飛鳥時代の権力闘争高校/戦乱
672
壬申の乱
大海人皇子(のちの天武天皇)・大友皇子
語呂
覚え方
胸に刻む壬申の乱
胸(むな=6・7)に(に=2)→672
672年(壬申の年)、天智天皇の死後に起きた皇位争い、それが壬申の乱です。弟の「大海人皇子」が甥の「大友皇子」を破り、翌年「天武天皇」として即位しました。この乱をきっかけに、天皇中心の強力な中央集権体制が本格的に動き出します。八色の姓(684年)・飛鳥浄御原令の編纂・藤原京遷都(694年)と続く国家整備の出発点です。語呂は「胸に(672)刻む壬申の乱」。
この記事のポイント
- 672年、天智天皇の死後に皇位継承をめぐる内乱が勃発
- 弟「大海人皇子」vs 甥「大友皇子(弘文天皇)」の争い
- 大海人皇子が東国の豪族を味方につけて勝利し、翌673年に天武天皇として即位
- 大友皇子は敗れ自害(近江朝廷の崩壊)
- 天武・持統朝で八色の姓(684年)・飛鳥浄御原令・藤原京(694年)と中央集権が加速
ここが面白い「出家して吉野に隠れた」のに、天下を取ったのはその出家した側だった。
壬申の乱は突然起きたわけではありません。大化の改新(645年)以来続いてきた皇族・豪族の権力争いが、天智天皇の死という空白をきっかけに一気に爆発したものです。この乱に至る経緯を整理しましょう。
大化の改新から天智天皇へ
645年の大化の改新では、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足が蘇我氏を倒し、公地公民制への転換を進めました。663年の白村江の戦いで百済救援に失敗すると、唐・新羅の侵攻に備えた防衛強化が急務となり、天智天皇は近江(現在の滋賀県)に都を移して近江令を制定するなど改革を推し進めました。
後継問題と大海人皇子の出家
天智天皇には後継候補として弟の大海人皇子と、息子の大友皇子がいました。671年、重病となった天智天皇は大海人皇子に後を継ぐよう打診したとも伝わりますが、大海人皇子はこれを断り、出家して吉野(現在の奈良県)に隠居します。これは一見「政治からの引退」に見えましたが、実際には東国豪族との連絡を保ちながら機を待つ行動でした。
天智天皇の崩御と乱の勃発
671年末に天智天皇が亡くなり、大友皇子が近江朝廷の実権を握ります。しかし翌672年、大海人皇子が吉野から挙兵。東国の有力豪族(尾張・美濃・伊勢など)が次々と合流し、大きな軍事力を持つ近江朝廷を短期間で圧倒しました。
乱の結末と天武天皇の誕生
大友皇子は近江で敗れ、自害して果てます(672年8月)。大海人皇子は翌673年、飛鳥浄御原宮で「天武天皇」として即位しました。古代最大規模の内乱は、わずか1〜2か月で決着がつきました。
東国豪族の結集
≒ 地方の支持者を取り込んだ政治戦略大海人皇子は挙兵後すぐに東国へ使者を送り、尾張・美濃・伊勢などの豪族を味方につけた。近江朝廷の軍より早く大軍を編成できたことが勝因。
近江朝廷の崩壊
≒ 既存政府の瓦解天智天皇が整備した近江朝廷(近江大津宮)は大友皇子の自害とともに終わり、都は再び飛鳥へ戻った。
天皇権力の飛躍的強化
≒ 中央集権国家への転換点天武天皇は貴族・豪族より天皇を明確に上位に置く体制を整えた。684年の八色の姓制定、飛鳥浄御原令の編纂、694年の藤原京遷都がその成果。
645改新大化の改新。中大兄皇子(のちの天智天皇)が蘇我氏を倒し、公地公民制の改革を開始。
663白村江白村江の戦いで日本・百済連合軍が唐・新羅に大敗。防衛強化が急務となる。
667遷都天智天皇が近江(大津)に遷都し、近江大津宮を置く。
671出家大海人皇子は出家して吉野へ退く。同年末に天智天皇が崩御し、大友皇子が近江朝廷の実権を握る。
672壬申の乱大海人皇子が吉野から挙兵。東国豪族を糾合し、大友皇子を破る。大友皇子は自害。
673天武即位大海人皇子が飛鳥浄御原宮で天武天皇として即位。
684八色の姓天武天皇が八色の姓を制定。天皇中心の身分秩序を確立。
694藤原京持統天皇が藤原京へ遷都。律令国家の都城が本格整備される。
701大宝律令大宝律令が完成。壬申の乱以来の中央集権整備が法制面で完結。
◎天武天皇が即位し、天皇権力を豪族の上位に置く律令国家の基盤が整えられた。八色の姓・飛鳥浄御原令・藤原京と改革が連鎖した。
△この乱で多くの皇族・豪族が死傷または没落した。また大友皇子は長く「反乱者」扱いで、明治3年(1870年)に初めて「弘文天皇」の追号が贈られた。
大海人皇子(天武天皇)
勝者・乱後に天武天皇として即位天智天皇の弟。吉野から挙兵し東国豪族を結集。673年即位後は強力な天皇権力を確立した。
大友皇子(弘文天皇)
敗者・近江朝廷の主天智天皇の息子。近江朝廷を率いたが軍事的に敗北し自害。明治3年に「弘文天皇」の追号を贈られた。
天智天皇(中大兄皇子)
乱の引き金となった先代天皇大化の改新を主導。後継を定めないまま671年に崩御したことが乱の遠因とされる。
持統天皇
天武天皇の皇后・後継者天武天皇の没後に即位し、飛鳥浄御原令の施行・藤原京遷都(694年)を実現。律令国家完成に貢献。
- 壬申の乱
- 672年(壬申の年)に起きた皇位継承をめぐる古代最大規模の内乱。大海人皇子と大友皇子の争い。
- 八色の姓(やくさのかばね)
- 684年に天武天皇が制定した身分制度。真人・朝臣・宿禰など8段階の称号で豪族を再編し、天皇との距離で序列をつけた。
- 飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)
- 天武天皇が着手し持統天皇のもとで689年に施行された最初の令。律令国家確立の先駆け。
- 藤原京
- 694年に持統天皇が遷都した都。唐の長安を模した本格的な都城で、710年の平城京遷都まで使われた。
- 近江大津宮(おうみおおつのみや)
- 天智天皇が667年に置いた都。壬申の乱で大友皇子が敗れると廃都となり、飛鳥に戻った。
1「出家・逃亡」に見せた電撃作戦
大海人皇子は671年末に吉野へ退くとき、袈裟を身にまとい出家の形をとった。これにより近江朝廷は「もはや政治的脅威ではない」と油断したといわれる。翌年挙兵の情報が届いたとき、大友皇子側はすでに軍事態勢の立ち上げが遅れていた。
2乱の期間はわずか約2か月
挙兵(672年7月)から大友皇子の自害(同8月)まで、わずか1〜2か月で決着がついた。東国豪族の素早い合流が圧倒的な兵力差を生み出した結果とされる。
3大友皇子に「天皇号」が贈られたのは明治時代
壬申の乱で敗れた大友皇子は長らく正式な天皇として認められていなかった。明治3年(1870年)、政府が歴代天皇を整理した際に初めて「弘文天皇」の追号が贈られ、39代天皇として数えられるようになった。
4干支が乱の名前になっている
「壬申(じんしん)」は干支(十干十二支)の組み合わせで、672年がその年にあたる。古代の乱や変は「乙巳の変(645年)」「壬申の乱(672年)」のように干支で呼ばれることが多い。
5天武天皇は「日本」という国号を定めた
「日本」という国号と「天皇」という称号が公式に使われ始めたのは、天武天皇の時代とされる(大宝律令(701年)で法的に確定)。壬申の乱での勝利が、現在まで続く「日本」「天皇」という枠組みをつくる礎になった。

ここが出る博士のワンポイント
壬申の乱は672年。語呂は「胸に(672)刻む壬申の乱」。
勝者は「大海人皇子」→翌673年に「天武天皇」として即位。取り違え厳禁。
敗者は「大友皇子」(天智天皇の息子)。明治3年に弘文天皇の追号。
乱後の流れ:八色の姓(684)→飛鳥浄御原令施行(689)→藤原京(694)→大宝律令(701)。
大化の改新(645)→白村江の戦い(663)→壬申の乱(672)→大宝律令(701)の流れを押さえる。
語呂クイズ
「胸に刻む壬申の乱」= 壬申の乱は西暦何年?
- Q. 壬申の乱はいつ起きましたか?
- A. 672年(壬申の年)です。語呂合わせは「胸に(672)刻む壬申の乱」。
- Q. 壬申の乱で勝ったのは誰ですか?
- A. 大海人皇子(おおあまのおうじ)です。乱に勝利し、翌673年に天武天皇として即位しました。
- Q. 大友皇子と大海人皇子の関係は?
- A. 大友皇子は天智天皇の「息子」、大海人皇子は天智天皇の「弟」です。つまり甥(大友)vs 叔父(大海人)の争いです。
- Q. 壬申の乱はなぜ起きたのですか?
- A. 天智天皇が亡くなった後、皇位を誰が継ぐかをめぐって、息子の大友皇子と弟の大海人皇子が争ったためです。
- Q. 壬申の乱の後、何が変わりましたか?
- A. 天武天皇が即位し、天皇権力が大幅に強化されました。八色の姓(684年)・飛鳥浄御原令・藤原京遷都(694年)・大宝律令(701年)と続く律令国家の基盤が整えられました。
- Q. 大友皇子はなぜ「弘文天皇」と呼ばれるのですか?
- A. 壬申の乱で敗れた大友皇子は長く正式な天皇として認められませんでしたが、明治3年(1870年)に政府が「弘文天皇」という追号を贈り、39代天皇として数えるようになったためです。
壬申の乱は「甥vs叔父の骨肉の争い」という側面だけでなく、その後の日本の形を決定づけた一大転換点です。大海人皇子(天武天皇)の勝利により、天皇を頂点とする中央集権体制が本格化。八色の姓・飛鳥浄御原令・藤原京・大宝律令と矢継ぎ早に制度が整備され、「日本」という国号と「天皇」という称号も定着していきます。語呂「胸に(672)刻む壬申の乱」とともに、「勝者=大海人皇子→天武天皇」「敗者=大友皇子」を絶対に取り違えないようにしましょう。
編集メモ(ファクト)
大友皇子の弘文天皇追号は明治3年(1870年)。試験では「敗れた側」として問われることが多い。
藤原京遷都は持統天皇(694年)。天武天皇(673〜686年在位)没後の出来事のため混同注意。
飛鳥浄御原令の施行は689年(持統天皇のもと)、令の「編纂着手」は天武天皇時代。