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平清盛が太政大臣にの浮世絵イラスト
平氏政権の確立 ①中学/政治
1167

平清盛が太政大臣に

平清盛(平氏の棟梁・初の武家出身太政大臣)
語呂
覚え方
いい胸毛の清盛さん
いい(1・1)胸(6)毛(7)の清盛さん

1167年(仁安2年)、平清盛は武家として史上初めて太政大臣に任じられました。保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)を経て政敵を次々に退けた清盛は、娘の徳子を高倉天皇に入内させ、生まれた皇子(のちの安徳天皇)を天皇位につけるなど、貴族社会の頂点に君臨します。大輪田泊(現在の神戸港付近)を整備して日宋貿易を推進し、莫大な経済力を背景に「平氏にあらずんば人にあらず」と言わしめる専制体制を築きました。しかしその権勢への反発が高まり、1185年の壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡します。

この記事のポイント

  • 1167年、平清盛が武士として初めて太政大臣に就任(武家政権の先駆け)
  • 保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)での勝利を足掛かりに政界の頂点へ
  • 大輪田泊(現・神戸港)を修築し、日宋貿易を推進して財力を蓄えた
  • 娘・徳子を高倉天皇に入内させ、孫の安徳天皇を即位させるなど外戚政策を展開
  • 「平氏にあらずんば人にあらず」の言葉に象徴される独占的権力支配
  • 1177年の鹿ケ谷の陰謀など反平氏勢力の台頭後、1185年の壇ノ浦で平氏滅亡
ここが面白い

武士として初めて太政大臣に就いた清盛。しかし就任からわずか3か月で辞任し、その後は陰で政治を動かし続けた。

ここに至るまでの流れ
背景

清盛が太政大臣になるまでには、平安末期の政治的混乱と武士の台頭という大きな流れがありました。院政期に武士が中央政界に引き込まれていく過程を見てみましょう。

院政の時代と武士の登場

1086年に白河上皇が院政を開始して以来、政治の実権は引退した天皇(上皇・法皇)の手に移りました。摂関家の権威が低下するなか、院の警護や紛争解決を担う武士が政治的に重要な役割を担うようになります。平氏も清盛の祖父・正盛の代から院の御用を勤めて台頭し、清盛の父・忠盛は日宋貿易で財を成して伊賀・伊勢の知行国主となりました。

保元の乱(1156年)での勝利

後白河天皇と崇徳上皇が対立した保元の乱では、清盛は後白河天皇側についで勝利。源義朝と並んで武士の筆頭として朝廷に認められます。しかし恩賞をめぐる不満が源氏内部にくすぶり、3年後に新たな争乱が起きました。

平治の乱(1159年)と源氏の没落

1159年の平治の乱では、源義朝ら反清盛派が後白河上皇の近臣・藤原信頼と組んでクーデターを起こしました。清盛は熊野詣から急ぎ京へ戻って鎮圧に成功。義朝は敗死し、嫡男・頼朝は伊豆に流されました。これ以降、清盛に対抗できる武士勢力は事実上消滅し、平氏一門が軍事・政治の双方を掌握します。

日宋貿易と大輪田泊

清盛は政治的地位と並行して経済基盤の強化にも力を注ぎました。摂津国の大輪田泊(現在の兵庫県神戸市付近)を大規模に修築・整備し、宋(中国)との貿易港として機能させます。輸入品の陶磁器・銅銭・書物が平氏の財政を潤し、輸出品の金・硫黄・木材が宋側の需要に応えました。この貿易利益が平氏政権の経済的支柱となりました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

太政大臣への就任(1167年)

≒ 武士が政界の最高職に就く歴史的快挙

武士が太政大臣に就任したのは史上初。ただし清盛は就任後わずか3か月で辞任し、以後は娘婿・高倉天皇の外戚として陰から権力を行使した。

日宋貿易の推進

≒ 国家規模の貿易事業と港湾インフラ整備

大輪田泊を整備して宋と直接貿易を実施。宋銭の大量流入は日本の貨幣経済の発展を促し、平氏は莫大な利益を独占した。

外戚政策による皇室掌握

≒ 縁戚関係で王権を握る権力維持戦略

娘・徳子を高倉天皇の中宮とし、1178年に生まれた皇子が1180年に安徳天皇として即位。清盛は天皇の外祖父として権勢を強化した。

前後のできごと
年表
1156
保元の乱後白河天皇方として勝利。清盛の政治的地位が一気に上昇する。
1159
平治の乱源義朝らのクーデターを鎮圧。平氏による軍事独占が確立。
1167
太政大臣就任武士として初の太政大臣に。3か月後に辞任し外戚として政治を掌握。
1177
鹿ケ谷の陰謀後白河法皇近臣らが平氏打倒を謀議。発覚し主謀者は処罰された。
1180
安徳天皇即位・以仁王の令旨孫の安徳天皇が即位。以仁王が平氏追討を命じ、源頼朝・義仲らが挙兵。
1181
清盛死去清盛が熱病で死去(享年64)。後継者を残せず平氏は急速に求心力を失う。
1185
壇ノ浦の戦い源義経率いる源氏軍に敗れ、安徳天皇とともに平氏一門が滅亡。
結果とその後
結果
武士が太政大臣に就くという前例を作り、「武士も政権を担える」という道を開いた。日宋貿易の推進は日本の貨幣経済・文化交流にも大きく貢献した。
「平氏にあらずんば人にあらず」と評されるほどの権力集中が反発を招き、1177年の鹿ケ谷の陰謀、1180年以降の源氏の挙兵へとつながった。平氏政権は清盛死後わずか4年で滅亡する。
登場人物
人物

平清盛

平氏の棟梁・太政大臣

保元・平治両乱を制し武士として初めて太政大臣に就任。日宋貿易を推進し平氏政権の全盛を築いた。1181年に熱病で死去。

後白河法皇

院政を行った上皇

清盛と協調しながらも対立を繰り返した。1177年の鹿ケ谷の陰謀では院近臣らが平氏打倒を謀議。清盛は翌年法皇を幽閉した。

平徳子(建礼門院)

清盛の娘・高倉天皇の中宮

1178年に安徳天皇を出産。壇ノ浦の戦いで海に入るが助けられ、晩年は京都・大原の寂光院で過ごした。

安徳天皇

清盛の孫・第81代天皇

1180年即位、わずか3歳。壇ノ浦の戦いで8歳のまま祖母・二位尼とともに入水した。

源頼朝

平治の乱後に伊豆へ配流された源氏の嫡男

1180年に以仁王の令旨を受けて挙兵。平氏滅亡後に鎌倉幕府を開く。

キーワード解説
用語
太政大臣
律令制における最高官職。通常は公卿(貴族)が就く地位で、清盛以前に武士が就いた例はなかった。
大輪田泊
現在の兵庫県神戸市付近にあった港。清盛が修築し日宋貿易の拠点とした。のちに兵庫津とも呼ばれる。
日宋貿易
平安末期〜鎌倉時代に日本と宋(中国)が行った貿易。宋銭・陶磁器・書物などを輸入し、金・硫黄などを輸出した。
外戚
天皇の母方の親族。娘を天皇の后として生まれた皇子が天皇になると、その母方の父(外祖父)が政治的実権を握る構造。
鹿ケ谷の陰謀
1177年、後白河法皇の近臣・藤原成親らが京都・鹿ケ谷の山荘で平氏打倒を謀議した事件。密告により発覚し、主謀者らは流罪・処刑された。
治承・寿永の乱
1180〜1185年にかけての全国的内乱。源頼朝・木曽義仲ら源氏勢力が平氏に対して挙兵し、壇ノ浦で平氏が滅亡した。
もっと知りたい
豆知識

1太政大臣を3か月で辞めた理由

清盛が太政大臣に就いたのは1167年2月。しかし同年5月には辞任している。病気を理由にしているが、当時の貴族社会では武士が最高位に就くこと自体が異例中の異例であり、「形式的な就任で実権は別の形で握る」という計算があったとも言われる。清盛はその後、娘を入内させる外戚政策で権力を維持した。

2「平氏にあらずんば人にあらず」の真相

この言葉は、清盛の義弟(妻・時子の弟)である平時忠が言ったとされる(「平家物語」)。ただし時忠自身が言ったとする史料と、部下が誇示して言ったとする説があり、誰がどの文脈で言ったかは諸説ある。いずれにせよ、平氏一門が政治・軍事・経済のすべてを握っていた当時の状況を鮮烈に表す言葉として後世に伝わった。

3大輪田泊は日本初の「人工港」改修

清盛が整備した大輪田泊では、海に大きな石を積み上げて防波堤をつくる大規模な工事が行われた。波除けのための「経島」(きょうのしま)という人工島まで築いたとされる。この港の整備が日宋貿易を安定させ、平氏の財政を支えた。現在の神戸港はこの大輪田泊の系譜を引くとも言われる。

4宋銭の流入が貨幣経済を変えた

日宋貿易で大量に輸入された宋銭(銅銭)は、それまで物々交換が主流だった日本の経済を貨幣経済へと変革させた。鎌倉時代以降に貨幣経済が広まる基盤をつくったのは平清盛の日宋貿易だったと評価する研究者も多い。

5壇ノ浦に沈んだ「三種の神器」

1185年の壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡した際、幼い安徳天皇は祖母・二位尼(清盛の妻)に抱かれて入水した。このとき三種の神器のうち「草薙剣」が海中に没し、現在も行方不明のままとされている(鏡と勾玉は回収)。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
1167年、平清盛が武士として初めて太政大臣に就任。語呂は「いい胸毛(1167)の清盛さん」。
台頭の背景は保元の乱(1156年)と平治の乱(1159年)の勝利。この2つの乱の順序と年号もセットで覚える。
日宋貿易の拠点となった港は大輪田泊(現・神戸付近)。「大輪田泊を修築 → 日宋貿易で財力」という流れで記憶する。
「平氏にあらずんば人にあらず」は清盛本人ではなく義弟の時忠の言葉(平家物語)。誰の言葉かを問う問題に注意。
1177年の鹿ケ谷の陰謀→1180年の以仁王の令旨・源頼朝挙兵→1185年の壇ノ浦、という平氏滅亡への流れを整理する。
語呂クイズ
「いい胸毛の清盛さん」= 平清盛が太政大臣には西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 平清盛はいつ太政大臣になりましたか?
A. 1167年(仁安2年)です。武士として初めて太政大臣に就いた歴史的な出来事です。
Q. 日宋貿易とは何ですか?
A. 平安末期〜鎌倉時代に日本と宋(中国)の間で行われた貿易です。清盛は大輪田泊を整備して貿易を推進し、宋銭・陶磁器などを輸入して莫大な利益を得ました。
Q. 大輪田泊はどこにありますか?
A. 現在の兵庫県神戸市付近にあった港です。清盛が大規模に修築し、日宋貿易の拠点となりました。現在の神戸港の起源とも言われます。
Q. 「平氏にあらずんば人にあらず」とは誰の言葉ですか?
A. 清盛の義弟(妻・時子の弟)・平時忠の言葉とされています(「平家物語」)。清盛本人の言葉ではないため注意が必要です。
Q. 保元の乱と平治の乱の違いは何ですか?
A. 保元の乱(1156年)は後白河天皇と崇徳上皇の対立が原因で、清盛と源義朝がともに後白河方として勝利しました。平治の乱(1159年)は源義朝らが清盛打倒を図ったクーデターで、清盛が勝利して源氏勢力を没落させました。
Q. 鹿ケ谷の陰謀とは何ですか?
A. 1177年、後白河法皇の近臣・藤原成親らが京都の鹿ケ谷で平氏打倒を謀議した事件です。密告で発覚し、主謀者らは流罪・処刑されました。
まとめ

平清盛の太政大臣就任(1167年)は、それまで貴族が独占していた政界の最高位に武士が初めて就いた歴史的な転換点でした。清盛は日宋貿易で財力を、外戚政策で皇室への影響力を確保し、「平氏にあらずんば人にあらず」と言われるほどの権勢を誇ります。しかしその権力集中は反発を生み、鹿ケ谷の陰謀(1177年)・源頼朝の挙兵(1180年)を経て、1185年の壇ノ浦で平氏は滅亡します。清盛が切り拓いた「武士が国を治める」という道は、のちの源頼朝による鎌倉幕府へと受け継がれていきました。「いい胸毛(1167)の清盛さん」の語呂とともに、平氏政権の盛衰の流れを押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
太政大臣就任は1167年2月、辞任は同年5月の3か月間。試験では「就任」した年として1167年を押さえる。
「平氏にあらずんば人にあらず」の発言者は清盛の義弟・平時忠(平家物語)。清盛本人の言葉ではない。
安徳天皇の入水・草薙剣紛失は壇ノ浦(1185年)の出来事で、本記事の対象年(1167年)とは異なる。