鎌倉幕府の整備 ②中学/政治
1232
御成敗式目(貞永式目)
北条泰時(第3代執権)
語呂
覚え方
一文に身にしむ御成敗式目
一文(1・2)に身に(3・2)しむ御成敗式目
1232年(貞永元年)、鎌倉幕府の第3代執権・北条泰時は御成敗式目(貞永式目)を制定しました。武士の社会で長年培われてきた慣習や「道理」をまとめた51か条からなる法典で、日本初の武家法の体系的成文化です。律令(朝廷の法律)とは別に独立した武家独自の法体系を作ったことで、幕府は御家人の権利・義務・訴訟手続きを明確にし、支配の安定を図りました。室町時代の分国法や江戸時代の武家諸法度へと受け継がれる「武家法の原点」として、後世に大きな影響を与えた法典です。
この記事のポイント
- 1232年、第3代執権・北条泰時が御成敗式目(貞永式目)を制定
- 51か条からなる日本最初の武家法の体系的法典
- 律令(朝廷法)とは別系統の武家独自のルールを成文化
- 御家人の土地支配・権利・訴訟手続きなどを明確にした
- 後の室町・戦国の分国法、江戸の武家諸法度の手本となった
ここが面白い御成敗式目は天皇の法律(律令)とは別に作られた武士だけのルールブック。51か条すべてが「武士の慣習・道理」をよりどころにしている。
御成敗式目が生まれた背景には、幕府が承久の乱を経て急速に全国政権へと成長する過程があります。そのなかで武士社会のルールを明文化する必要が高まっていきました。
承久の乱(1221年)と幕府支配の拡大
1221年、後鳥羽上皇が幕府を倒そうとした承久の乱は、幕府の大勝利に終わりました。幕府はこれを機に朝廷側の武士の所領を没収して御家人に与え、守護・地頭を全国に置きました。支配する地域が一気に拡大したことで、御家人同士・御家人と荘園領主(朝廷・貴族)の間の土地争いが激増しました。
判断基準がバラバラという問題
当時の幕府には、訴訟の統一基準となる成文法がなく、裁判官(奉行人)によって判断がばらつくことが多々ありました。北条泰時はこの状態を「武士の慣習・道理」で解決しようとし、長年積み重ねてきた先例や慣行を51か条にまとめることにしました。
律令とはあえて別に作った理由
律令は本来、天皇を頂点とする朝廷の法体系であり、武士の土地支配の実態とは大きくかけ離れていました。北条泰時は「律令が定めるところは変えない。ただし武士の慣習については武家独自のルールで裁く」という立場をとり、律令と並立する独自の法典を作りました。これは武家政権が法の面でも自立したことを意味します。
北条泰時という人物
北条泰時(1183〜1242年)は初代執権・北条時政の孫にあたります。承久の乱では幕府軍を率いて勝利し、1224年に第3代執権となりました。評議機関として連署・評定衆を設けて合議制を整え、御成敗式目の制定でも「独断ではなく協議のうえで決めた」ことを強調しました。公平・温情ある政治で後世の武将たちにも理想の執権として敬われました。
51か条の成文法典を作成
≒ 法律の条文集武士の土地支配・御家人の権利・訴訟手続き・刑事罰則など、幕府裁判の基準を51か条に整理した。以後の幕府裁判はこれを基準に行われた。
「武士の慣習・道理」を明文化
≒ 業界の不文律を成文化法典の根拠は律令ではなく武士社会の慣習と「道理(合理的な道義)」。「古い先例と道理に従う」という姿勢を明示した。
連署・評定衆による合議制の確立
≒ 委員会制度による民主的審議泰時は法典制定にあたり、連署(副執権)・評定衆(幕府の重臣会議)と協議した。独断専行を避け、合議で決める体制を整えた。
1185守護・地頭設置源頼朝が守護・地頭の設置を朝廷に認めさせる。鎌倉幕府の実質的な始まり。
1192将軍就任源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府が名実ともに成立。
1221承久の乱後鳥羽上皇が倒幕を企てるが失敗。幕府が朝廷に対して優位に立つ。
1224泰時、執権に北条泰時が第3代執権に就任。連署・評定衆を設け合議制を整える。
1232御成敗式目制定御成敗式目(貞永式目)51か条を制定。武家法の原点が誕生。
1333鎌倉幕府滅亡幕府は滅んでも式目は廃止されず、南北朝・室町時代まで効力を持ち続けた。
◎御家人の権利・義務・訴訟手続きが明確になり、幕府支配が安定した。以後の鎌倉時代を通じて基本法典として機能した。
◎律令と並立する武家独自の法体系を確立したことで、武家政権の自立性が制度的に裏付けられた。
△御成敗式目はあくまで御家人対象の法であり、荘園内の庶民や朝廷・寺社には直接適用されなかった。西日本では律令・荘園法が引き続き並存した。
北条泰時
第3代執権(1224〜1242年在職)御成敗式目の制定者。承久の乱で幕府軍を指揮した。合議制を重んじた名執権として後世に評価が高い。
北条時房
泰時の叔父・初代の連署1225年に初代の連署(執権を補佐する副執権的な職)に任じられ、泰時とともに合議制を支えた。御成敗式目の制定も泰時・時房の体制下で進められた。
後鳥羽上皇
承久の乱を起こした上皇乱の敗者として隠岐へ流された。乱後の幕府強化が御成敗式目制定につながった。
源頼朝
鎌倉幕府の創始者(初代将軍)頼朝の打ち立てた「御家人制度」の慣習が、御成敗式目の基盤となった。
- 御成敗式目(貞永式目)
- 1232年(貞永元年)に北条泰時が制定した武家法典。51か条。制定年の元号から「貞永式目」とも呼ばれる。
- 律令
- 古代から続く朝廷の法体系。刑罰(律)と行政(令)からなる。御成敗式目はこれとは別系統の武家独自の法として作られた。
- 道理
- 御成敗式目が根拠とした「合理的な道義・筋道」。律令条文ではなく武士の慣習と合理性を判断基準にした。
- 守護・地頭
- 幕府が各国・荘園に置いた武家の役職。守護は治安維持・軍事、地頭は土地管理・年貢徴収を担った。両者の権限をめぐる規定も式目に含まれる。
- 連署
- 執権を補佐する副執権的な職。泰時が設けた合議制の要職。
- 評定衆
- 幕府政務の最高議決機関。泰時が設置し、式目の制定も評定衆との協議を経た。
1泰時が弟に宛てた「手紙」が残っている
北条泰時は式目制定の際、六波羅探題(京都の幕府出先機関)の弟・重時に長文の書状を送った。そこには「この式目はけっして朝廷の法律(律令)を否定するものではない。武士同士の争いを公平に解決するためのものだ」という趣旨が書かれており、法典の精神を自らの言葉で説明した貴重な史料として残っている。
251か条という数に深い意味はない?
御成敗式目が「51か条」である理由は、制定当時に問題となっていた案件を積み上げていったらこの数になった、というのが実態とされる。後から条文を追加(追加法)した際は別途「式目追加」として続きが作られた。
3室町・戦国時代まで生き続けた法典
1333年に鎌倉幕府が滅亡しても御成敗式目は廃止されなかった。室町幕府も御成敗式目を踏まえた法を出し、戦国大名が各国で定めた「分国法」(今川仮名目録・塵芥集など)も御成敗式目の条文を下敷きにしたものが多い。
4「女性の地頭相続」も規定されていた
御成敗式目には、夫と死別した女性が地頭職(土地)を相続できると定めた条文がある。鎌倉時代の女性は一定の財産権を認められており、式目はその慣習を成文化した。室町時代以降に女性の相続権が縮小されるのとは対照的で、当時の社会状況を示す重要な規定とされる。
5「武家諸法度」とはどう違う?
江戸幕府の武家諸法度(1615年制定)は、大名が将軍の許可なく築城・婚姻することなどを禁じた「大名を縛る法律」。御成敗式目が「御家人の権利や手続きを整えた法典」であるのに対し、武家諸法度は「大名を統制する禁令集」という性質の違いがある。

ここが出る博士のワンポイント
制定年は1232年、語呂は「一文に身にしむ(1232)御成敗式目」。
制定者は第3代執権・北条泰時。「執権」という役職名と一緒に覚える。
51か条・武士の慣習と道理を根拠にする・律令とは別系統の武家法典、という3点がよく問われる。
承久の乱(1221年)の11年後に制定されたという流れで覚えると理解しやすい。
後の分国法(戦国大名の法)・武家諸法度(江戸)への影響も問われることがある。
語呂クイズ
「一文に身にしむ御成敗式目」= 御成敗式目(貞永式目)は西暦何年?
- Q. 御成敗式目と貞永式目は同じものですか?
- A. 同じです。制定年の元号「貞永(元年=1232年)」から貞永式目とも呼ばれます。試験ではどちらの名称も出ます。
- Q. 御成敗式目を作ったのは誰ですか?
- A. 鎌倉幕府第3代執権の北条泰時です。承久の乱に勝利した後、1232年に制定しました。
- Q. 御成敗式目は何条ありますか?
- A. 51か条です。この数は頻出なので覚えておきましょう。
- Q. 律令と御成敗式目はどう違いますか?
- A. 律令は天皇・朝廷を頂点とする古代以来の法体系です。御成敗式目は律令とは別に、武士の慣習・道理を根拠に作られた武家独自の法典です。両者は並立していました。
- Q. 御成敗式目はなぜ作られたのですか?
- A. 承久の乱後に幕府の支配地域が広がり、御家人同士や御家人と荘園領主の間の土地争い・訴訟が急増したためです。裁判の基準を統一するために作られました。
- Q. 御成敗式目はその後どうなりましたか?
- A. 鎌倉幕府が滅んだ後も廃止されず、室町時代の法にも影響を与えました。戦国大名の分国法や江戸幕府の武家諸法度にも受け継がれており、武家法の原点として後世まで機能しました。
御成敗式目は「武士が武士のために作った初の体系的法典」という点で日本史上の大きな画期です。律令という朝廷の法とは別に、武家独自の「道理」に基づく51か条を定めたことで、幕府は法の面でも朝廷から自立した政権であることを示しました。「一文に身にしむ(1232)御成敗式目」の語呂とともに、制定者・北条泰時、51か条、律令との違いという3点を必ず押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
御成敗式目は御家人・武士への適用が基本であり、荘園の農民・朝廷・寺社には直接適用されない点に注意。
「51か条」は頻出。式目追加(後日の追加法)は別扱いとなっていた。
北条泰時が弟・重時へ送った書状は史料として出題されることがあるが、書状自体の内容詳細は発展的知識。