
607年(推古天皇15年)、摂政・聖徳太子は小野妹子を遣隋使として隋(ずい)に派遣しました。小野妹子が携えた国書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という一文が記されており、隋の皇帝・煬帝(ようだい)を激怒させたと伝わります。中国の皇帝は周辺国の王を「臣下」として扱う冊封(さくほう)体制が当然でしたが、この国書は日本(倭)を対等な国として位置づけようとする姿勢を示したものでした。603年の冠位十二階・604年の十七条の憲法に続く「対外的な国家体制の整備」として、入試でも頻出の出来事です。
「日出づる処の天子より日没する処の天子へ」——この一文が、中国の皇帝を激怒させた。
遣隋使は突然始まったわけではありません。倭国が中国王朝と関係を持ったのは5世紀の「倭の五王」の時代にさかのぼります。しかし6世紀後半に中国は南北朝に分裂しており、倭国は独自の動きをとっていました。589年に隋が中国を統一したことで、強力な中央集権国家が隣に復活します。国内でも593年に聖徳太子が摂政となり、603年に冠位十二階、604年に十七条の憲法を整備するなど、国家体制の構築が急ピッチで進んでいました。
239年、邪馬台国の卑弥呼が魏(ぎ)に使者を送り「親魏倭王」の称号を得ています。5世紀には倭王讃・珍・済・興・武の「倭の五王」が南朝に朝貢しました。ただしこれらは基本的に冊封関係、つまり中国皇帝に臣従する形でした。聖徳太子の遣隋使は、この従来の「臣従」の形を改め、対等な外交を打ち出した点が画期的でした。
長く南北に分かれていた中国を隋が統一したのは589年のことです。文帝(ぶんてい)が統一を果たし、その子・煬帝が後を継ぎます。強力な統一国家が復活したことで、東アジアの国際秩序が大きく動きはじめました。日本はこの新秩序の中でどう立ち回るかを問われるようになったのです。
593年に摂政となった聖徳太子は、603年に冠位十二階(能力による登用制度)、604年に十七条の憲法(仏教・儒教を基にした倫理規範)を制定し、国内統治の基盤を整えました。遣隋使はこうした国内整備と並行して推し進められた、「外への発信」と「内への取り込み」の両輪の一方です。
実は607年より前、600年にも倭から隋へ使節が送られた可能性が中国側の史書『隋書』に記されています。ただし日本の史書(日本書紀)にはその記録がなく、詳細は不明です。入試では607年の小野妹子による派遣を「遣隋使」の代表として押さえれば十分です。
「日出づる処(東=日本)の天子が、日没する処(西=隋)の天子に書を届ける」という文面は、両国の君主をともに「天子」と称することで対等性を表明した。煬帝はこれを無礼と怒ったとされるが、それでも答礼使を送ってきたことから、隋も倭との関係を重視していたことが分かる。
煬帝は怒りつつも翌608年に裴世清(はいせいせい)を倭に派遣した。小野妹子も裴世清に同行する形で再び隋へ渡り、第2回の遣隋使となった。この際、高向玄理・南淵請安・旻ら留学生・学問僧が同行して隋に渡り、長期滞在で中国の制度・学問を学んだ。
608年に隋へ渡った高向玄理(たかむこのくろまろ)・南淵請安(みなぶちのしょうあん)・旻(みん)らは長年にわたって中国で学び、帰国後に大化の改新(645年)の思想的基盤を提供した。遣隋使は一過性の使節ではなく、「人材育成プログラム」としての意義も持った。
607年の第1回・608年の第2回ともに派遣された。「妹子」は男性の名前。「蘇因高(そいんこう)」という中国名でも史書に記される。
遣隋使の派遣を主導し、国書の文面を起草したとされる。冠位十二階・十七条の憲法とセットで覚える。
日本初の女性天皇。聖徳太子を摂政に登用した。
国書の「天子」対等表現に激怒したとされるが、答礼使・裴世清を倭に送った。大運河建設・高句麗遠征などの大事業で財政を疲弊させ、隋滅亡を招いた。
608年に倭を訪問した隋の外交使節。小野妹子に同行して来日した。
608年に隋へ渡り長期滞在。帰国後に大化の改新の思想的基盤を提供した。
小野妹子の「妹子」は現代では女性的な印象があるが、飛鳥時代には男性にも使われた名前だった。小野妹子は男性であり、正式な外交使節として隋まで渡った。
煬帝は国書の「天子」表現に「無礼な蛮夷だ。二度とこんな文書を受け取るな」と怒ったと伝わる。それでも翌608年に裴世清を答礼使として送ったのは、当時の隋が高句麗への遠征を控えており、倭国を敵に回したくない現実的な外交判断があったとみられる。
帰路、小野妹子は隋から受け取った煬帝の返書を百済に奪われた(または紛失した)と報告した。これは重大な外交的失態だが、聖徳太子は罪を問わなかったとされる。実際に奪われたのか、内容が都合の悪いもので隠したのかは今も謎である。
「日出づる処の天子」という表現は、太陽が昇る東の国=日本という自己規定として有名になり、後世の日本の対外意識にも影響を与えたとされる。この国書の文言は、日本史上最古クラスの「対等外交宣言」として評価されることが多い。

607年の遣隋使は、日本が東アジアの外交舞台に対等な国として登場しようとした最初の大きな試みでした。「日出づる処の天子」の国書は煬帝を怒らせながらも外交関係を開き、翌608年の留学生派遣につながります。帰国した高向玄理・南淵請安・旻らはやがて大化の改新(645年)の礎を築きました。「群れな(607)す遣隋使」で年号を覚えつつ、冠位十二階(603年)・十七条の憲法(604年)とセットで「聖徳太子の改革三点セット」として整理しておきましょう。