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白村江の戦いの浮世絵イラスト
飛鳥の外交と防衛 ①高校/戦乱
663

白村江の戦い

中大兄皇子(のちの天智天皇)
語呂
覚え方
ろくろく戦えず散々、白村江の敗戦
ろくろく(6・6)戦えず散々(3)

663年(天智2年)、倭(日本)は滅亡した百済の遺民とともに朝鮮半島の白村江(はくすきのえ/はくそんこう)で唐・新羅の連合軍と激突しました。倭・百済連合軍は水軍を中心に大軍を投じましたが、唐の水軍に圧倒されて壊滅的な大敗を喫します。この敗戦は単なる戦争の負けにとどまらず、唐・新羅による日本列島侵攻への強い危機感を生み出し、防人(さきもり)・水城(みずき)・大野城といった九州北部の防衛網整備、さらには近江大津宮への遷都や天智天皇の即位へとつながる、飛鳥時代最大の転換点となりました。

この記事のポイント

  • 663年、白村江(朝鮮半島西岸の河口)で倭・百済遺民連合が唐・新羅連合に大敗
  • 倭軍は水軍を主力に4回攻撃したが、すべて撃退され船は炎上・壊滅
  • 敗戦後、唐・新羅の侵攻に備えて九州北部に水城(664年)・大野城・防人・烽(のろし)を整備
  • 中大兄皇子は667年に近江大津宮へ遷都し、668年に天智天皇として即位
  • この危機感が律令国家形成を加速させ、672年の壬申の乱へも連なる
ここが面白い

読み方は「はくすきのえ」か「はくそんこう」か。どちらも正解で、試験でも両方使われる。

ここに至るまでの流れ
背景

白村江の戦いは突然起きたわけではありません。7世紀の東アジアでは、唐という巨大帝国の台頭が朝鮮半島と日本列島の勢力図を大きく揺るがしていました。その流れを追うと、この戦いの意味がよくわかります。

7世紀の東アジア情勢

618年に成立した唐は急速に版図を拡大し、朝鮮半島にも圧力をかけます。半島には高句麗・百済・新羅の三国が並立していましたが、新羅は唐と手を結んで他の二国を圧迫する戦略をとりました。倭(日本)はこの情勢のなか、百済・高句麗と外交・文化的に深い関係を持っていました。

大化の改新と外交の変化

645年の大化の改新以降、中大兄皇子ら改革派は唐の律令制度を手本に国家体制の整備を進めます。しかし一方で対外的には百済との同盟を維持し、朝鮮半島への関与を続けていました。

百済の滅亡(660年)

660年、唐・新羅の連合軍が百済を攻め滅ぼします。百済の遺臣たちは倭に救援を求め、倭は百済復興軍を支援するために大規模な遠征を決断しました。中大兄皇子は数万規模の軍を送り込みましたが、唐の水軍の実力を軽く見ていた面がありました。

白村江への流れ

倭・百済連合は朝鮮半島西岸の白村江(錦江河口付近とされる)に集結し、663年8月に唐・新羅の水軍と正面衝突します。倭は4回にわたって攻撃を仕掛けましたが、唐の水軍170隻の組織的な戦術の前に次々と撃退され、船を焼かれて壊滅しました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

水軍の壊滅

≒ 制海権の完全喪失

倭の船は唐水軍の連携攻撃に4度挑んで全て撃退され、炎上・沈没。兵士は海に投じられ、空が煙で覆われたと記録される。

百済復興の夢の終わり

≒ 同盟国の消滅

百済王族・遺民は朝鮮半島への帰還の望みを断たれ、多くが倭(日本)に亡命。渡来人として技術・文化の伝播に貢献した。

防衛体制の大転換

≒ 侵攻に備えた国土防衛網の構築

唐・新羅の侵攻を想定し、九州北部に水城・大野城・基肄城を築き、防人と烽(のろし台)を設置。日本列島を守る最初の本格的な防衛ラインとなった。

前後のできごと
年表
645
改新大化の改新(乙巳の変)。中大兄皇子が蘇我氏を倒し、律令国家への改革を開始。
660
百済滅亡唐・新羅連合軍が百済を滅ぼす。百済遺民が倭に救援を求める。
663
白村江の戦い8月、白村江で倭・百済連合が唐・新羅に大敗。百済復興は断念される。
664
水城の構築大宰府防衛のため、博多湾南に水城(土塁と堀)を築造。防人・烽も設置。
665
大野城・基肄城大宰府の背後を守る山城として大野城・基肄城を築く(朝鮮式山城)。
667
遷都中大兄皇子が飛鳥から近江大津宮へ遷都。九州から離れた内陸への移動は防衛上の判断とも解される。
668
即位中大兄皇子が天智天皇として即位。庚午年籍(最初の全国的戸籍)を作成。
672
壬申の乱天智天皇の死後、皇位継承をめぐり壬申の乱が勃発。大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位。
結果とその後
結果
倭・百済連合が壊滅的な大敗を喫し、朝鮮半島への影響力を完全に失った。以後、日本は半島への軍事関与をほぼ断ち、律令国家の内部整備に集中する方向へ転換した。
敗戦の危機感が防衛体制(水城・大野城・防人)と律令制度の整備を加速させ、天智天皇・天武天皇期の国家形成の原動力となった。渡来した百済遺民も文化・技術の面で日本に大きく貢献した。
登場人物
人物

中大兄皇子(天智天皇)

倭の実権者・のちに天智天皇(位668〜671)

大化の改新を主導した改革者。百済支援を決断し、敗戦後は防衛体制整備と律令国家建設を進めた。

阿倍比羅夫(あべのひらぶ)

倭軍の有力武将(白村江への関与は諸説あり)

北方(蝦夷・粛慎)経営で知られる武将。白村江の戦いに参加したとする説もあるが、確実な史料的裏付けは乏しく、諸説ある。

鬼室福信(きしつふくしん)

百済復興軍の中心人物

百済の将軍。倭に援軍を求めて復興運動を主導したが、白村江の戦いの直前に内紛で殺害され、その後まもなく百済復興の望みは断たれた。

劉仁軌(りゅうじんき)

白村江で唐水軍を率いた将

優れた戦術で倭・百済連合を壊滅させた唐の将軍。のちに朝鮮半島経営にも深く関与した。

天武天皇(大海人皇子)

壬申の乱の勝者・次代の天皇(位673〜686)

天智天皇の弟。壬申の乱で勝利して即位し、律令国家の完成を一層推し進めた。

キーワード解説
用語
白村江
朝鮮半島西岸の河口部(現在の韓国・錦江河口付近とされる)。日本語では「はくすきのえ」、漢語音では「はくそんこう」と読む。どちらも試験に出る。
防人(さきもり)
九州北部の防衛に当たらせた兵士。主に東国(関東・東海)の農民から徴発され、3年交代で筑紫(九州)に派遣された。万葉集にも「防人の歌」が多数残る。
水城(みずき)
664年に博多湾の南に築かれた土塁と濠からなる防衛施設。外敵の上陸後の進攻を食い止めるために設けられ、全長約1.2kmに及ぶ。現在も遺構が残る。
大野城
665年に大宰府背後の山に築かれた朝鮮式山城。百済・高句麗の技術者(渡来人)が指導して建設したとされる。
烽(のろし)
外敵の侵入を知らせるのろし台のネットワーク。九州北部から近畿まで情報を素早く伝達するためのシステムで、白村江の敗戦後に整備された。
近江大津宮
667年に中大兄皇子が飛鳥から移した新都(現在の滋賀県大津市付近)。海から内陸に移ることで、外敵の侵攻に備えたとも解される。
もっと知りたい
豆知識

1「はくすきのえ」か「はくそんこう」か

日本書紀には「白村江」と記されており、日本語の訓読みでは「はくすきのえ」、漢語音(中国語風)では「はくそんこう」と読む。教科書によって表記が異なり、試験では両方使われる。正式には日本書紀の記述に基づく「白村江」が正しい。

2唐軍の船は170艘余りと伝わる

日本書紀によれば唐の水軍は170艘余り。対する倭・百済連合は1000艘規模とも伝わるが、個々の船の大きさ・武装力・戦術統率力で唐水軍が圧倒していた。数の多さが勝敗を決めなかった典型例。

3百済の渡来人が日本文化を豊かにした

白村江の敗戦後に日本へ亡命した百済の王族・貴族・技術者は数千人規模とも言われる。彼らは土木・建築・医術・暦・文章(漢文)など多方面の知識を持ち込み、以後の律令国家建設や文化の発展に大きく貢献した。

4水城は今も残る

664年に築かれた水城の土塁の一部は、現在の福岡県太宰府市・大野城市に遺構として残っており、国の特別史跡に指定されている。約1350年を経てなお地形としてはっきりと確認できる。

5壬申の乱との間接的な関係

白村江の敗戦後の防衛体制整備・遷都・庚午年籍の作成は、天智天皇の権力を強化する一方で、地方豪族・武士層との緊張を高めた面もある。668年即位の天智天皇が671年に没すると、翌672年に壬申の乱が起きたのは決して偶然ではない。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
白村江の戦いは663年。語呂は「ろくろく(66)戦えず散々(3)」。読みは「はくすきのえ」または「はくそんこう」の両方を覚える。
倭・百済連合 vs 唐・新羅連合、という構図を整理しておく(百済は660年に滅亡済みで、これは復興支援)。
敗戦後の防衛施設セット「水城(664年)・大野城・防人・烽」は入試頻出。水城は博多湾南の土塁と堀。
近江大津宮への遷都は667年、天智天皇の即位は668年。遷都→即位の順番に注意。
「庚午年籍」(670年)は天智天皇の時代に作られた最初の全国的戸籍。白村江後の国家整備の一環として関連付けて覚える。
語呂クイズ
「ろくろく戦えず散々、白村江の敗戦」= 白村江の戦いは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 白村江の戦いはどこで起きましたか?
A. 朝鮮半島西岸の白村江(現在の韓国・錦江河口付近とされる場所)で起きました。日本列島ではなく、朝鮮半島での出来事です。
Q. なぜ日本(倭)は百済を助けに行ったのですか?
A. 百済は倭と長年にわたって友好・同盟関係にあり、仏教や先進文化の窓口でもありました。660年に唐・新羅に滅ぼされた百済の遺臣が倭に救援を求め、倭は百済復興を支援するために出兵しました。
Q. 白村江の戦いの後、日本はどうなりましたか?
A. 唐・新羅の侵攻を恐れた日本は、九州北部に水城・大野城・防人・烽を設けて防衛体制を強化しました。また中大兄皇子は667年に近江大津宮へ遷都し、668年に天智天皇として即位しました。この危機感が律令国家の整備を加速させました。
Q. 「はくすきのえ」と「はくそんこう」どちらが正しいですか?
A. どちらも正しい読み方です。日本書紀の「白村江」を日本語の訓読みにすると「はくすきのえ」、漢語音で読むと「はくそんこう」になります。教科書や試験によって表記が異なるので、両方を覚えておくと安心です。
Q. 水城とは何ですか?
A. 664年に博多湾の南(現在の福岡県太宰府市・大野城市付近)に築かれた土塁と濠からなる防衛施設です。白村江で大敗した翌年に、唐・新羅の侵攻に備えて急いで建設されました。現在も一部が特別史跡として残っています。
Q. 防人(さきもり)とはどんな人たちですか?
A. 九州北部の防衛のために派遣された兵士です。主に東国(関東・東海地方)の農民から徴発され、3年間交代で筑紫(九州)の防衛にあたりました。故郷を離れる悲しみを詠んだ「防人の歌」が万葉集に多く残っています。
まとめ

白村江の戦いは、倭(日本)が初めて経験した本格的な対外敗戦です。「ろくろく(66)戦えず散々(3)」の663年を覚えながら、この敗戦が単なる「負け」ではなく、水城・防人・大野城という防衛体制の整備、そして近江大津宮遷都・天智天皇即位・庚午年籍へと連なる「律令国家形成の大きな推進力」になったことを押さえておきましょう。読みは「はくすきのえ」でも「はくそんこう」でも正解です。試験でどちらが問われても対応できるよう、両方に慣れておくことが大切です。

編集メモ(ファクト)
「白村江」の所在地は現在の韓国・忠清南道・錦江河口付近とする説が通説だが、諸説ある。
倭軍の総数・艦船数は史料によって大きく異なるため、本文では「大軍」「1000隻規模とも」と幅をもたせた表現にした。
水城の築造年は664年(天智3年)が史料上の根拠。大野城・基肄城は665年。防人・烽の設置も664〜665年とされる。
阿倍比羅夫は北方(蝦夷・粛慎)経営で知られる武将で、白村江の戦いへの参加は史料上確実とは言えず諸説ある。
鬼室福信は白村江の戦いの直前(663年)に百済豊璋王との内紛で殺害されており、敗戦そのものを見ていない。
唐水軍を率いた将としては劉仁軌が知られるが、唐側の指揮系統には劉仁願・孫仁師らも含まれ、単独の『総指揮官』とは言い切れない。