
蘇我馬子
そがの・うまこ ?–626 / 飛鳥・公家
仏教を広めた飛鳥の大臣基本データ
- よみ
- そがの・うまこ
- 生没年
- ?–626
- 父
- 蘇我稲目
- おもな地位・役職
- 大臣(おおおみ)
- 立場
- 崇仏派の中心
どんな人?
蘇我馬子(そがの・うまこ)は、飛鳥時代に大臣(おおおみ)として絶大な権力を握り、仏教を広めた豪族です。蘇我稲目の子で、崇仏をめぐって対立した排仏派の物部守屋を587年の丁未の乱で滅ぼし、仏教の国家的な受容を決定づけました。飛鳥寺(法興寺)の建立でも知られます。
593年に推古天皇が即位すると、その姪にあたる関係のもとで、摂政となった聖徳太子と協力して政治を運営しました。603年の冠位十二階、604年の十七条の憲法もこの推古朝の改革として行われています。ただし強大な蘇我氏の権力は、天皇中心の国家づくりとは緊張をはらむ面もありました。
おもな業績・つくったもの
- 物部守屋を滅ぼす(587年)崇仏派の中心として、排仏派の物部守屋を丁未の乱で滅ぼし、仏教受容の道を決定づけたとされる。
- 飛鳥寺(法興寺)を建立本格的な伽藍を備えた初期寺院の一つを建立したと伝わる。蘇我氏による仏教興隆の象徴とされる。
- 仏教の興隆を推進大臣として仏教の受容・保護を進め、飛鳥文化における仏教を政治・文化の柱に据えたとされる。
- 推古天皇のもと大臣として政治を主導推古天皇のもとで大臣として権力を握り、摂政の聖徳太子と協力して政治を運営したと伝わる。
生涯のあゆみ(年表)
- 587丁未の乱で排仏派の物部守屋を滅ぼす
- 593推古天皇のもと大臣として政治を主導する解説を見る →
ゆかりの地
飛鳥寺(法興寺)奈良県蘇我馬子が建立した寺
石舞台古墳奈良県蘇我馬子の墓との説がある巨石古墳
豆知識
守屋を討った崇仏派
587年、蘇我馬子は廃仏派の物部守屋を武力で討ち、仏教受容の道を開いた。この戦いには若き聖徳太子も馬子側で参戦したと伝わる。
太子とは協力関係だった
物語で悪役にされがちだが、馬子と聖徳太子は仏教振興という共通目標で長く協力した。蘇我氏と天皇家の対立が深まるのは入鹿の時代からである。
石舞台古墳との関わり
奈良県明日香村の石舞台古墳は、蘇我馬子の墓ではないかとする説がある。巨大な石を組んだ横穴式石室が露出した独特の姿で知られる。
人物相関
蘇我馬子
よくある質問
蘇我馬子は何をした人?
飛鳥時代に大臣として権力を握り、仏教を広めた豪族です。587年に排仏派の物部守屋を滅ぼして仏教受容を決定づけ、推古天皇のもとで聖徳太子と協力して政治を運営しました。飛鳥寺の建立でも知られます。
蘇我馬子と物部守屋の対立とは?
仏教を受け入れるかどうかをめぐる争いです。崇仏派の蘇我馬子と、在来の神々を守ろうとする排仏派の物部守屋が対立し、587年の戦いで馬子が勝利しました。
飛鳥寺とは?
蘇我馬子が建立した寺で、法興寺とも呼ばれます。本格的な伽藍を備えた日本初期の寺院の一つで、蘇我氏の仏教興隆の象徴とされます。