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室町幕府の滅亡の浮世絵イラスト
戦国の終焉 ①中学/政治
1573

室町幕府の滅亡

織田信長・足利義昭(15代将軍)
語呂
覚え方
以後涙(1573)の室町幕府
以後(1・5)涙(7)さ(3)んの室町幕府

1573年(天正元年)、織田信長は15代将軍・足利義昭を京都から追放しました。これにより、1338年の足利尊氏以来、約240年続いた室町幕府は事実上の終焉を迎えます。もともと信長を後ろ盾に将軍の座に就いた義昭でしたが、やがて信長への対抗心を強め、各地の大名に信長打倒を呼びかける「将軍御内書」を送るなど対立を深めました。信長は義昭を槙島城(現在の京都府宇治市)で包囲して降伏させ、京都から追放。義昭はその後も各地を転々としながら将軍の名にこだわり続けましたが、実権は完全に失われ、室町幕府は名実ともに終わりました。

この記事のポイント

  • 1573年、織田信長が15代将軍・足利義昭を京都から追放(室町幕府の滅亡)
  • 義昭はもともと信長に擁立されて将軍となったが、やがて対立が深まる
  • 信長は義昭を槙島城で包囲・降伏させ、将軍の地位を剥奪した
  • 1338年の足利尊氏による開府から約240年で室町幕府が終焉
  • 同1573年には武田信玄が病死し、信長包囲網が崩れたことも大局に影響した
ここが面白い

将軍を京から追い出した信長は、自らは将軍にならなかった。約240年続いた室町幕府の終わりは、あっけないほど静かだった。

ここに至るまでの流れ
背景

室町幕府の滅亡は突然起きたことではありません。1467年の応仁の乱以降、幕府の権威は急速に低下し、全国に戦国大名が割拠する時代が続いていました。信長による義昭追放は、長い衰退の「最終局面」として起きた出来事です。その流れを追ってみましょう。

応仁の乱と幕府の衰退

1467年に始まった応仁の乱は約11年にわたって続き、京都を焼け野原にしました。この乱を境に室町幕府の統治力は急速に失われ、守護大名に代わって実力で領国を支配する戦国大名が各地に台頭します。幕府の将軍はいれど、実際に全国を動かす力はすでに失われていたのです。

信長による義昭の擁立

14代将軍・足利義栄が没した1568年、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たしました。信長の軍事力を背景に義昭は15代将軍の座に就きますが、これは信長にとって「天下布武」を進めるための権威として将軍を利用する構図でもありました。

将軍と信長の対立深化

義昭は次第に傀儡扱いを不満とし、武田信玄・朝倉義景・浅井長政・三好氏・一向一揆などに働きかける「信長包囲網」を形成しようとしました。1573年初頭には武田信玄が西上作戦を開始し、信長は一時苦境に立たされます。しかし同年4月に信玄が陣中で病死し、信長包囲網は瓦解しました。

義昭の追放と幕府の終焉

信長包囲網が崩れると、信長は義昭を槙島城(山城国)で包囲。義昭は降伏して京都を退去し、河内・備後などを転々とした後、備後鞆(とも)の浦を拠点に将軍の名を保ち続けました。しかし実権は完全になく、1573年をもって室町幕府は事実上滅亡したとされます。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

信長包囲網の崩壊

≒ 対抗連合の自壊

1573年4月に武田信玄が病死したことで、各地の大名が連携して信長を追い詰める構図が崩れた。信長はこの機を逃さず義昭との決着に踏み切った。

槙島城の包囲・降伏

≒ 軍事的終止符

信長は義昭が籠もる槙島城を包囲。圧倒的な軍事力の差から義昭は降伏し、7月に京都を退去した。戦闘は短期間で終わり、大きな合戦にはならなかった。

将軍不在の新秩序へ

≒ 権威の空白と新体制

義昭追放後、信長は自らが将軍に就くことはなく、独自の政権「安土政権」を形成していく。室町体制が終わり、天下統一に向けた織豊政権の時代が始まった。

前後のできごと
年表
1338
開府足利尊氏が征夷大将軍に就任し、室町幕府を開く。
1467
応仁の乱応仁の乱が始まり、室町幕府の権威が急速に失墜する。
1568
上洛織田信長が足利義昭を奉じて上洛。義昭が15代将軍に就任。
1573
滅亡信長が義昭を槙島城で包囲・降伏させ、京都から追放。室町幕府の滅亡。同年、武田信玄が陣中で病死。
1575
長篠長篠の戦い。信長・徳川の連合軍が武田勝頼を破り、信長の天下布武が加速する。
1582
本能寺本能寺の変。信長が明智光秀に討たれる。
結果とその後
結果
約240年続いた室町幕府が終わり、戦国時代の混乱を収束させる新たな統一政権(織豊政権)への道が開かれた。
義昭は追放後も備後・鞆を拠点に将軍の名を保ち続け、各地の大名に働きかけた。幕府が「名実ともに」完全消滅したのは義昭の死(1597年)ないし秀吉政権の確立以降という見方もある。
登場人物
人物

足利義昭

室町幕府15代将軍

信長に擁立されて将軍となるが、傀儡扱いを不満として各地に信長打倒を呼びかける。1573年に追放され、約240年続いた室町幕府の最後の将軍となった。

織田信長

尾張の戦国大名

「天下布武」を掲げて上洛し、義昭を将軍に据えた後、対立が深まると義昭を追放。室町幕府に終止符を打ち、天下統一の基盤を築いた。

武田信玄

甲斐の戦国大名

1573年に西上作戦を展開して信長を追い詰めたが、同年4月に陣中で病死。その死が信長包囲網の崩壊につながった。

足利尊氏

室町幕府初代将軍

1338年に征夷大将軍に就任し室町幕府を開いた。義昭の追放により、その幕府は約240年で幕を閉じることになった。

キーワード解説
用語
天下布武
織田信長が用いた印章の文句。武力によって天下に秩序をもたらすという意志を示す。
将軍御内書
室町将軍が諸大名に直接送る書状。義昭はこれを使い、各地の大名に信長への対抗を呼びかけた。
槙島城
現在の京都府宇治市に位置した城。義昭が1573年に籠もり、信長に包囲・降伏した場所。
信長包囲網
足利義昭の呼びかけによって武田・朝倉・浅井・一向一揆などが信長に対抗した連携のこと。武田信玄の病死で崩壊した。
織豊政権
織田信長・豊臣秀吉の政権の総称。室町幕府に代わる新たな政治体制として全国統一を進めた。
もっと知りたい
豆知識

1義昭はその後も「将軍」を名乗り続けた

京を追われた義昭は、毛利氏の庇護を受けながら備後鞆(現在の広島県福山市)を拠点に活動した。1576年頃には鞆幕府(とものばくふ)とも呼ばれる体制をつくり、各地の大名に書状を送り続けた。信長死後の1582年以降も将軍の地位にこだわり、豊臣秀吉の時代になってようやく将軍職を辞した(1588年頃とされる)。

2信長は「元号」まで変えた

義昭追放と同じ1573年、信長は「元亀」という元号を「天正」に改元させた。幕府や朝廷が主導してきた改元を戦国大名が事実上主導したことは、新しい時代の到来を象徴するともいわれる。

3信玄の死が「タイミング」を変えた

1573年初頭、武田信玄は3万ともいわれる大軍で西上作戦を展開し、1月には徳川軍を三方ヶ原の戦いで大敗させ(1572年末)、信長は苦境に立たされた。しかし信玄は同年4月に陣中で53歳で病死。この「信玄の死」がなければ義昭追放のタイミングも変わっていたとみられる。

4室町幕府の寿命は約240年

1338年の開府から1573年の義昭追放までは235年。江戸幕府(1603〜1867年、約265年)と比べると少し短く、鎌倉幕府(1185〜1333年ごろ、約150年)よりは長い。三大幕府の中で「中間」の長さを誇った。

5信長は将軍にならなかった

義昭を追放した後、信長は自ら征夷大将軍に就くことはなかった。なぜ将軍にならなかったのかについては「源氏の血統でないから就けなかった」「将軍という旧来の権威にとらわれなかった」など複数の説があり、史家の間でも議論が続く。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
室町幕府の滅亡は1573年。語呂は「以後涙(1573)の室町幕府」。
滅ぼしたのは織田信長。15代将軍・足利義昭を京都から追放した。
幕府の開始(1338年・足利尊氏)から滅亡(1573年)まで約240年(235年)。
同じ1573年に武田信玄が病死しており、信長包囲網の崩壊と幕府滅亡は同年の出来事。
本能寺の変(1582年)や長篠の戦い(1575年)との時系列に注意:滅亡→長篠→本能寺の順。
語呂クイズ
「以後涙(1573)の室町幕府」= 室町幕府の滅亡は西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 室町幕府はいつ滅亡しましたか?
A. 1573年(天正元年)です。織田信長が15代将軍・足利義昭を京都から追放したことで、約240年続いた室町幕府は事実上終焉を迎えました。
Q. 室町幕府を滅ぼしたのは誰ですか?
A. 織田信長です。将軍・足利義昭を槙島城で包囲・降伏させ、京都から追放しました。
Q. 足利義昭は追放後どうなりましたか?
A. 義昭は毛利氏の庇護を受け、備後鞆(現在の広島県福山市)を拠点に活動を続けました。将軍の名にこだわりながら各地に書状を送りましたが、実権は戻らず、最終的には豊臣秀吉の時代に将軍職を辞したとされます。
Q. 室町幕府が滅亡した年に他に何がありましたか?
A. 同じ1573年に武田信玄が陣中で病死しました。信玄の死により、各地の大名が信長に対抗するために形成していた信長包囲網が崩壊し、義昭追放への流れを後押ししました。
Q. 室町幕府と江戸幕府の違いは何ですか?
A. 室町幕府(1338〜1573年)は京都に置かれ、守護大名の連合政権的な性格が強く、応仁の乱以後は実質的な統治力を失いました。一方、江戸幕府(1603〜1867年)は江戸に置かれ、参勤交代や武家諸法度などで全国の大名を強力に統制した中央集権的な政権でした。
まとめ

室町幕府の滅亡は、単に「将軍が追われた」だけの出来事ではありません。1467年の応仁の乱で始まった約100年にわたる戦国時代の混乱が、信長という強大な権力者によって「一つの区切り」を迎えた瞬間でした。語呂「以後涙(1573)の室町幕府」とともに、開府(1338年・足利尊氏)から約240年の歴史に幕を下ろした年として確実に押さえておきましょう。その後の信長・秀吉・家康による天下統一への道は、ここから始まります。

編集メモ(ファクト)
義昭が将軍職を正式に辞したのは1588年頃とされるため、室町幕府の「滅亡」を1573年とするか1588年とするかは教科書・参考書によって表記が異なる場合がある。中学・高校入試では1573年を答える。
武田信玄の死亡時期は「1573年4月12日(旧暦)」が通説だが、一部に異説もあるため断定表現を避けた。
信長が将軍にならなかった理由(源氏血統説など)は諸説あり、notesで断定を避けた。