飛鳥時代の外交 ②中学/外交
607
遣隋使の派遣(小野妹子)
小野妹子(遣隋使)・聖徳太子(摂政)・推古天皇
語呂
覚え方
群れなす遣隋使
群(6)れ(0)な(7)す遣隋使
607年(推古天皇15年)、摂政・聖徳太子は小野妹子を遣隋使として隋(ずい)に派遣しました。小野妹子が携えた国書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という一文が記されており、隋の皇帝・煬帝(ようだい)を激怒させたと伝わります。中国の皇帝は周辺国の王を「臣下」として扱う冊封(さくほう)体制が当然でしたが、この国書は日本(倭)を対等な国として位置づけようとする姿勢を示したものでした。603年の冠位十二階・604年の十七条の憲法に続く「対外的な国家体制の整備」として、入試でも頻出の出来事です。
この記事のポイント
- 607年、聖徳太子が小野妹子を遣隋使として隋の煬帝のもとへ派遣
- 国書に「日出づる処の天子…」と記し、中国と対等な外交を主張
- 翌608年、隋は裴世清(はいせいせい)を答礼使として倭に派遣
- 608年の第2回では留学生・学問僧(高向玄理・南淵請安・旻ら)が同行して隋へ渡った
- 遣隋使は国家形成のモデルを中国から吸収する窓口となり、大化の改新への伏線になった
ここが面白い「日出づる処の天子より日没する処の天子へ」——この一文が、中国の皇帝を激怒させた。
遣隋使は突然始まったわけではありません。倭国が中国王朝と関係を持ったのは5世紀の「倭の五王」の時代にさかのぼります。しかし6世紀後半に中国は南北朝に分裂しており、倭国は独自の動きをとっていました。589年に隋が中国を統一したことで、強力な中央集権国家が隣に復活します。国内でも593年に聖徳太子が摂政となり、603年に冠位十二階、604年に十七条の憲法を整備するなど、国家体制の構築が急ピッチで進んでいました。
倭国と中国の関係の歴史
239年、邪馬台国の卑弥呼が魏(ぎ)に使者を送り「親魏倭王」の称号を得ています。5世紀には倭王讃・珍・済・興・武の「倭の五王」が南朝に朝貢しました。ただしこれらは基本的に冊封関係、つまり中国皇帝に臣従する形でした。聖徳太子の遣隋使は、この従来の「臣従」の形を改め、対等な外交を打ち出した点が画期的でした。
589年の隋による中国統一
長く南北に分かれていた中国を隋が統一したのは589年のことです。文帝(ぶんてい)が統一を果たし、その子・煬帝が後を継ぎます。強力な統一国家が復活したことで、東アジアの国際秩序が大きく動きはじめました。日本はこの新秩序の中でどう立ち回るかを問われるようになったのです。
聖徳太子による国内整備
593年に摂政となった聖徳太子は、603年に冠位十二階(能力による登用制度)、604年に十七条の憲法(仏教・儒教を基にした倫理規範)を制定し、国内統治の基盤を整えました。遣隋使はこうした国内整備と並行して推し進められた、「外への発信」と「内への取り込み」の両輪の一方です。
最初の遣隋使は600年か
実は607年より前、600年にも倭から隋へ使節が送られた可能性が中国側の史書『隋書』に記されています。ただし日本の史書(日本書紀)にはその記録がなく、詳細は不明です。入試では607年の小野妹子による派遣を「遣隋使」の代表として押さえれば十分です。
「日出づる処の天子」の国書
≒ 「私たちは対等だ」という外交宣言「日出づる処(東=日本)の天子が、日没する処(西=隋)の天子に書を届ける」という文面は、両国の君主をともに「天子」と称することで対等性を表明した。煬帝はこれを無礼と怒ったとされるが、それでも答礼使を送ってきたことから、隋も倭との関係を重視していたことが分かる。
答礼使・裴世清の来日(608年)
≒ 中国側からの返礼外交煬帝は怒りつつも翌608年に裴世清(はいせいせい)を倭に派遣した。小野妹子も裴世清に同行する形で再び隋へ渡り、第2回の遣隋使となった。この際、高向玄理・南淵請安・旻ら留学生・学問僧が同行して隋に渡り、長期滞在で中国の制度・学問を学んだ。
留学生・学問僧による知識の吸収
≒ 「国費留学生」による先進文明の取り込み608年に隋へ渡った高向玄理(たかむこのくろまろ)・南淵請安(みなぶちのしょうあん)・旻(みん)らは長年にわたって中国で学び、帰国後に大化の改新(645年)の思想的基盤を提供した。遣隋使は一過性の使節ではなく、「人材育成プログラム」としての意義も持った。
589隋の統一隋の文帝が中国を統一。東アジアの国際秩序が再編される。
593聖徳太子摂政聖徳太子が推古天皇の摂政となる。国内整備が本格化。
603冠位十二階冠位十二階を制定。能力に基づく官僚登用制度を整備。
604十七条の憲法十七条の憲法を制定。仏教・儒教を基にした統治倫理を示す。
607第1回遣隋使小野妹子が遣隋使として隋へ。「日出づる処の天子…」の国書を携えた。
608裴世清来日・第2回隋の答礼使・裴世清が来日。小野妹子が再渡海し、留学生(高向玄理・南淵請安・旻ら)が同行。
618隋の滅亡隋が滅亡し唐が成立。その後、遣唐使へと引き継がれる。
645大化の改新帰国した留学生らが思想的支柱となり、大化の改新が行われる。
◎隋との国交樹立に成功し、先進的な中国文明(政治制度・仏教・文化)を積極的に取り込む窓口を開いた。
◎「対等外交」の姿勢は、朝鮮半島諸国に対して倭国の独立性・自立性を示す外交戦略としても機能した。
△隋は618年に唐に滅ぼされたため、遣隋使の期間は短命に終わった。知識・制度は遣唐使へと引き継がれた。
遣隋使(倭国の外交使節)607年の第1回・608年の第2回ともに派遣された。「妹子」は男性の名前。「蘇因高(そいんこう)」という中国名でも史書に記される。
推古天皇の摂政遣隋使の派遣を主導し、国書の文面を起草したとされる。冠位十二階・十七条の憲法とセットで覚える。
第33代天皇日本初の女性天皇。聖徳太子を摂政に登用した。
煬帝(ようだい)
隋の第2代皇帝国書の「天子」対等表現に激怒したとされるが、答礼使・裴世清を倭に送った。大運河建設・高句麗遠征などの大事業で財政を疲弊させ、隋滅亡を招いた。
裴世清(はいせいせい)
隋の答礼使608年に倭を訪問した隋の外交使節。小野妹子に同行して来日した。
高向玄理・南淵請安・旻
留学生・学問僧608年に隋へ渡り長期滞在。帰国後に大化の改新の思想的基盤を提供した。
- 遣隋使
- 日本(倭国)が中国の隋に派遣した外交使節団の総称。607年・608年に小野妹子が派遣された記録が明確に残る(600年説もある)。隋滅亡後は遣唐使に引き継がれた。
- 冊封(さくほう)体制
- 中国皇帝が周辺国の王に爵位や称号を与えて「臣下」として位置づける東アジアの外交体制。日本はこれを避け、対等な「天子」という表現を用いた。
- 煬帝(ようだい)
- 隋の第2代皇帝。大運河の建設・高句麗への遠征など大規模な土木・軍事事業を行ったが、国力を疲弊させて618年に隋滅亡を招いた。
- 国書
- 国家元首(君主)の名で他国の元首に宛てた公式の外交文書。607年の国書は「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という文言が有名。
1「妹子」は男性の名前
小野妹子の「妹子」は現代では女性的な印象があるが、飛鳥時代には男性にも使われた名前だった。小野妹子は男性であり、正式な外交使節として隋まで渡った。
2怒った煬帝がなぜ答礼使を送ったのか
煬帝は国書の「天子」表現に「無礼な蛮夷だ。二度とこんな文書を受け取るな」と怒ったと伝わる。それでも翌608年に裴世清を答礼使として送ったのは、当時の隋が高句麗への遠征を控えており、倭国を敵に回したくない現実的な外交判断があったとみられる。
3国書を紛失した小野妹子
帰路、小野妹子は隋から受け取った煬帝の返書を百済に奪われた(または紛失した)と報告した。これは重大な外交的失態だが、聖徳太子は罪を問わなかったとされる。実際に奪われたのか、内容が都合の悪いもので隠したのかは今も謎である。
4「日出づる処」は現代の外交でも引用される
「日出づる処の天子」という表現は、太陽が昇る東の国=日本という自己規定として有名になり、後世の日本の対外意識にも影響を与えたとされる。この国書の文言は、日本史上最古クラスの「対等外交宣言」として評価されることが多い。

ここが出る博士のワンポイント
607年に小野妹子が遣隋使として派遣された。語呂は「群れな(607)す遣隋使」。
国書の文言「日出づる処の天子…」は対等外交の主張として頻出。
翌608年に隋の裴世清(はいせいせい)が答礼使として来日し、小野妹子が再び渡海。
高向玄理・南淵請安・旻らは608年組の留学生・学問僧。帰国後に大化の改新を支えた。
聖徳太子の施策として、冠位十二階(603年)・十七条の憲法(604年)・遣隋使(607年)をセットで覚える。
語呂クイズ
「群れなす遣隋使」= 遣隋使の派遣(小野妹子)は西暦何年?
- Q. 遣隋使の語呂合わせは何ですか?
- A. 「群れな(607)す遣隋使」です。6・0・7の順で「む(6)・れ(0)・な(7)」と読みます。
- Q. 小野妹子は女性ですか?
- A. 男性です。「妹子」は飛鳥時代には男性にも使われた名前でした。
- Q. 国書の「日出づる処の天子」はなぜ問題になったのですか?
- A. 中国の皇帝は周辺国の王より上位の「天子」であるという体制(冊封体制)の中で、倭の君主も「天子」と名乗ることは対等もしくは同格の主張となり、煬帝にとって無礼と映ったからです。
- Q. 遣隋使と遣唐使の違いは何ですか?
- A. 派遣先の王朝が異なります。遣隋使は607〜614年頃に隋へ派遣、遣唐使は隋滅亡後の630〜894年に唐へ派遣されました。目的はともに中国の先進文化・制度の吸収と外交関係の維持です。
- Q. 高向玄理・南淵請安・旻はいつ渡海したのですか?
- A. 607年ではなく、翌608年(第2回遣隋使)に同行して隋へ渡りました。帰国後に大化の改新(645年)の思想的支柱となりました。
607年の遣隋使は、日本が東アジアの外交舞台に対等な国として登場しようとした最初の大きな試みでした。「日出づる処の天子」の国書は煬帝を怒らせながらも外交関係を開き、翌608年の留学生派遣につながります。帰国した高向玄理・南淵請安・旻らはやがて大化の改新(645年)の礎を築きました。「群れな(607)す遣隋使」で年号を覚えつつ、冠位十二階(603年)・十七条の憲法(604年)とセットで「聖徳太子の改革三点セット」として整理しておきましょう。
編集メモ(ファクト)
600年に倭から隋への使節が送られた可能性が『隋書』に記されているが、日本書紀には記録がなく詳細不明のため本文では扱っていない。
高向玄理・南淵請安・旻らの渡海は607年ではなく608年(第2回)。607年組との混同に注意。
国書の文言「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」の原文は中国史書『隋書』による。日本書紀の記述と若干異なる場合がある。
小野妹子が返書を紛失・隠蔽したかどうかは史料不足で断定不能のため、本文でも「謎」として扱った。