ初の本格的な法律体系。これ1冊で国のしくみが全部決まった。

ここに至るまでの流れ
背景

大宝律令は突然生まれたわけではありません。大化の改新(645年)から半世紀以上にわたる改革の積み重ねが、701年の大宝律令という形で結実しました。その流れを見てみましょう。

大化の改新から律令制へ

645年の大化の改新で、蘇我氏を倒した中大兄皇子(のちの天智天皇)らは天皇中心の国づくりを進めました。公地公民制(土地と人民を国家が管理する考え方)を掲げ、改革を推し進めましたが、法的な裏付けとなる本格的な法典はまだありませんでした。

壬申の乱と天武・持統天皇の改革

672年の壬申の乱に勝った天武天皇は、皇権の強化に力を注ぎました。飛鳥浄御原令(689年に施行)などを整備し、律令国家の土台を少しずつ固めていきます。その後を継いだ持統天皇も改革を継続し、次世代の文武天皇へ引き継ぎました。

唐の律令を手本に

日本が参考にしたのは、当時アジアで最も進んだ統治制度をもつ唐(中国)の律令でした。遣唐使を通じて制度や文化を学び、それを日本の実情に合わせて作り直したのが大宝律令です。完成した翌702年には遣唐使が派遣され、唐に「日本」という国号と律令国家としての体制を示しました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

律(刑法)の制定

≒ 犯罪と刑罰のルールブック

殺人・窃盗・反逆などの罪に対する刑罰を定めた法。笞・杖・徒・流・死という五刑が基本。唐律を参考にしつつ日本向けに調整された。

令(行政・民法)の制定

≒ 国の組織と国民の義務のルールブック

中央に太政官と神祇官(二官)、その下に八省を置く行政組織を確立。地方は国・郡・里に分け、国司・郡司・里長が統治する体制を整えた。

班田収授法と租庸調の確立

前後のできごと
年表
645
大化の改新乙巳の変で蘇我氏を倒し、天皇中心の国づくりが始まる。翌646年に改新の詔を発布。
663
白村江の戦い百済救援のため朝鮮半島へ出兵するも唐・新羅連合軍に大敗。九州に防衛施設を整備。
672
壬申の乱大海人皇子(天武天皇)が大友皇子を破る。天武朝のもとで皇権強化が一気に進む。
689
飛鳥浄御原令天武天皇が着手し、持統天皇のもとで施行された令(刑法部分は未整備)。
701
大宝律令文武天皇のもと、刑部親王・藤原不比等らが律と令をあわせた本格的な法典を完成させる。
708
和同開珎律令体制のもとで日本初の流通貨幣が鋳造される。
710
平城京遷都元明天皇が奈良の平城京へ遷都。律令国家の首都として整備が進む。
718
養老律令藤原不比等らが大宝律令を改訂した養老律令を編纂(施行は757年)。
結果とその後
結果
日本が初めて「律令」という統一法典で統治される国家体制を整え、天皇を頂点とする中央集権国家が完成した。
班田収授は6年ごとの戸籍作成が前提で手間がかかり、のちに実態が崩れていく。墾田永年私財法(743年)など律令の崩壊へとつながる制度的矛盾も内包していた。
登場人物
人物

文武天皇

第42代天皇

持統天皇の孫。大宝律令完成時の天皇で、年号「大宝」を制定した。律令国家完成の象徴的存在。

刑部親王

編纂の中心人物(皇族)

天武天皇の皇子。律令編纂事業のトップとして指揮した。

藤原不比等

編纂の中心人物(臣下)

藤原鎌足の次男。律令の実務的な取りまとめを担い、のちの藤原氏全盛の基盤をつくった。

持統天皇

前天皇(改革を推進)

天武天皇の皇后。飛鳥浄御原令を施行し、律令国家への道を開いた。

キーワード解説
用語
律令
律(刑罰のルール)と令(行政・民事のルール)をあわせた法典の総称。唐で発達し、日本・朝鮮・ベトナムなどに広まった。
二官八省
大宝律令が定めた中央行政組織。太政官(政治全般)と神祇官(神事・祭祀)の二官、その下に式部省・兵部省など八つの省を置いた。
国・郡・里
地方行政の三段階。国は国司(中央から派遣)、郡は郡司(地方の豪族)、里は里長が統治した。
班田収授法
6年ごとに作成する戸籍にもとづき、6歳以上の人民に口分田(田んぼ)を支給し、死後は国に返させるしくみ。
租庸調
律令の税制。租=収穫の一部を稲で納める、庸=都での労役(または布で代納)、調=地方の産品(絹・麻・海産物など)を納める。
もっと知りたい
豆知識

1「大宝」は日本初の元号のひとつ

大宝律令が完成した701年は、元号「大宝」が定められた年でもある。日本で元号が定着するのはこのころからで、律令体制と元号制度は表裏一体の関係にある。

2律令の原本は現存しない

大宝律令の原本は失われており、現在は後世の書物に引用された断片からしか内容を知ることができない。改訂版にあたる養老律令(718年編纂・757年施行)の方が後世に多く残った。

3藤原不比等は「令」の設計者

不比等は律令の中でも「令」(行政・民事)の実務立案に深く関わったとされる。この功績が藤原氏の地位を確立し、のちの摂関政治への道を開く礎となった。

4遣唐使で「日本」という国号を宣言

大宝律令完成の翌702年、遣唐使が唐に渡り「日本」という国号を正式に使用したとされる。律令国家として整備された日本が、対外的にも新たな姿を示した瞬間だった。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
制定年は701年(大宝元年)。語呂は「名を一つ(701)にまとめた大宝律令」。
中心人物は刑部親王と藤原不比等。文武天皇のもとで完成した。
律=刑法、令=行政法・民法。セットで覚えること。
中央は二官八省、地方は国・郡・里という行政組織を確立した。
税制は租(稲)・庸(労役)・調(産物)の三種類。租庸調と略して覚える。
飛鳥浄御原令(689年)との違い:大宝律令は律(刑法)も含む本格的な律令である点が重要。
語呂クイズ
「名を一つ(701)にまとめた大宝律令」= 大宝律令の制定は西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 大宝律令はだれが作りましたか?
A. 文武天皇のもとで、刑部親王と藤原不比等が中心となって編纂しました。
Q. 律令とは何ですか?
A. 律(刑罰のルール)と令(行政・民事のルール)をあわせた法典の総称です。唐の制度を参考にした、国を動かすための総合的な法律体系です。
Q. 大宝律令と飛鳥浄御原令はどう違いますか?
A. 飛鳥浄御原令(689年施行)は「令」だけで刑法部分(律)がなく、本格的な律令ではありませんでした。大宝律令は律と令の両方を備えた日本初の本格律令です。
Q. 大宝律令のあと、律令はどうなりましたか?
A. 718年に藤原不比等らが養老律令を編纂し、757年に施行されました。その後も律令は維持されましたが、墾田永年私財法(743年)など新たな制度が加わり、律令制は徐々に変質していきました。
Q. 租庸調はどう違いますか?
A. 租は稲の収穫を国に納める税、庸は都での労働(または布で代納)、調は地方の絹・麻・海産物などの産物を納める税です。三つをセットで「租庸調」と覚えましょう。
まとめ

大宝律令の制定は、大化の改新から半世紀以上をかけて積み上げてきた改革の「集大成」です。律(刑法)と令(行政・民法)がそろって初めて、日本は本物の律令国家になりました。二官八省・国郡里・租庸調というキーワードはすべてここから始まります。「名を一つ(701)にまとめた大宝律令」の語呂とともに、日本の国家体制が一つの法典で統一された歴史的な転換点として押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
「なんと」の語呂は平城京遷都(710年)と重複するため、本記事では events.json に準拠し「名を一つ(701)」を使用している。
大宝律令の原本は現存せず、内容は後世の史料から復元されている。記事中の制度記述は通説に基づく。
律令の施行時期・細部については諸説あるため、断定を避けた表現を用いている箇所がある。