語呂で覚える日本史年号語呂合わせ・日本史暗記
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桶狭間の戦いの浮世絵イラスト
戦国の幕開け ①中学/戦乱
1560

桶狭間の戦い

織田信長(尾張の大名)/今川義元(駿河・遠江・三河の大名)
語呂
覚え方
以後群れ(1560)なし、桶狭間で今川敗れる
いご(15)むれ(60)なし

1560年(永禄3年)、大軍を率いて上洛を目指す今川義元に対し、尾張の大名・織田信長は桶狭間(現・愛知県名古屋市緑区および豊明市)で奇襲をしかけ、義元を討ち取りました。大幅な兵力差にもかかわらず信長が勝利したこの戦いは、信長の名を天下に知らしめた出世作となりました。今川の支配下に置かれていた松平元康(のちの徳川家康)はこれを機に独立し、戦国の勢力図は大きく塗り替えられていきます。

この記事のポイント

  • 1560年、今川義元が大軍を率いて尾張に侵攻・上洛を目指した
  • 織田信長が桶狭間(現・愛知県)で今川本陣を奇襲し、義元を討ち取った
  • 兵力は信長方が大幅に劣勢だったと伝わるが、具体数は諸説ある
  • この勝利で信長の名が広まり、天下統一事業の足がかりとなった
  • 今川配下だった松平元康(徳川家康)がこれを機に独立する契機となった
ここが面白い

劣勢だったはずの信長がなぜ勝てたのか――天下を変えた奇襲の真相は今も議論が続く。

ここに至るまでの流れ
背景

桶狭間の戦いは、突然起きたわけではありません。戦国時代、各地の大名が領地を広げ勢力を競い合うなかで、今川・織田両家の緊張関係は長年続いていました。信長が奇跡的な勝利をつかむまでの流れを見てみましょう。

今川義元という大名

今川義元は、駿河(静岡中部)・遠江(静岡西部)・三河(愛知東部)の3か国を支配する東海地方最大の大名でした。文武両道で知られ、京の公家文化にも通じた人物です。隣の尾張(愛知西部)は次の標的として意識されており、実際に信長の父・信秀の代から今川と織田は長年にわたって争ってきました。

織田信長の尾張統一

信長は1534年生まれ。父・信秀の死後、尾張の家督を継ぎましたが、国内の家臣や兄弟との争いが続きました。1559年頃までに尾張をほぼ統一し、戦国大名として独立した地盤を固めたばかりのところへ、今川の大軍が迫ってきたのです。

今川軍の侵攻開始

1560年5月、今川義元は大軍を率いて尾張への侵攻を開始しました。先鋒が丸根・鷲津の砦を相次いで落とすなど、序盤は今川方が圧倒的に優勢でした。清洲城(信長の居城)では誰もが絶望的な状況と感じていたといわれます。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

今川本陣への奇襲

≒ 相手の司令部を直接狙った一点突破

信長は少数の兵を率いて今川義元の本陣に突撃。豪雨の中で視界が遮られたとも伝わるが、奇襲の詳細については諸説ある。

今川義元の討ち取り

≒ トップの排除で組織が崩壊

義元本人が戦場で討ち取られたことで今川軍は総崩れとなった。首将を失った軍が瓦解するのは当時の合戦の常だった。

信長の名声が一気に広まる

≒ 一戦で全国にその名が轟いた

劣勢の信長が大軍を破ったという報せは諸国に伝わり、信長が天下を狙う大名として認知されるきっかけとなった。

前後のできごと
年表
1543
鉄砲伝来種子島にポルトガル人が漂着し、鉄砲が日本に伝わる。のちの信長の戦術に影響を与える。
1549
キリスト教伝来ザビエルが来日し、キリスト教を伝える。信長は後にキリスト教に寛容な政策をとった。
1560
桶狭間織田信長が今川義元を桶狭間で討ち取り、天下に名を轟かせる。
1567
稲葉山城攻略信長が美濃(岐阜)を平定し岐阜城と改名。天下布武の印を使い始める。
1573
室町幕府滅亡信長が15代将軍・足利義昭を追放し、約240年続いた室町幕府が滅亡する。
1575
長篠の戦い信長・家康連合軍が武田勝頼の騎馬隊に鉄砲を活用して大勝。
1582
本能寺の変明智光秀の謀反により信長が本能寺で自害。天下統一は豊臣秀吉に引き継がれる。
1590
天下統一豊臣秀吉が全国統一を果たす。桶狭間から30年、戦国の世がひとつの区切りを迎えた。
結果とその後
結果
信長が東海最強の今川軍を破り、天下統一への道を切り拓く出世作となった。
今川配下だった松平元康(徳川家康)がこの機に独立。のちの江戸幕府成立へつながる大きな転換点にもなった。
今川氏は義元の死後急速に衰え、やがて武田信玄に駿河を奪われるなど東海の覇権を失っていった。
登場人物
人物

織田信長

尾張の大名

この戦いで名を上げ、のちに天下統一を目指す戦国最大の英雄の一人。1582年の本能寺の変で自害。

今川義元

駿河・遠江・三河の大名

東海地方最大の実力者だったが、桶狭間で討ち取られた。文化人としても知られる。

松平元康(徳川家康)

三河の武将(当時は今川配下)

義元の死を機に今川から独立。のちに江戸幕府を開く初代将軍となる。

毛利新介・服部一忠

織田の家臣

義元を実際に討ち取った家臣として伝わるが、詳細については史料による異同がある。

キーワード解説
用語
上洛
京都へ上ること。戦国時代、京都を押さえて足利将軍家や朝廷を後ろ盾にすることが天下を取る近道とされた。
奇襲
相手の意表をつく突撃戦法。敵の守りが手薄な場所や時機を狙って攻める。桶狭間では信長が今川の本陣を直撃したと伝わる。
桶狭間
現在の愛知県名古屋市緑区および豊明市付近にあったとされる地名。戦いの正確な場所については今も諸説ある。
永禄
1560年当時の元号。永禄3年が桶狭間の戦いの年にあたる。
もっと知りたい
豆知識

1「3000対2万5000」は後世の誇張かも?

信長方の兵力を「約2000〜3000」、今川方を「約2万5000」とする数字が広く知られているが、これらは江戸時代以降にまとめられた軍記物の記述が多く、実際の兵力差については研究者の間でも議論がある。「劣勢の中の奇跡的勝利」という物語が強調されやすい点に注意したい。

2豪雨の奇襲、実は違う?

「激しい雷雨の中、今川軍が油断しているところを信長が奇襲した」という逸話が有名だが、奇襲説ではなく正面突破説を唱える研究者もいる。現在の歴史学では「奇襲か正面突破か」は未解決の問いのひとつとされている。

3信長は出陣前に舞を踊った

信長が出陣直前に幸若舞「敦盛」の一節「人間五十年…」を舞ったという逸話が有名。死をも覚悟した信長の心境を伝えるエピソードとして語り継がれているが、これも後世の記録による。

4家康にとっても転機だった

当時、松平元康(家康)は今川義元の命を受けて兵糧を届ける任務にあった。義元討死の知らせを受けた家康は独立を決意し、三河統一へと動き出す。桶狭間は信長だけでなく、家康の人生をも大きく変えた戦いだった。

5桶狭間の場所は今も謎

戦いの正確な場所については、愛知県名古屋市緑区と豊明市の2か所にそれぞれ「桶狭間古戦場」があり、現在も論争が続いている。どちらが本当の古戦場かは確定していない。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1560年。語呂は「以後群れなし(1560)」桶狭間で今川敗れる。
織田信長が今川義元を討ち取った戦い。信長の出世作として必ず押さえる。
松平元康(徳川家康)が今川から独立する契機になった点も重要。
場所は尾張(現・愛知県)の桶狭間。信長の居城は清洲城。
兵力差・奇襲の詳細は諸説あり、試験では「劣勢の信長が勝利」という事実のみ問われることが多い。
語呂クイズ
「以後群れ(1560)なし、桶狭間で今川敗れる」= 桶狭間の戦いは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 桶狭間の戦いはいつ起きましたか?
A. 1560年(永禄3年)です。語呂合わせ「以後群れなし(1560)」で覚えましょう。
Q. 桶狭間の戦いで戦ったのは誰と誰ですか?
A. 尾張の大名・織田信長と、駿河・遠江・三河の大名・今川義元です。信長が義元を討ち取りました。
Q. 桶狭間はどこにありますか?
A. 現在の愛知県名古屋市緑区および豊明市付近とされています。正確な場所については今も諸説あります。
Q. なぜ劣勢の信長が勝てたのですか?
A. 奇襲によって今川の本陣を直撃し、義元本人を討ち取ったことで今川軍が崩れたとされています。ただし奇襲の詳細や兵力差の正確な数については研究者の間で議論があります。
Q. 桶狭間の戦いが徳川家康に関係するのはなぜですか?
A. 当時の家康(松平元康)は今川義元の配下にいましたが、義元が討ち取られたことで今川の支配から独立する機会を得ました。これが後の江戸幕府成立へつながっていきます。
まとめ

桶狭間の戦いは、単なる「奇跡の逆転劇」ではありません。この一戦で信長は東海随一の大名・今川義元を倒し、天下統一への扉を開きました。また今川配下だった松平元康(家康)が独立する契機ともなり、戦国の勢力図を根底から塗り替えた出来事です。「以後群れなし(1560)桶狭間」の語呂とともに、誰が・どこで・どうなったかをセットで押さえましょう。

編集メモ(ファクト)
兵力数(信長約2000〜3000 vs 今川約2万5000など)は江戸時代以降の軍記物に基づく記述が多く、現在の歴史研究では実数・比率ともに諸説ある。本文では「大幅に劣勢だったと伝わる」と断定を避けた。
奇襲の詳細(豪雨、信長の突撃ルートなど)も史料によって異なる。trivia・faqで「諸説あり」と明示している。
桶狭間の正確な場所は名古屋市緑区・豊明市の2説が現存し、確定していない。