
藤原道長
- よみ
- ふじわらの・みちなが
- 生没年
- 966–1027
- 別名
- 御堂関白(通称。実際には関白に就任せず)
- おもな地位
- 摂政・太政大臣
- 父
- 藤原兼家
- 子
- 藤原頼通
- 娘
- 彰子・妍子・威子(いずれも天皇の后)
どんな人?
藤原道長(ふじわらのみちなが)は、平安時代に摂関政治の全盛期を築いた公卿です。娘たちを次々と天皇の后とし、天皇の外戚として絶大な権力を握りました。
1016年に摂政となり、太政大臣も務めました。「御堂関白」と通称されますが、実際には関白の職に就いてはいません。栄華を極めた道長は「この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだと伝えられ、この望月の歌は摂関政治の全盛を象徴する一首として知られます。
日記『御堂関白記』は自筆本が現存し国宝となっています。その子の藤原頼通は、道長ゆずりの宇治の別荘を寺に改め、1053年に平等院鳳凰堂を建立しました。道長は藤原氏の栄華を体現した平安貴族社会の頂点に立つ人物です。
おもな業績・つくったもの
- 摂政に就任し摂関政治の全盛を築く(1016年)後一条天皇の外祖父として摂政に就いた。天皇の外戚として実権を握り、摂関政治の全盛期を築いた。
- 太政大臣を務める朝廷最高位の太政大臣を務めた。並ぶ者のない権勢を誇り、藤原氏の栄華を体現した。
- 娘3人を天皇・皇太子の后とする(一家に三后)彰子・妍子・威子の3人の娘を天皇・皇太子の后とした。「一家に三后」の前例なき外戚支配を実現した。
- 「望月の歌」を詠み栄華を象徴「この世をば我が世とぞ思ふ望月の…」と詠み、満ち足りた権勢を月にたとえた。摂関政治全盛の栄華を象徴する歌となった。
- 日記『御堂関白記』を残す(自筆本は国宝)当時の政治や儀式を記した日記『御堂関白記』を残した。自筆本は国宝で、世界記憶遺産にも登録されている。
生涯のあゆみ(年表)
- 966藤原兼家の子として生まれる
- 1016摂政となり摂関政治の全盛を築く解説を見る →
- 1018娘・威子の立后の祝宴で「望月の歌」を詠んだと伝わる
- 1027死去する
- 1053子の頼通が平等院鳳凰堂を建立する解説を見る →
名言
ゆかりの地
豆知識
「望月の歌」は摂政就任の年ではない
「この世をばわが世とぞ思ふ望月の…」は、娘・威子が后となった1018年の祝宴で詠まれたとされる。1016年の摂政就任とは年がずれる点に注意。
娘3人が同時に后となる
道長の娘、彰子・妍子・威子が相次いで天皇の后となり、「一家三后」という前例のない状況を築いた。貴族の実資は驚いて日記に書き残している。
自筆日記が国宝
道長の日記『御堂関白記』は自筆本が現存し、世界最古級の自筆日記として国宝・ユネスコ記憶遺産に登録されている。
人物相関
よくある質問
藤原道長は何をした人?
平安時代に摂関政治の全盛期を築いた公卿です。娘たちを次々と天皇の后とし、外戚として絶大な権力を握りました。1016年に摂政となり、栄華を象徴する「望月の歌」を詠んだと伝えられます。
藤原道長は関白だったの?
「御堂関白」と通称されますが、実際には関白の職には就いていません。摂政や太政大臣を務め、娘を天皇の后とする外戚政策で実権を握りました。関白を長く務めたのは子の頼通です。
「望月の歌」はいつ詠まれたの?
娘・威子が后となった1018年の祝宴で詠まれたとされます。1016年の摂政就任の年とは異なる点に注意が必要です。摂関政治の全盛を象徴する一首として知られます。