飛鳥時代の改革 ②中学/政治
604
十七条の憲法
聖徳太子(厩戸王)/推古天皇の摂政
語呂
覚え方
群れよ(604)役人、十七条
む(6)れ(0)よ(4)
604年(推古12年)、推古天皇の摂政を務めていた聖徳太子(厩戸王)が十七条の憲法を定めたとされています。これは国民を縛る法律ではなく、朝廷に仕える役人や豪族が守るべき心得を17か条にまとめたものです。第一条の「和を以て貴しとなす」に始まり、仏教の尊重・天皇への服従・役人としての正しいあり方などが説かれました。翌年(607年)には遣隋使として小野妹子を派遣し、中国(隋)の進んだ制度を積極的に取り入れながら、豪族中心の社会から天皇中心の国づくりを目指していきます。
この記事のポイント
- 604年、聖徳太子(厩戸王)が十七条の憲法を定めたとされる
- 役人・豪族が守るべき道徳的な訓戒を17か条で示したもの
- 第一条「和を以て貴しとなす」が有名。仏教の尊重と天皇への服従も明記
- 「憲法」という名だが現代の憲法(国家の最高法規)とは性格が異なる
- 前年603年の冠位十二階・翌607年の遣隋使と合わせて、天皇中心の国家形成の一環
ここが面白い「憲法」という名がついているが、国民の権利を守る現代の憲法とは別物。役人への「道徳の教科書」だった。
十七条の憲法は、突然生まれたわけではありません。6世紀から7世紀にかけて、日本では仏教が広まり、中国の先進的な制度が流入し始めていました。その流れのなかで聖徳太子は、豪族たちの争いを抑えて天皇中心の秩序をつくろうと、さまざまな改革を打ち出していきます。
蘇我氏と物部氏の対立
6世紀の日本では、有力豪族の蘇我氏と物部氏が激しく争っていました。その対立軸の一つが仏教の受け入れをめぐるものです。蘇我氏は仏教を受け入れ、物部氏はこれを排除しようとしました。587年に蘇我馬子が物部守屋を滅ぼし、蘇我氏の優位が確定します。
仏教伝来と推古朝の発足
538年(538年説。552年説もある)に仏教が百済から伝来し、日本社会に新たな思想と文化をもたらしました。592年に推古天皇が即位すると、翌593年に聖徳太子が摂政となります。聖徳太子は篤く仏教に帰依し、四天王寺・法隆寺の建立に関わったとされます。
603年の冠位十二階
十七条の憲法の前年にあたる603年、聖徳太子は冠位十二階の制度を設けたとされます。これは家柄ではなく個人の才能・功績によって役人を登用するしくみで、豪族の世襲的な権力に制限を加えるものでした。十七条の憲法はこの冠位十二階とセットで、天皇中心の官僚制度を整えようとした取り組みと理解されています。
隋という「大国」の存在
中国では589年に隋が中国を統一し、強大な中央集権国家をつくり上げていました。この強国の仕組みを学ぶために、聖徳太子は607年に小野妹子を遣隋使として派遣します。十七条の憲法に込められた天皇尊重の思想は、こうした中国の中央集権体制への関心と深く結びついています。
「和を以て貴しとなす」(第一条)
≒ チームワークを最優先せよみんながまとまって協力することを最も大切にせよ、という訓戒。豪族どうしの争いを抑え、朝廷の秩序を保つことを狙っていた。
仏教の尊重(第二条)
≒ 国の公式宗教として仏教を推進三宝(仏・法・僧)を篤く敬うよう命じた。仏教を精神的な柱として国家統治に活用しようとした。
天皇への服従(第三条)
≒ トップの命令には必ず従え天皇の命令には必ず従うよう定めた。豪族が独自に権力をふるう慣行に歯止めをかけ、天皇を頂点とする秩序を打ち立てようとした。
538仏教伝来百済から仏教が伝わる(538年説。552年説もある)。蘇我氏が受容を推進。
587蘇我氏の台頭蘇我馬子が物部守屋を滅ぼし、朝廷内での権力を固める。
593聖徳太子が摂政に推古天皇が即位し、翌年から聖徳太子(厩戸王)が摂政として政治を主導。
603冠位十二階家柄ではなく才能・功績で役人を登用する冠位十二階の制を設けたとされる。
604十七条の憲法役人・豪族が守るべき17か条の訓戒を定めたとされる。
607遣隋使小野妹子を遣隋使として隋に派遣。「日出づる処の天子…」の国書を携えたとされる。
645大化の改新中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我氏を倒し、天皇中心の改革を本格化(乙巳の変)。
701大宝律令十七条の憲法の精神を引き継ぎ、律令という成文法で国家体制が整備される。
◎天皇を頂点とする秩序の基礎が文書として明示され、翌607年の遣隋使・645年の大化の改新、さらに大宝律令(701年)へとつながる律令国家形成の出発点となった。
△あくまで役人への道徳訓戒であり、法的な強制力を持つ近代的な意味での「法律」ではなかった。豪族の勢力を根本から排除するには至らず、実際の権力争いはその後も続いた。
聖徳太子(厩戸王)
推古天皇の摂政実在・業績については学術的な議論があるが、飛鳥時代の政治改革の中心人物として伝えられる。
推古天皇
日本初の女性天皇(在位592〜628年)聖徳太子の叔母にあたる。聖徳太子を摂政に任命し、ともに政治改革を推進したとされる。
蘇我馬子
大臣(おおおみ)・有力豪族聖徳太子と協力して政治を動かした。強大な権力を持つ一方、天皇権力の強化とは対立する面もあった。
小野妹子
遣隋使(607年・608年派遣)十七条の憲法の3年後、隋への使節として中国に渡る。隋の制度・文化を日本に持ち帰った。
- 十七条の憲法
- 604年に聖徳太子が定めたとされる、役人・豪族への17か条の訓戒。現代の憲法とは異なり道徳的な心得をまとめたもの。
- 摂政
- 天皇が幼少・女性などで政務を行えない場合に代わって政治をとる役職。聖徳太子は推古天皇の摂政を務めた。
- 冠位十二階
- 603年に定めたとされる、家柄でなく才能・功績に応じて役人の位を定める制度。十七条の憲法とセットで天皇中心の政治を目指した。
- 遣隋使
- 推古朝が中国(隋)に派遣した使節。607年の小野妹子が有名で、先進の制度・文化を日本に持ち帰ることを目的とした。
- 豪族
- 地方で強い軍事・経済力を持つ有力な一族。蘇我氏・物部氏・大伴氏などが代表例。律令制が整うまでは天皇権力と拮抗する存在だった。
1「憲法」なのに国民の権利は一切登場しない
現代の憲法は「国民の権利を守るために国家権力を縛るもの」だが、十七条の憲法は逆に「役人・豪族が権力者(天皇)に従うべきこと」を説く訓戒集。「憲法」という同じ言葉でも、意味がまったく違う。
2第一条は論語が元ネタ?
「和を以て貴しとなす」は中国の古典『論語』(有子の言葉)に由来するとされる。聖徳太子が中国の思想に通じていたことを示す一例とも言われるが、この点も研究者の間で議論がある。
3「日出づる処の天子」発言で隋の皇帝が激怒?
607年の遣隋使が携えた国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」とあったとされ、対等外交を主張したとして隋の煬帝が不快感を示したと伝えられる(日本書紀による)。十七条の憲法に込められた天皇権威の高揚が、対外姿勢にも表れた例として語られる。
4本当に聖徳太子が書いたの?
十七条の憲法は日本書紀(720年成立)に記載されているが、604年当時の原典は現存しない。内容・文体・成立年代などをめぐり「後世の創作・加筆では」という学術的な議論がある。教科書では「定めたとされる」と慎重な表現が増えている。

ここが出る博士のワンポイント
年号は604年。語呂は「群れよ(604)役人、十七条」。
制定者は聖徳太子(厩戸王)。推古天皇の摂政として政務を主導した。
前年603年の冠位十二階・翌607年の遣隋使(小野妹子)とセットで覚える。
役人・豪族への道徳的訓戒。現代の憲法(国民の権利を守る最高法規)と性格が異なる点を押さえる。
第一条「和を以て貴しとなす」、第二条(仏教尊重)、第三条(天皇への服従)が頻出。
語呂クイズ
「群れよ(604)役人、十七条」= 十七条の憲法は西暦何年?
- Q. 十七条の憲法は誰が作りましたか?
- A. 聖徳太子(厩戸王)が604年に定めたとされています。ただし実際の制定者・制定年については学術的な議論があります。
- Q. 現代の憲法と何が違うのですか?
- A. 現代の憲法は国民の権利を守るために国家権力を縛るものですが、十七条の憲法は朝廷の役人や豪族が守るべき道徳的な心得をまとめたものです。法的な強制力を持つ近代的な法律とは性格が異なります。
- Q. 「和を以て貴しとなす」とはどういう意味ですか?
- A. 「みんながまとまって協力することを何より大切にせよ」という意味です。豪族どうしの争いを抑え、天皇中心の秩序を保とうとする意図が込められていたと解釈されています。
- Q. 冠位十二階と十七条の憲法の違いは何ですか?
- A. 冠位十二階(603年)は役人の位を家柄でなく才能・功績で定める「制度」、十七条の憲法(604年)は役人が守るべき心得を示した「訓戒」です。どちらも天皇中心の政治体制を目指す改革の一環でした。
- Q. 十七条の憲法のあとに何が起きましたか?
- A. 翌607年に小野妹子を遣隋使として中国(隋)に派遣し、先進の制度・文化を学びました。さらに645年の大化の改新・701年の大宝律令へと続き、律令国家の形成が本格化していきます。
十七条の憲法は、「憲法」という名前に惑わされないことが大切です。これは国民の権利を保障する近代的な意味の憲法ではなく、役人や豪族への道徳的な訓戒集でした。第一条「和を以て貴しとなす」に代表される17か条を通じて、聖徳太子は天皇を頂点とする秩序の形成を目指しました。前年の冠位十二階・翌年の遣隋使とあわせて「飛鳥時代の三大改革」として押さえ、「群れよ(604)役人、十七条」の語呂とともに年号をしっかり記憶しておきましょう。
編集メモ(ファクト)
十七条の憲法の制定(604年)・作者(聖徳太子)・内容については、日本書紀(720年成立)を根拠とするが、同時代の原典は現存しない。「後世の加筆・創作の可能性」を指摘する研究者もおり、記事中では「〜とされる」「〜と伝えられる」と断定を避けた。
聖徳太子(厩戸王)の実在性や事績についても学術的議論があるため、同様に断定表現を避けている。
仏教伝来年については538年説(戊午説)を採用。552年説(壬申説・日本書紀記載)もあることを background では触れず、0538-bukkyo-denrai 記事に委ねる形とした。