平安の摂関政治 ①中学/政治
1016
藤原道長が摂政に(摂関政治の全盛)
藤原道長(平安中期の公卿・摂政)
語呂
覚え方
入れ色(1016)好むな道長、望月の世
入れ(10)いろ(16)
1016年(長和5年)、藤原道長が摂政に就任しました。摂政とは天皇が幼少または女性の場合に政務を代行する最高職です。道長はこれより前から娘を次々と天皇の后とし、外戚(母方の親族)として朝廷の実権を握ってきました。摂政就任はその頂点を画した出来事です。道長の全盛期には紫式部が『源氏物語』を、清少納言が『枕草子』を書き記し、日本独自の国風文化が大きく花開きました。摂関政治の全盛は、のちに院政や武家政権へと移り変わる平安後期の出発点でもあります。
この記事のポイント
- 1016年、藤原道長が摂政に就任し、摂関政治が全盛期を迎えた
- 道長は娘を天皇の后にする「外戚」戦略で権力を積み上げた
- 道長は関白にはならず、摂政・太政大臣を歴任(「御堂関白」は通称)
- 有名な「望月の歌」は1018年に詠まれたとされ、摂政就任の年ではない
- この時代に『源氏物語』(紫式部)・『枕草子』(清少納言)などの国風文化が栄えた
ここが面白い道長は「関白」にはなっていない。有名な「望月の歌」も摂政就任から2年後に詠まれた歌だ。
藤原道長は、ある日突然権力を手にしたわけではありません。藤原氏が摂政・関白として朝廷を主導する「摂関政治」は、9世紀から積み重ねてきた一族の戦略の産物です。その頂点に道長が立つまでの流れを見てみましょう。
摂政・関白とはどんな役職か
摂政は天皇が幼少や女性の場合に政務を代行する職、関白は成人した天皇を補佐して政務を取り仕切る職です。どちらも令外の官(律令に規定のない役職)で、9世紀に藤原良房が摂政、藤原基経が関白に就いたのが始まりです。10世紀半ばに藤原道長の父・兼家、叔父・頼忠らが相次いで摂関に就き、摂関政治の基盤を固めました。
「娘を后に送り込む」外戚戦略
摂関家が権力を保つ核心は、娘を天皇に嫁がせて外戚になることでした。天皇の母方の祖父(外祖父)や叔父が摂関に就くという慣行が定着したためです。道長も長女・彰子を一条天皇の中宮とし(999年入内)、その後も次女・妍子・三女・威子を次々と天皇・皇太子の后としました。「一家に三后」という異例の状況が生まれ、道長の権力基盤は揺るぎないものとなりました。
道長が摂政になった経緯
1011年、一条天皇が譲位して三条天皇が即位しますが、三条天皇と道長の関係は良好とはいえませんでした。しかし1016年、三条天皇が後一条天皇(道長の外孫)に譲位すると、道長は晴れて外祖父として摂政に就任します。この時道長は51歳。摂関政治のなかでも道長の治世が「全盛」と呼ばれる理由は、これほど強固な外戚関係を一代で築いた例がほかにないためです。
国風文化の繁栄
894年に遣唐使が停止されると、それまで取り込んできた唐の文化を日本独自のかたちに消化・発展させる動きが加速しました。かな文字が普及し、女性たちが日本語で文学作品を書き記すようになります。道長の全盛期、彰子に仕えた紫式部が『源氏物語』を、定子(一条天皇の別の后)に仕えた清少納言が『枕草子』を書きました。また道長自身も日記『御堂関白記』を書き残しており、世界最古級の自筆日記として国宝に指定されています。
外祖父として摂政に就任
≒ 実質トップへの就任後一条天皇の即位にともない、天皇の外祖父として摂政に。令外官でありながら朝廷政務のほぼすべてを取り仕切った。
娘3人を后にした外戚戦略の結実
≒ 縁故で固めた権力基盤彰子・妍子・威子の3人が天皇・皇太子の后となり、「一家に三后」の前例のない状態が実現。外戚として揺るぎない地位を確立した。
国風文化の後援
≒ 文化のパトロン紫式部・和泉式部・赤染衛門など、彰子のサロンには当代一流の女流文学者が集まった。道長自身も和歌を嗜み、『御堂関白記』を残した。
894遣唐使停止菅原道真の建議により遣唐使が停止。国風文化醸成の下地ができる。
995道長、内覧に兄・道隆・道兼の死後、藤原道長が内覧(太政官文書を天覧前に見る権限)となり実権を掌握。
999彰子入内道長の長女・彰子が一条天皇に入内(12歳)。のちに中宮となり後一条天皇を産む。
1008源氏物語紫式部が彰子のサロンで『源氏物語』を執筆(おおむねこの頃とされる)。
1016摂政就任後一条天皇の即位に伴い、道長が摂政に就任。摂関政治の全盛期を迎える。
1017太政大臣道長は摂政を息子・頼通に譲り、自身は太政大臣に。1019年には出家する。
1018望月の歌「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」を詠む(藤原実資『小右記』に記録)。三女・威子の立后を祝う宴でのこと。
1053平等院鳳凰堂道長の子・藤原頼通が平等院鳳凰堂を建立。摂関家の栄華を象徴する建築。
1086院政開始白河上皇が院政を開始。摂関政治から院政へと権力の重心が移る。
◎道長の治世に国風文化が花開き、『源氏物語』『枕草子』など後世に残る文学作品が生まれた。
△道長の死後、子の頼通は後継者を外戚として確保できず、1086年に白河上皇が院政を開始。摂関政治は急速に衰退に向かった。
藤原道長
摂政・太政大臣1016年に摂政就任。「御堂関白」と通称されるが実際に関白には就いていない。日記『御堂関白記』は国宝。
後一条天皇
第68代天皇道長の外孫。1016年に即位したことで道長が摂政となる契機となった。
藤原彰子
道長の長女・中宮一条天皇の中宮。紫式部のパトロン。後一条天皇と後朱雀天皇の母。
紫式部
女流文学者彰子のサロンに仕え『源氏物語』を執筆。かな文字による物語文学の最高峰とされる。
清少納言
女流文学者一条天皇の后・定子に仕え『枕草子』を執筆。道長とは別の后のサロンに属した。
藤原頼通
道長の長男・摂関1017年に父から摂政を引き継ぐ。1053年に平等院鳳凰堂を建立。
- 摂政
- 天皇が幼少・女性の場合に政務を代行する最高職。藤原良房が858年に初めて就いたとされる。
- 関白
- 成人した天皇を補佐して政務を取り仕切る最高職。藤原基経が884年に関白に相当する立場に就いたのが起源とされる(「関白」の語は887年の詔勅に見える)。道長は関白に就いていない点に注意。
- 外戚
- 天皇の母方の親族のこと。天皇の外祖父や叔父が摂関に就く慣行が平安中期に定着した。
- 国風文化
- 遣唐使停止(894年)以降、唐の文化を消化して日本独自に発展させた文化。かな文字の普及と女流文学の隆盛が特徴。
- 御堂関白記
- 道長自身が書いた日記。「御堂関白記」と呼ばれるが、道長は関白ではなく摂政・太政大臣だった。世界最古級の自筆日記として国宝・ユネスコ世界記憶遺産に登録。
1「望月の歌」は摂政就任の年ではない
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」は、1018年に三女・威子が後一条天皇の后となった祝宴の席で詠まれたとされる(藤原実資の日記『小右記』に記録)。1016年の摂政就任とは2年のズレがある。試験では「1016年=摂政就任」と「望月の歌=1018年頃」を混同しないよう注意。
2「御堂関白」は通称であって正式な肩書きではない
道長は生涯を通じて「関白」には就任しておらず、摂政・太政大臣を歴任した。「御堂関白」という通称は、道長が建立した法成寺(御堂)にちなんで後世につけられたもの。一方、息子の頼通・教通は関白に就いている。
33人の娘がそれぞれ皇后・中宮・皇太后に
道長の娘、彰子・妍子・威子の3人が相次いで天皇・皇太子の后となり、「一家三后」と呼ばれる前例のない状況が生まれた。これを指して実資は「道長は仏なのか、神なのか」と日記に書き記している。
4『御堂関白記』はユネスコ世界記憶遺産
道長が自筆で書いた日記『御堂関白記』は、世界最古級の自筆日記として国宝に指定され、2013年にユネスコの世界記憶遺産に登録された。筆跡や記述から道長の日常・政務・信仰の様子がうかがえる。
5紫式部と清少納言はライバルではなかった?
紫式部は彰子(道長の娘)のサロンに、清少納言は定子(一条天皇の別の后)のサロンに仕えた。つまり仕えた后が異なり、時代もやや前後する。直接のライバル関係にあったわけではないが、紫式部は日記で清少納言を批評した記述を残している。

ここが出る博士のワンポイント
1016年、藤原道長が摂政に就任。語呂は「入れ(10)いろ(16)」。
道長は「摂政」「太政大臣」を歴任したが、「関白」には就任していない。「御堂関白」は通称。
「望月の歌」は1016年ではなく1018年に詠まれたとされる(出典は藤原実資の『小右記』)。
道長の全盛期に国風文化が栄え、紫式部が『源氏物語』、清少納言が『枕草子』を記した。
子の藤原頼通が1053年に平等院鳳凰堂を建立。道長の死後、白河上皇が1086年に院政を開始し摂関政治は衰退する。
語呂クイズ
「入れ色(1016)好むな道長、望月の世」= 藤原道長が摂政に(摂関政治の全盛)は西暦何年?
- Q. 藤原道長はいつ摂政になりましたか?
- A. 1016年(長和5年)、後一条天皇の即位にともなって摂政に就任しました。
- Q. 道長は「関白」ではないのですか?
- A. そうです。道長は関白には就いておらず、摂政・太政大臣を歴任しました。「御堂関白」という通称はありますが、正式な肩書きではありません。
- Q. 「望月の歌」はいつ詠まれましたか?
- A. 1018年に三女・威子が后となった祝宴の席で詠まれたとされます(藤原実資『小右記』より)。1016年の摂政就任の年ではありません。
- Q. 摂関政治はなぜ衰退したのですか?
- A. 道長の子・頼通が後継の天皇の外戚になれなかったことが大きな原因です。1086年に白河上皇が院政を開始したことで、権力の中心が摂関家から上皇へと移りました。
- Q. 国風文化とはどのような文化ですか?
- A. 遣唐使停止(894年)以降、唐の文化を日本独自に消化・発展させた文化です。かな文字の普及を背景に『源氏物語』『枕草子』などの女流文学が誕生しました。
藤原道長の摂政就任(1016年)は、摂関政治が頂点に達した瞬間です。娘3人を后にする外戚戦略を極めた道長の治世は、同時に国風文化の最盛期でもありました。ただし、道長の権力は子の頼通の代に早くも衰え始め、1086年の白河院政開始へとつながります。「入れ(10)いろ(16)」の語呂で1016年を押さえつつ、「関白ではなく摂政」「望月の歌は1018年」という引っかけポイントも確認しておきましょう。
編集メモ(ファクト)
「望月の歌」の年については1018年説が通説。藤原実資の日記『小右記』の記述が主要根拠。
道長の摂政就任は1016年1月(旧暦では長和4年末〜5年初にまたがる)。厳密な日付は史料により若干の表記ゆれがある。
国風文化の代表作品の執筆年はおおよその推定であり、学説により幅がある点に注意。
清少納言と紫式部が「同時代のライバル」のように描かれることがあるが、仕えた后・活動時期がずれており、直接の競合関係は史料的に確認しにくい。