
織田信長
- よみ
- おだ・のぶなが
- 生没年
- 1534–1582
- 別名
- 織田上総介・吉法師(幼名)
- 時代
- 戦国〜安土桃山時代
- 出身
- 尾張国(現在の愛知県)
- おもな地位
- 戦国大名/右大臣・右近衛大将
- 父母
- 父:織田信秀/母:土田御前
- 正室
- 濃姫(帰蝶/斎藤道三の娘)
- おもな家臣
- 羽柴秀吉・明智光秀・柴田勝家
- 同盟・関係
- 徳川家康(清洲同盟)/宿敵:武田信玄・上杉謙信
どんな人?
織田信長(おだ・のぶなが)は、「天下布武」を掲げて天下統一を目前まで進めた戦国の革命児です。尾張(現・愛知県)の大名として台頭し、1560年の桶狭間の戦いで今川義元を破って一躍名を上げました。
1543年に種子島へ伝わった鉄砲の戦略的価値をいち早く見抜き、1575年の長篠の戦いでは鉄砲の大量運用など革新的な戦術で武田軍を撃破します。1573年には足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、天下統一の基盤を築きました。
しかし全国統一を目前にした1582年、家臣・明智光秀の謀反により本能寺で自害します。その事業は豊臣秀吉、そして徳川家康へと受け継がれ、戦国の世を終わらせる流れをつくりました。享年49。
おもな業績・つくったもの
- 桶狭間の戦いで今川義元を破る(1560年)尾張へ攻め込んだ大軍の今川義元を、豪雨に乗じた奇襲で討ち取った戦い。信長の名が天下に知られる出発点となった。
- 足利義昭を追放し室町幕府を滅ぼす(1573年)対立した15代将軍・足利義昭を京都から追放。約240年続いた室町幕府はここに滅び、天下統一事業が本格化した。
- 長篠の戦いで鉄砲を大量運用(1575年)馬防柵と多数の鉄砲を組み合わせた戦法で、当時最強とされた武田の騎馬隊を撃破。その後の戦い方を大きく変えた。
- 楽市・楽座で商業を振興城下町で座(同業組合)の特権や関所を廃止し、誰でも自由に商売できるようにした経済政策。城下の繁栄を促した。
- 安土城を築く琵琶湖畔に築いた壮大な城。高くそびえる天主を備え、信長の権威と新しい時代の到来を象徴した。
生涯のあゆみ(年表)
- 1534尾張国に織田信秀の嫡男として生まれる
- 1549斎藤道三の娘・濃姫を正室に迎える
- 1551父・信秀の死により家督を継ぐ
- 1560桶狭間の戦いで今川義元を破る解説を見る →
- 1567美濃を平定し「天下布武」の印を用い始める
- 1568足利義昭を奉じて上洛する
- 1570姉川の戦いで浅井・朝倉連合を破る
- 1571比叡山延暦寺を焼き討ちにする
- 1573足利義昭を追放し、室町幕府が滅亡解説を見る →
- 1575長篠の戦いで武田勝頼を破る解説を見る →
- 1576琵琶湖畔に安土城の築城を開始する
- 1582本能寺の変で明智光秀に討たれ自害(享年49)解説を見る →
名言
ゆかりの地
豆知識
出陣前に敦盛を舞う
桶狭間へ向かう直前、信長は幸若舞「敦盛」の一節「人間五十年…」を舞ったと伝わる。死を覚悟した心境を示す逸話として語り継がれている。
将軍にならなかった男
義昭を追放した後も信長は征夷大将軍に就かなかった。源氏でないため就けなかったとも、旧来の権威にとらわれなかったとも言われ議論が続く。
楽市・楽座で商業を活性化
信長は城下町で座の特権や関所を撤廃する楽市・楽座を進め、商人が自由に商売できるようにした。経済を重視した革新的な政策として知られる。
人物相関
よくある質問
織田信長は何をした人?
戦国時代に「天下布武」を掲げ、桶狭間の戦いや長篠の戦いなど革新的な戦術で勢力を広げた戦国大名です。室町幕府を滅ぼし、天下統一を目前まで進めました。
織田信長の死因は?
1582年、家臣の明智光秀が起こした本能寺の変で襲われ、京都・本能寺で自害しました。享年49(数え年)です。
「天下布武」とはどういう意味?
「武力によって天下を治める」という意味で、信長が美濃を平定した1567年ごろから印章に用いた言葉です。天下統一への意志を示すスローガンとされます。
織田信長と豊臣秀吉・徳川家康の関係は?
羽柴(豊臣)秀吉は信長の家臣、徳川家康は同盟者でした。信長の死後、天下は家臣の秀吉、次いで同盟者の家康へと受け継がれていきました。