鎌倉幕府の確立 ①中学/戦乱
1221
承久の乱
後鳥羽上皇(挙兵側)/北条政子・北条義時(幕府側)
語呂
覚え方
人に不意(1221)打ち承久の乱
ひとに(12)ふい(21)
1221年(承久3年)、後鳥羽上皇は執権・北条義時の追討を命じる院宣を発し、幕府打倒の兵を挙げました。しかし鎌倉幕府側では、源頼朝の妻・北条政子が御家人たちに結束を呼びかけ、大軍を京都へ送ります。幕府軍は上皇方をほぼ1か月で圧倒し、後鳥羽上皇は隠岐(現在の島根県)に配流されました。乱後、幕府は京都に六波羅探題を設置して朝廷を監視下に置き、西国にも支配を及ぼしました。この乱で武家政権が朝廷に優位に立つという、その後の日本の政治構造が決定的になりました。
この記事のポイント
- 1221年、後鳥羽上皇が執権・北条義時の追討を命じて挙兵(承久の乱)
- 北条政子が御家人に結束を訴え、幕府軍が大軍で上洛・約1か月で勝利
- 後鳥羽上皇は隠岐へ配流、上皇方に付いた武士の所領は没収・御家人に恩賞として与えられた
- 幕府は京都に六波羅探題を設置し、朝廷を監視・西国への支配を確立
- 武家政権が朝廷に優位に立つ画期となり、以後の日本の政治構造を決定づけた
ここが面白い北条政子の「演説」が御家人の心を動かした。圧倒的不利と見られた幕府軍が、わずか1か月で勝利した。
承久の乱は突然起きたわけではありません。鎌倉幕府の成立後、朝廷と幕府はさまざまな緊張関係を抱えていました。後鳥羽上皇の挙兵に至る背景を整理してみましょう。
頼朝の死後、北条氏が台頭
1199年に源頼朝が死去すると、2代将軍・頼家、3代将軍・実朝が続きますが、頼家は暗殺、実朝も1219年に暗殺されて源氏の将軍家は断絶します。実権は頼朝の妻・北条政子の一族、すなわち執権の北条氏が握るようになりました。
後鳥羽上皇の野望と義時への反発
後鳥羽上皇は和歌や武芸に秀でた文武両道の天皇で、院政を通じて朝廷の権威を高めようとしていました。将軍の血統が途絶え、幕府内部の権力が北条義時に集中するなかで、「今なら幕府を倒せる」と機会を探っていたとされます。特に義時が上皇の側近の所領をめぐる争いで上皇の意向に反したことが、直接的な対立の火種になったとも言われます。
1221年、義時追討の院宣を発する
1221年5月、後鳥羽上皇は「北条義時を討て」という院宣(上皇の命令書)を発しました。院宣は朝廷の権威を持つ命令のため、御家人たちは上皇方と幕府方のどちらに従うべきか迫られる状況となりました。
北条政子の「演説」が幕府を救う
迷いが生じた御家人たちに対し、北条政子は頼朝の御恩の大きさを力強く訴えました。「頼朝公が命をかけて開いた幕府を守らなければならない」という訴えが御家人の心を動かし、大多数が幕府側についたとされます。この「演説」は歴史上の名場面として語り継がれています(実際の言葉は後世の史書による伝承)。
後鳥羽上皇の挙兵と幕府の反撃
≒ 政府トップへの反乱を、政府軍が全力で鎮圧する上皇の院宣に従い近畿の武士たちが集まったが、幕府は大軍を三方向から京都へ向かわせ、約1か月で上皇方を圧倒した。
後鳥羽上皇の配流と所領没収
≒ 反乱軍のリーダーを島流し、支持者の財産を差し押さえる後鳥羽上皇は隠岐へ、土御門・順徳上皇も流罪。上皇方に付いた武士の所領は没収され、東国の御家人に恩賞として与えられた。
六波羅探題の設置
≒ 首都に監視機関を置いて政府を監視下に置く乱後、幕府は京都に六波羅探題を設置。朝廷の監視・西国の武士の統括・訴訟処理を担い、幕府の西国支配の拠点となった。
1185幕府の実質的成立壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡。守護・地頭の設置で頼朝が全国支配の基盤を築く。
1192頼朝、将軍に源頼朝が征夷大将軍に任じられる。「いい国つくろう鎌倉幕府」。
1199頼朝死去頼朝が死去。北条氏が台頭し、執権政治が始まる。
1219実朝暗殺3代将軍・源実朝が暗殺され、源氏の将軍家が断絶。
1221承久の乱後鳥羽上皇が義時追討の院宣を発するが、幕府軍が勝利。上皇は隠岐へ配流。六波羅探題を設置。
1232御成敗式目3代執権・北条泰時が御成敗式目(貞永式目)を制定。武家最初の成文法典。
1274文永の役元(モンゴル帝国)が九州北部に来襲。元寇(文永の役)。
1333鎌倉幕府滅亡後醍醐天皇の倒幕運動と新田義貞の攻撃で鎌倉幕府が滅亡。
◎幕府が朝廷に勝利し、西国にも守護・地頭の支配が及んだ。六波羅探題が京都を監視し、武家政権が朝廷に優位に立つ体制が確立した。
△後鳥羽上皇方に付いた貴族・寺社の所領が没収されたことで、公家社会への幕府の介入が強まり、朝廷の実質的な自立は大きく制限された。
後鳥羽上皇
挙兵した上皇和歌・武芸に秀でた文武両道の上皇。倒幕を企てたが失敗し、隠岐に配流された。隠岐で崩御(1239年)。
北条義時
2代執権(幕府側のトップ)承久の乱当時の執権。院宣で追討対象に名指しされたが、幕府軍が勝利し実権をさらに固めた。
北条政子
頼朝の妻・尼将軍御家人たちに頼朝の御恩と幕府への忠義を訴え、動揺を抑えて大勢を幕府方につかせた。「尼将軍」と呼ばれる。
北条泰時
義時の子・乱後に活躍した武将承久の乱では幕府軍を率いて活躍。乱後に3代執権となり、1232年に御成敗式目を制定した。
土御門上皇・順徳上皇
後鳥羽上皇の子で共に流罪土御門上皇は乱への積極的関与は薄かったとされるが、土佐に配流。順徳上皇は佐渡に配流された。
- 院宣
- 上皇(院)が発する命令書。天皇の勅命と同等の権威を持ち、武士たちに行動を求める根拠となった。
- 執権
- 将軍を補佐する幕府の最高職。頼朝の死後、北条氏が代々独占し実質的な最高権力者となった。
- 六波羅探題
- 承久の乱後に京都に設置された幕府の機関。朝廷の監視・西国の御家人統括・訴訟処理を担った。六波羅は京都の地名。
- 配流(はいる)
- 罪人を遠隔地に追放する刑罰。承久の乱では後鳥羽上皇が隠岐(島根県)へ配流された。
- 御家人
- 将軍と御恩・奉公の主従関係を結んだ武士。承久の乱では北条政子の訴えで多くが幕府方についた。
1幕府軍は「3方向から京都へ」一気に攻めた
承久の乱で幕府は東海道・東山道・北陸道の3方向から大軍を京都へ向かわせた。上皇方は鎌倉からの大軍に圧倒され、わずか1か月ほどで決着がついた。後鳥羽上皇が「これほど早く大軍が来るとは思わなかった」と驚いたとも伝わる。
2北条政子の「演説」は後世の史書による伝承
「頼朝公の御恩を忘れるな」という北条政子の演説は、『吾妻鏡』などの史書に記されている。しかし吾妻鏡は後世(13世紀後半以降)に成立した記録であり、実際の言葉をそのまま伝えているかは確認できない。それでも御家人の結束を促した政子の役割は広く認められている。
3隠岐に流された後鳥羽上皇のその後
隠岐(現在の島根県隠岐郡)に流された後鳥羽上皇は、そのまま18年間を島で過ごし、1239年に崩御した。優れた歌人としても知られ、『新古今和歌集』の編纂を命じたことで有名(小倉百人一首の撰者は藤原定家)。百人一首にも採られた代表歌「人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は」がよく知られる。
4「承久の乱後」に御家人が西国に広がった
上皇方についた武士の所領は没収され、東国の御家人への恩賞として与えられた。これにより御家人が西国各地に地頭として配置され、武家支配が全国規模に広がった。乱前は東国中心だった幕府の支配が、乱後に西国まで及ぶようになった大きな転換点である。

ここが出る博士のワンポイント
承久の乱は1221年。語呂は「人に不意(1221)打ち承久の乱」。ひとに(12)ふい(21)で覚える。
挙兵したのは後鳥羽上皇、追討対象に名指しされたのは執権・北条義時。
幕府が勝利し、後鳥羽上皇は隠岐へ配流。六波羅探題を京都に設置して朝廷を監視した。
乱後、上皇方の所領が没収され御家人に恩賞として与えられた→西国にも幕府支配が及んだ。
御成敗式目(1232年)を制定したのは3代執権・北条泰時(義時の子)。承久の乱の執権・義時と混同しないこと。
語呂クイズ
「人に不意(1221)打ち承久の乱」= 承久の乱は西暦何年?
- Q. 承久の乱はなぜ起きたのですか?
- A. 後鳥羽上皇が、幕府の実権を握る執権・北条義時を追討しようとして挙兵しました。源氏将軍の断絶などを機に「今なら幕府を倒せる」と判断したとされます。
- Q. 北条政子はどのような役割を果たしましたか?
- A. 御家人たちに、源頼朝が切り開いた幕府への忠義と御恩を訴え、動揺する御家人を幕府側にまとめました。「尼将軍」と称されます。
- Q. 承久の乱の結果はどうなりましたか?
- A. 幕府が勝利し、後鳥羽上皇は隠岐へ配流されました。幕府は京都に六波羅探題を置き、朝廷を監視下に置きました。上皇方の所領は没収され、御家人への恩賞となりました。
- Q. 六波羅探題とは何ですか?
- A. 承久の乱後に京都に設置された幕府の機関で、朝廷の監視・西国御家人の統括・訴訟処理を担いました。「六波羅」は京都の地名です。
- Q. 御成敗式目はいつ誰が作りましたか?
- A. 1232年に3代執権・北条泰時が制定しました。承久の乱の執権は義時(泰時の父)で、別人です。混同しないように注意しましょう。
承久の乱(1221年)は、朝廷と幕府の力関係を逆転させた歴史上の大きな転換点です。「人に不意(1221)打ち承久の乱」の語呂とともに、後鳥羽上皇の挙兵→幕府の勝利→六波羅探題の設置という一連の流れを押さえておきましょう。この乱によって、武士が政治の中心となる時代が確固たるものになりました。執権・北条義時(乱当時)と御成敗式目を制定した北条泰時(義時の子・乱後に活躍)の混同も試験でよく狙われるポイントです。
編集メモ(ファクト)
後鳥羽上皇が義時追討の院宣を発した直接の理由については諸説あり、所領をめぐる対立など複数の要因が絡むとされる。断定を避けた表現にしている。
北条政子の「演説」の内容は『吾妻鏡』などの後世の史書による伝承であり、実際の言葉をそのまま伝えているかは史料上確認できない。
幕府軍が「約1か月で」勝利したという記述は通説的な理解に基づく。具体的な日数は史料により若干の差異がある。
土御門上皇が乱にどの程度積極的に関与したかについては諸説あり、史料上も明確ではないため断定を避けた。