
聖徳太子
- よみ
- しょうとくたいし
- 生没年
- 574–622
- 別名
- 厩戸皇子(うまやどのおうじ)・厩戸王
- おもな地位
- 推古天皇の摂政
- 父
- 用明天皇
- 母
- 穴穂部間人皇女
- 縁者
- 叔母に推古天皇
どんな人?
聖徳太子(しょうとくたいし)は、飛鳥時代に推古天皇の摂政として政治改革を進めた皇族です。用明天皇の皇子で、厩戸皇子とも呼ばれ、「聖徳太子」は後世に贈られた呼び名とされます。593年に叔母である推古天皇の摂政となり、内政・外交の中心を担いました。
仏教や儒学に通じ、天皇を中心とする国家体制の確立を目指しました。603年には家柄によらず個人の才能で人材を登用する冠位十二階を定め、翌604年には役人の心得を示す十七条の憲法を制定したと伝えられます。
また小野妹子を隋へ遣わす遣隋使を派遣し、中国の進んだ制度や文化を取り入れようとしました。蘇我馬子と協力して政治を動かした聖徳太子の改革は、のちの律令国家へとつながる飛鳥政治の礎となりました。
おもな業績・つくったもの
- 推古天皇の摂政として政務を主導(593年)推古天皇に代わり政令を発し、外交・内政の実務を一元的に担った。天皇の権威を盾に豪族の自立を抑えようとした。
- 冠位十二階を制定し個人の才能で人材登用(603年)世襲の氏姓に代え、才能・功績に応じて個人へ位を与える制度を定めた。冠の色で階位を示し、有能な人材の登用を図った。
- 十七条の憲法を制定(604年)「和を以て貴しとなす」「三宝を敬え」など役人への17か条の訓戒。天皇中心の秩序と協調の精神を示した。
- 小野妹子を遣隋使として隋へ派遣(607年)隋と対等の関係を求めて国書を送り、進んだ制度・文化の摂取をめざした。中国の先進文明を学ぶ足がかりとなった。
- 蘇我馬子と協力し天皇中心の国家をめざす政界最大の実力者・蘇我馬子と対立せず連携し、改革を進める安定した政治基盤を築いた。飛鳥改革を実行に移した。
生涯のあゆみ(年表)
- 574用明天皇の皇子として生まれると伝わる
- 593叔母の推古天皇の摂政となる解説を見る →
- 603冠位十二階を制定する解説を見る →
- 604十七条の憲法を定めたと伝わる
- 607小野妹子を遣隋使として派遣し、法隆寺の建立も伝わる
- 622死去する
名言
ゆかりの地
豆知識
「聖徳太子」は後世の呼び名
「聖徳太子」は死後に贈られた尊称で、生前は厩戸皇子などと呼ばれた。近年の教科書では「厩戸王」という表記も増えている。
10人の話を聞き分けた伝説
太子は一度に10人の訴えを同時に聞き分けたと伝わる。実話というより彼の聡明さを象徴する説話で、後世に伝説化したものとみられる。
かつての一万円札の顔
聖徳太子は明治以降、紙幣の肖像に何度も採用され、戦後の一万円札・五千円札の顔として長く親しまれた。
人物相関
よくある質問
聖徳太子は何をした人?
飛鳥時代に推古天皇の摂政として政治改革を進めた皇族です。家柄でなく才能で人を登用する冠位十二階、役人の心得を示す十七条の憲法を定め、遣隋使を派遣して中国の制度や文化を取り入れたと伝えられます。
聖徳太子と厩戸王はどう違うの?
同一人物です。「聖徳太子」は死後に贈られた尊称で、生前は厩戸皇子などと呼ばれました。近年の教科書では「厩戸王」の表記も併用されています。
聖徳太子は本当に十七条の憲法を作ったの?
十七条の憲法や冠位十二階は太子の事績と伝えられてきましたが、後世の記述に基づく部分もあり、成立の詳細には諸説あります。飛鳥の国家形成を象徴する存在として語られています。