南北朝・室町幕府 ①中学/政治
1338
足利尊氏が征夷大将軍に(室町幕府)
足利尊氏(室町幕府初代将軍)
語呂
覚え方
いざ都(1338)へ室町幕府
いざ(13)みや(38)こ
1338年(暦応元年)、足利尊氏は北朝の光明天皇から征夷大将軍に任じられ、京都を本拠とする武家政権を樹立しました。これが室町幕府の成立です。鎌倉幕府の滅亡(1333年)から後醍醐天皇による建武の新政、そして尊氏の離反と後醍醐天皇の吉野への遷座(南朝)を経て、京都(北朝)と吉野(南朝)が並立する南北朝時代が本格的に始まりました。南北朝の合一は3代将軍・足利義満の時代、1392年まで続きます。
この記事のポイント
- 1338年、足利尊氏が北朝の光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府を開いた
- 幕府の所在地は京都。鎌倉幕府(神奈川)と異なり、朝廷と同じ都に置かれた
- 後醍醐天皇は京都を追われて吉野に南朝を樹立し、南北朝時代が始まった
- 守護大名の権限が強く、幕府の支配力は鎌倉幕府より地方に及びにくかった
- 「室町幕府」という呼称は3代将軍義満が京都室町に「花の御所」を構えたことに由来
ここが面白い「室町幕府」という名は、尊氏が開いた1338年時点にはまだなかった。3代将軍・義満が京都室町に「花の御所」を構えてから広まった呼び名だ。
室町幕府の成立は突然ではありません。鎌倉幕府の崩壊から建武の新政の失敗、そして南北朝分裂という激動の時代が背景にあります。その流れを順に見てみましょう。
鎌倉幕府の滅亡(1333年)
元寇後の御家人の困窮や、得宗(北条氏の嫡流)による専制に武士の不満が高まっていました。後醍醐天皇が幕府打倒を呼びかけると、有力武将の足利尊氏や新田義貞が呼応。1333年に鎌倉幕府は滅亡しました。
建武の新政の失敗(1334〜)
後醍醐天皇は天皇が直接政治を行う「建武の新政」を開始します。しかし公家中心の政治は武士の慣習や所領を軽視し、「今の世中、何者か歌を好まん、武士もみな北条時代を恋い慕ふ」(二条河原落書)と揶揄されるほど混乱しました。わずか2年足らずで武士の支持を失います。
南北朝の分裂
尊氏は後醍醐天皇と対立して挙兵。一度は九州まで退きますが巻き返し、1336年に京都を制圧して光明天皇(北朝)を立てます。後醍醐天皇は吉野(現・奈良県)に逃れて南朝を樹立。こうして南朝(吉野)と北朝(京都)が並立する南北朝時代が始まりました。
北朝から征夷大将軍に任命
≒ 政権の正当性を公式に確立する1338年、光明天皇(北朝)から征夷大将軍に任じられ、武家政権として正式に発足。京都を拠点とした点が鎌倉幕府と大きく異なる。
守護大名体制
≒ 地方の実力者と権力を分かち合う統治各国の守護(軍事・警察権を持つ大名)の権限が強く、幕府は連合政権的な性格を持った。これが後の応仁の乱の遠因にもなる。
南北朝の対立が続く
≒ 正統性をめぐる内戦状態吉野の南朝と京都の北朝が並立し、各地の武将がいずれかに与して争いが続いた。合一は3代義満の時代(1392年)まで待つことになる。
1333鎌倉幕府滅亡足利尊氏・新田義貞らが呼応し、北条氏滅亡。鎌倉幕府が崩壊する。
1334建武の新政後醍醐天皇が天皇親政を開始。しかし武士を軽視した政治に不満が高まる。
1336南北朝分裂尊氏が光明天皇(北朝)を擁立。後醍醐天皇は吉野へ遷座し南朝を開く。
1338室町幕府成立足利尊氏が征夷大将軍に任じられ、京都を拠点とする室町幕府が発足。
1392南北朝合一3代将軍・足利義満のもとで南北朝が合一。60年近い分裂に終止符。
1404勘合貿易開始義満が明と勘合貿易(日明貿易)を開始。室町幕府の財政を支えた。
1467応仁の乱将軍家の後継争いを機に守護大名が対立。11年に及ぶ内乱で室町の権威が失墜。
1573室町幕府滅亡織田信長が15代将軍・足利義昭を京都から追放し、室町幕府が滅亡する。
◎京都に武家政権が置かれたことで、公家文化と武家文化が融合し、能・書院造・水墨画など独自の室町文化が花開いた。
△守護大名の力が強く、幕府の統制が弱かったため、応仁の乱(1467年)以降は戦国時代へと移行した。南北朝の動乱は各地の武士に「実力による権益確保」の習慣を根付かせた。
足利尊氏
室町幕府初代将軍鎌倉幕府の御家人から後醍醐天皇方に転じ、幕府滅亡に貢献。その後天皇と対立し、北朝を擁立して将軍となった。
後醍醐天皇
南朝の天皇・建武の新政を主導天皇親政を目指したが武士の不満で失敗。吉野に南朝を開き、北朝と対立した。
光明天皇
北朝の天皇尊氏が擁立した北朝の天皇。尊氏に征夷大将軍の宣旨を与えた。
足利義満
3代将軍室町幕府の最盛期を築く。南北朝を合一(1392年)し、明との勘合貿易も開始。京都室町に「花の御所」を構えた。
新田義貞
武将(後醍醐天皇方)鎌倉幕府滅亡に貢献した武将。南北朝の争乱の中で尊氏と対立し戦死した。
- 征夷大将軍
- 武家の最高位の称号。天皇から任じられ、武士を統率する権限を持つ。鎌倉・室町・江戸の各幕府の長がこの地位を占めた。
- 南北朝時代
- 1336年から1392年の約60年間、吉野の南朝と京都の北朝が並立した時代。どちらが正統かをめぐって各地で武力抗争が続いた。
- 守護大名
- 国ごとに置かれた軍事・警察権を持つ武将。室町幕府では守護の力が強く、幕府は彼らの連合体的な性格を持った。
- 建武の新政
- 後醍醐天皇が1334年に開始した天皇親政。公家中心で武士を冷遇したため短命に終わった。
- 花の御所
- 3代将軍足利義満が京都室町に構えた邸宅。「室町幕府」という呼称はここに由来する。1338年の幕府開創時点の呼称ではない。
1「室町幕府」の名は尊氏の時代にはなかった
「室町幕府」という呼び名は、3代将軍・足利義満が京都の室町に「花の御所」(邸宅)を構えたことに由来する。尊氏が1338年に幕府を開いた当時はこの呼称はなく、後世に定着した名前だ。当時は「武家方」「将軍家」などと呼ばれていた。
2都に置かれた唯一の武家政権
鎌倉幕府は神奈川(鎌倉)、江戸幕府は江戸(東京)と、武家政権は通常、都(京都)から離れた地に置かれた。しかし室町幕府は京都に置かれた唯一の武家政権。朝廷と同じ都にあるため、公家文化の影響を強く受け、独自の室町文化が生まれた。
3「二条河原落書」が伝える混乱
建武の新政の混乱ぶりを風刺した「二条河原落書」(1334年)は有名な史料だ。「此比都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨(にせのりんじ)…」と始まり、当時の世情の乱れをリズミカルに列挙している。教科書にも登場する重要史料で、試験にも出やすい。
4南北朝のどちらが「正統」か
現在の皇室は北朝の系統を継いでいる。しかし明治時代、南朝を正統とする「南朝正統論」が高まり、1911年に政府は「南朝が正統」と公式見解を示した経緯がある。歴史上の「正統性」は時代によって評価が変わる好例だ。

ここが出る博士のワンポイント
1338年、足利尊氏が征夷大将軍になった年。語呂は「いざ都(1338)へ室町幕府」。
室町幕府の所在地は京都(鎌倉幕府の鎌倉、江戸幕府の江戸と区別すること)。
南北朝の合一は3代将軍・足利義満の時代、1392年。
「室町幕府」という名称は3代将軍義満が京都室町に「花の御所」を構えたことに由来する(1338年時点の名称ではない)。
守護大名の力が強く、後に応仁の乱(1467年)・戦国時代へとつながる点も重要。
語呂クイズ
「いざ都(1338)へ室町幕府」= 足利尊氏が征夷大将軍に(室町幕府)は西暦何年?
- Q. 室町幕府はいつ成立しましたか?
- A. 1338年、足利尊氏が北朝の光明天皇から征夷大将軍に任じられた年が成立とされます。
- Q. 室町幕府はどこにありましたか?
- A. 京都です。鎌倉幕府(鎌倉)や江戸幕府(江戸)とは異なり、朝廷と同じ都に置かれました。
- Q. 「室町」という名前の由来は何ですか?
- A. 3代将軍・足利義満が京都の室町に「花の御所」という邸宅を構えたことに由来します。足利尊氏が幕府を開いた1338年当時の呼称ではありません。
- Q. 南北朝時代はいつからいつまでですか?
- A. 1336年に後醍醐天皇が吉野に移って南朝を開いてから、1392年に3代将軍・足利義満のもとで南北朝が合一するまでの約56年間です。
- Q. 室町幕府はなぜ滅びたのですか?
- A. 守護大名の力が強く幕府の統制が弱かったため、1467年の応仁の乱以降に権威が失墜しました。最終的には1573年、織田信長に15代将軍・足利義昭が京都から追放されて滅亡しました。
1338年の室町幕府成立は、鎌倉幕府滅亡からわずか5年の出来事です。武士の不満を吸収した足利尊氏が将軍の座についたものの、南北朝の対立は半世紀以上続き、守護大名の割拠が常態化しました。「いざ都(1338)へ室町幕府」の語呂とともに、成立の年・場所(京都)・背景(建武の新政の失敗・南北朝分裂)をセットで押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
「室町幕府」という呼称は足利義満が京都室町に「花の御所」を構えたことに由来し、1338年時点の呼称ではない。記事内でその旨を明記している。
南北朝の正統論(南朝・北朝どちらが正統か)は時代により評価が異なるため、trivia で補足するにとどめ本文では断定を避けた。
幕府成立を1336年(光明天皇擁立・建武式目制定)とする見方もあるが、教科書の主流に従い征夷大将軍任命の1338年とした。