
藤原不比等
ふじわらの・ふひと 659–720 / 飛鳥〜奈良・公家
律令国家を築いた藤原氏の祖基本データ
- よみ
- ふじわらの・ふひと
- 生没年
- 659–720
- おもな地位
- 右大臣
- 父
- 藤原鎌足
- 子
- 武智麻呂・房前・宇合・麻呂(藤原四子)
- 娘
- 宮子(文武天皇夫人)・光明子(聖武天皇皇后)
- 縁者
- 藤原氏繁栄の祖
どんな人?
藤原不比等(ふじわらのふひと)は、飛鳥から奈良時代にかけて律令国家の骨組みをつくった公卿で、藤原氏繁栄の基礎を築いた人物です。藤原鎌足の子で、後の藤原氏全盛の土台をつくりました。
701年の大宝律令の編纂で実務の中心を担い、続く養老律令の編纂も主導するなど、律令による制度設計を牽引しました。右大臣として国政の要にあり、708年の和同開珎の鋳造や710年の平城京への遷都といった律令国家の重要事業を支えました。
720年に没しましたが、その直後に出された三世一身法(723年)にも、不比等が築いた律令体制の流れが及んでいます。娘を天皇家に嫁がせるなど、藤原氏が朝廷で力を伸ばす道筋をつくった立役者でした。
おもな業績・つくったもの
- 大宝律令の編纂で中心を担う(701年)律(刑法)と令(行政法)からなる本格的な法典の編纂を主導した。二官八省の中央組織を整え、律令国家の骨格を固めた。
- 養老律令の編纂を主導大宝律令に続く養老律令の編纂を主導した。後に孫の仲麻呂の手で施行され、律令の整備がさらに進んだ。
- 和同開珎の鋳造(708年)律令国家初の本格的な流通貨幣の鋳造を支えた。皇朝十二銭の第一で、貨幣経済の導入を進めた。
- 平城京への遷都を支える(710年)唐の長安を手本とした条坊制の都・平城京への遷都を支えた。奈良時代の政治・文化の中心地となった。
- 娘を天皇家に嫁がせ藤原氏繁栄の礎を築く娘を天皇や皇族に嫁がせ、外戚として朝廷に地歩を築いた。子孫が摂関家として栄える藤原氏繁栄の礎となった。
生涯のあゆみ(年表)
ゆかりの地
興福寺奈良県藤原氏の氏寺で、不比等が平城京遷都にあわせて現在地に移したと伝わる
豆知識
律令の「令」を設計した実務家
不比等は大宝律令のうち行政・民事を定める「令」の立案に深く関わったとされる。この功績が藤原氏の地位を固め、後の摂関政治への礎となった。
娘・孫を通じて皇室と結ぶ
不比等は娘を天皇の后に入れ、外戚として朝廷での影響力を高めた。血縁で権力に近づく手法は、後の藤原氏繁栄の原型となった。
娘は聖武天皇の皇后・光明子
不比等の娘・光明子は臣下の家柄から初めて皇后となった光明皇后で、外戚として藤原氏の地位を大きく高めた。
人物相関
藤原不比等
父藤原鎌足子藤原武智麻呂子藤原房前娘光明皇后(光明子)
よくある質問
藤原不比等は何をした人?
飛鳥から奈良時代の公卿で、藤原鎌足の子です。大宝律令や養老律令の編纂を主導して律令国家の骨組みをつくり、右大臣として平城京遷都などを支えました。娘を天皇家に嫁がせ、藤原氏繁栄の基礎を築きました。
藤原不比等と藤原鎌足はどんな関係?
不比等は中臣鎌足(藤原鎌足)の子です。父が受けた「藤原」の姓を継ぎ、律令の整備と外戚政策によって、後の藤原氏全盛の土台を築きました。