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鎌倉幕府の滅亡の浮世絵イラスト
鎌倉時代の終焉 ①中学/政治
1333

鎌倉幕府の滅亡

後醍醐天皇・足利尊氏・新田義貞・北条高時(得宗)
語呂
覚え方
一味散々 鎌倉滅亡
一(1)味(3)散(3)々(3)

1333年(元弘3年)、約140年続いた鎌倉幕府が滅亡しました。後醍醐天皇の倒幕運動をきっかけに、幕府の有力御家人だった足利尊氏が六波羅探題を攻略。関東では新田義貞が鎌倉へ攻め入り、執権・北条高時ら北条一族が東勝寺で自害して果てます。鎌倉幕府の終わりは、翌1334年の建武の新政(後醍醐天皇による天皇親政)へとつながっていきます。

この記事のポイント

  • 1333年、後醍醐天皇の倒幕運動(元弘の変など)が引き金となり鎌倉幕府が滅亡
  • 足利尊氏が六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を攻略して幕府を挟み撃ちにした
  • 執権・北条高時ら北条一族は鎌倉の東勝寺で自害し、得宗家が滅亡
  • 元寇後の御家人の窮乏・悪党の横行・徳政令など、幕府の統治力低下が背景にあった
  • 翌1334年、後醍醐天皇が建武の新政を開始(天皇親政の復活)
ここが面白い

北条高時が自害した東勝寺では、一族・御家人あわせて870人以上が命を落としたと伝わる。

ここに至るまでの流れ
背景

鎌倉幕府の滅亡は、ある日突然起きたわけではありません。元寇以降の御家人の窮乏化、得宗専制への不満の蓄積、そして後醍醐天皇による倒幕運動――これらが重なり合って1333年を迎えます。ここでは滅亡に至るまでの背景を整理しましょう。

元寇後の御家人の窮乏

1274年の文永の役・1281年の弘安の役(元寇)を幕府は二度退けましたが、外国との戦いは「勝っても土地が増えない」戦争でした。命がけで戦った御家人への恩賞(土地の給付)は極めて乏しく、御家人たちの幕府への不満は高まる一方でした。分割相続の繰り返しによって所領が細分化され、経済的に苦しくなった御家人も多くいました。

永仁の徳政令と悪党の台頭

1297年、幕府は永仁の徳政令を出し、御家人が売った土地を無償で取り戻せるようにしました。しかしこれは金融業者(借上)を混乱させ、以後は御家人への融資が滞るなど逆効果を招き、すぐに撤回されました。同じころ、荘園領主や幕府の支配に従わない新興武士「悪党」が各地で活動を活発化させ、幕府の統治力の低下を象徴しました。

得宗専制と朝廷の不満

13世紀末から、北条氏本家(得宗)が幕府の政治を事実上独占する「得宗専制」が強まりました。北条氏以外の御家人が政治から遠ざけられ、幕府内部にも不満が高まりました。一方、朝廷では後醍醐天皇が天皇みずから政治を行う「天皇親政」の実現を目指し、幕府打倒を計画します。

元弘の変から倒幕運動の拡大へ

後醍醐天皇は1324年(正中の変)・1331年(元弘の変)と二度にわたって倒幕を企てましたが、どちらも発覚。元弘の変では後醍醐天皇は隠岐(島根県)に流されました。しかし1333年、後醍醐天皇が隠岐を脱出すると楠木正成ら南朝方が各地で呼応。さらに幕府の有力御家人だった足利尊氏が後醍醐天皇側に寝返り、六波羅探題を攻略します。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

足利尊氏、六波羅探題を攻略

≒ 幕府軍の主力が内側から崩れる

幕府から倒幕軍の鎮圧を命じられていた足利尊氏が途中で後醍醐天皇側に寝返り、京都の六波羅探題(幕府の西国支配の拠点)を攻め落とした。

新田義貞、鎌倉へ進撃

≒ 本拠地そのものへの直接攻撃

上野(群馬)で挙兵した新田義貞が大軍を率いて鎌倉へ侵攻。稲村ヶ崎から浜を迂回するなどして防衛線を突破し鎌倉に攻め入った。

北条高時ら東勝寺で自害

≒ トップの死で組織が崩壊

追い詰められた執権・北条高時は一族・御家人とともに東勝寺(鎌倉)で自害。北条得宗家が滅亡し、ここに鎌倉幕府は約140年の歴史に幕を閉じた。

前後のできごと
年表
1274
文永の役元・高麗連合軍が北九州に侵攻(文永の役)。御家人への恩賞不足が幕府への不満の種となる。
1281
弘安の役二度目の元寇(弘安の役)。神風(台風)もあり撃退するが御家人の窮乏はさらに深まる。
1297
徳政令永仁の徳政令。御家人の救済を目指したが金融機能を麻痺させ逆効果に。
1331
元弘の変後醍醐天皇が倒幕を企てるが発覚し隠岐に流される(元弘の変)。
1333
倒幕成功足利尊氏が六波羅探題を攻略。新田義貞が鎌倉を攻め、北条高時が自害。鎌倉幕府滅亡。
1334
建武の新政後醍醐天皇が建武の新政を開始。天皇親政が復活するが武士の不満を招く。
1338
室町幕府足利尊氏が征夷大将軍に任じられ室町幕府を開く。
結果とその後
結果
後醍醐天皇の念願だった天皇親政(建武の新政)が翌1334年に実現し、約150年ぶりの朝廷主導の政治が始まった。
建武の新政は武士の不満を抑えられず、足利尊氏が離反。南北朝の動乱に突入し、1338年には室町幕府が成立した。
登場人物
人物

後醍醐天皇

第96代天皇・倒幕運動の主導者

天皇親政の実現を悲願とし、二度の失敗(正中の変・元弘の変)を経て1333年についに倒幕を成し遂げた。

足利尊氏

幕府の有力御家人・後の室町幕府初代将軍

幕府から鎮圧を命じられながら後醍醐天皇側に寝返り六波羅探題を攻略。後に南朝と対立し室町幕府を開く。

新田義貞

上野(群馬)の御家人

上野で挙兵し鎌倉へ進撃。北条氏を鎌倉に追い詰め幕府を滅亡させた中心人物。

北条高時

第14代執権・得宗家当主

鎌倉幕府最後の得宗。政治の実権は御内人に握られ、自身は闘犬や田楽に興じたと伝わる。東勝寺で自害。

楠木正成

河内(大阪)の武士・後醍醐天皇側の武将

後醍醐天皇の倒幕運動を支えたゲリラ戦術に長けた武将。千早城(大阪)の攻防戦で幕府軍を長期間食い止めた。

キーワード解説
用語
六波羅探題
1221年の承久の乱後に鎌倉幕府が京都に設置した機関。朝廷の監視と西国支配を担った。1333年に足利尊氏に攻略されて廃絶。
得宗
北条氏の本家当主の称号。13世紀後半から得宗が幕府の政治を事実上独占する「得宗専制」が強まった。
悪党
13〜14世紀に現れた、荘園領主や幕府の支配に従わない新興武士層の総称。楠木正成もその一人とされる。
元弘の変
1331年、後醍醐天皇が起こした倒幕の企て。発覚して後醍醐天皇は隠岐に流されたが、これが1333年の倒幕運動の直接の契機となった。
建武の新政
鎌倉幕府滅亡翌年の1334年から後醍醐天皇が行った天皇親政。恩賞の偏りや政策への不満から武士の支持を失い短期間で崩壊した。
もっと知りたい
豆知識

1稲村ヶ崎の「海が割れた」伝説

新田義貞が鎌倉に攻め込む際、稲村ヶ崎(鎌倉の西端)で黄金の太刀を海に投じると海水が引いて軍勢が進めたという伝説がある。実際には干潮のタイミングを利用した迂回だったと考えられている。義貞の「天下を取る資格を見せよ」という覚悟を示す逸話として語り継がれてきた。

2東勝寺での最期と「870人以上の自害」

追い詰められた北条高時は北条一族・御家人とともに鎌倉の東勝寺に籠もって自害した。太平記によれば、ここで命を落とした人数は870余人ともいわれる。現在も東勝寺跡(鎌倉市)には供養のための碑が残されている。

3足利尊氏の「寝返り」はなぜ起きた?

足利尊氏は源氏の名門・足利氏の当主であり、幕府内でも有力な御家人だった。しかし北条得宗家の専制政治のもとで足利氏の影響力は制限されており、後醍醐天皇の倒幕運動に乗じる形で幕府から離脱した。権力を独占する北条氏への反発が、寝返りの大きな動機の一つとされている。

4北条高時は本当に政治をしなかった?

後世に書かれた軍記物語「太平記」には、北条高時が闘犬(犬同士を戦わせる遊び)や田楽(芸能)に夢中で政治をなおざりにしたと描かれている。ただし太平記は創作的な要素が強く、史実としての高時評価には慎重な見方も必要である。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
鎌倉幕府滅亡は1333年。語呂は「一味散々(1333)鎌倉滅亡」。
足利尊氏が「六波羅探題」を、新田義貞が「鎌倉」を攻略したことをそれぞれ区別して覚える。
最後の得宗(執権の実権者)は北条高時。東勝寺で自害して北条得宗家が滅亡。
背景として元寇後の御家人の窮乏・永仁の徳政令の失敗・悪党の台頭・得宗専制を押さえておく。
翌1334年に建武の新政(後醍醐天皇による天皇親政)が始まり、1338年に足利尊氏が室町幕府を開く流れを一連で理解する。
語呂クイズ
「一味散々 鎌倉滅亡」= 鎌倉幕府の滅亡は西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 鎌倉幕府が滅んだのはなぜですか?
A. 元寇後に御家人への恩賞が不足して幕府への不満が高まり、得宗(北条氏本家)による専制政治も反発を招きました。そこに後醍醐天皇の倒幕運動が加わり、足利尊氏・新田義貞が幕府を挟み撃ちにして滅亡させました。
Q. 足利尊氏と新田義貞はどう違う役割を果たしましたか?
A. 足利尊氏は西日本の幕府拠点である六波羅探題を攻略し、新田義貞は幕府の本拠地・鎌倉を攻め落としました。二人が東西から挟み撃ちにした形です。
Q. 北条高時とはどんな人物ですか?
A. 鎌倉幕府最後の得宗(北条氏本家当主)で、第14代執権です。1333年に新田義貞に攻め込まれ、一族とともに東勝寺で自害して北条得宗家は滅亡しました。
Q. 元弘の変(1331年)と1333年の幕府滅亡はどう関係しますか?
A. 元弘の変は後醍醐天皇が起こした倒幕の企てで、失敗して天皇は隠岐に流されました。しかし1333年に脱出した後醍醐天皇が各地の武士に呼びかけ、足利尊氏・新田義貞らが呼応して幕府は滅亡しました。
Q. 鎌倉幕府の滅亡後はどうなりましたか?
A. 翌1334年から後醍醐天皇が建武の新政を行いましたが、武士の不満を買い失敗。足利尊氏が離反して南北朝時代へと突入し、1338年に尊氏が室町幕府を開きます。
まとめ

鎌倉幕府の滅亡は「武士の政権が終わった」のではなく、「北条氏による武家政権が終わった」転換点です。元寇後の御家人の疲弊・北条得宗家への不満・後醍醐天皇の倒幕運動という三つの流れが1333年に交わり、足利尊氏と新田義貞が東西から幕府を崩しました。「一味散々(1333)鎌倉滅亡」の語呂とともに、滅亡の背景・主要人物・その後の建武の新政・室町幕府成立までの流れをひとつながりに押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
太平記の記述(高時の行動・東勝寺での自害者数等)は軍記物語であり、史実と混同しないよう記述を慎重にした。
稲村ヶ崎の伝説は史実ではなく伝説・逸話として明示した。
1333年の幕府滅亡年は定説。鎌倉幕府「成立」年については1185年説・1192年説があるが、本記事では滅亡のみを扱うため記述しない。