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本能寺の変(太閤検地の開始)の浮世絵イラスト
天下統一への道 ③中学/政治
1582

本能寺の変(太閤検地の開始)

明智光秀(織田家家臣)・織田信長
語呂
覚え方
以後はに(1582)くしみ本能寺
いご(15)はに(82)くしみ

1582年(天正10年)6月2日、京都・本能寺に宿泊していた織田信長は、家臣・明智光秀に率いられた軍勢に突然包囲されました。圧倒的な兵力差の前に信長は自害し、天下統一目前の巨星が突然散ります。これが「本能寺の変」です。しかし光秀の天下は長く続きません。知らせを受けた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が中国地方から驚異的な速さで引き返し(「中国大返し」)、山崎の戦いで光秀を撃破。「三日天下」と後世に呼ばれた光秀の天下はわずか11日で幕を閉じました。秀吉はその後の後継者争いを制し、信長に続く天下人への道を歩み始めます。同年、秀吉は太閤検地を開始し、全国統一への布石を打っていきました。

この記事のポイント

  • 1582年6月2日、明智光秀が京都・本能寺の織田信長を急襲。信長は自害する
  • 天下統一を目前にした信長の死で、戦国の覇権争いが再び流動化した
  • 光秀は山崎の戦い(同年6月13日)で羽柴秀吉に敗れ、わずか11日で滅亡(「三日天下」)
  • 秀吉は清洲会議などを経て信長の後継者争いを制し、天下人への地位を固めた
  • 同年、秀吉は太閤検地を開始し、全国統一政策の基盤づくりに着手した
ここが面白い

「三日天下」に終わった光秀。なぜ信長を討ったのか、その動機は今も謎のままです。

ここに至るまでの流れ
背景

本能寺の変は突然起きたように見えますが、信長の急速な権力拡大と、それに伴う家臣団・周辺勢力との緊張関係が積み重なった結果でもありました。変が起きるまでの流れを追ってみましょう。

信長の台頭と天下布武

尾張の小大名だった織田信長は、1560年の桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り一躍名を高めました。1568年に足利義昭を奉じて上洛し、1573年に義昭を追放して室町幕府を事実上滅亡させます。「天下布武」を掲げ、長篠の戦い(1575年)での鉄砲三段撃ちなど革新的な戦術で着々と版図を広げていきました。

急速な権力集中と家臣団の緊張

信長は実力で勝ち取った権力を背景に、家臣にも容赦なく厳しい要求を課しました。光秀は重要な役割を担い信長の信頼を得ていた一方で、叱責を受けたとする記録も残っています。信長が急速に権力を一極集中させるなか、家臣や同盟者たちとの関係には複雑な緊張が生まれていたとされます。

変前夜の状況

1582年6月、信長は本能寺に少数の護衛とともに宿泊していました。当時、主力部隊は各地の戦線に展開しており、京都の信長のもとには手薄な警備しかありませんでした。光秀は出陣の名目で約1万3千の兵を率いて京都へ向かい、夜明け前に本能寺を包囲します。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

本能寺の急襲

≒ 予告なしの組織内クーデター

1582年6月2日未明、明智光秀が約1万3千の兵で本能寺を包囲。信長は抵抗するも衆寡敵せず自害した。信長の嫡男・信忠も二条御所で自害している。

中国大返しと山崎の戦い

≒ 情報戦と機動力が勝敗を決した

備中(現岡山県)にいた羽柴秀吉は変の知らせをつかむと、毛利氏と急ぎ講和し約200kmを10日足らずで引き返した(中国大返し)。6月13日の山崎の戦いで光秀軍を撃破し、光秀は逃亡中に落ち武者狩りに遭い死亡した。

清洲会議と太閤検地

≒ 危機をチャンスに変えた政治的根回し

6月27日の清洲会議(信長の後継者を決める重臣会議)で秀吉は柴田勝家らを抑えて主導権を握った。同年、秀吉は太閤検地を開始し、土地の生産力を統一基準で測量する政策を推進していった。

前後のできごと
年表
1560
桶狭間織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち、天下へ向けて台頭する。
1573
室町滅亡信長が将軍・足利義昭を追放し、室町幕府が事実上滅亡。
1575
長篠長篠の戦いで信長・家康連合が武田軍を撃破。鉄砲の威力を示す。
1582
本能寺6月2日、明智光秀が本能寺の信長を急襲。信長自害。山崎の戦いで光秀滅亡。同年、太閤検地が始まる。
1583
賤ヶ岳賤ヶ岳の戦いで秀吉が柴田勝家を破り、信長後継者争いを決定的に制する。
1585
関白秀吉が関白に就任し、公的に天下人としての地位を確立する。
1588
刀狩秀吉が刀狩令を出し、農民から武器を没収して兵農分離を進める。
1590
天下統一秀吉が小田原の北条氏を滅ぼし、全国統一を完成させる。
1600
関ヶ原秀吉の死後、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し、新たな時代が始まる。
結果とその後
結果
羽柴秀吉が山崎の戦いで光秀を倒し、清洲会議を経て信長の後継者争いを制した。秀吉は1590年に全国統一を達成する。
信長の死により天下統一が一時中断し、後継者争いが激化。朝鮮出兵(文禄・慶長の役)など秀吉政権の対外政策が混乱を招き、関ヶ原の戦いへとつながっていく。
登場人物
人物

明智光秀

織田家家臣・謀反人

丹波平定などで活躍した有能な武将。謀反の動機は現在も諸説あり確定していない。山崎の戦いに敗れ落ち武者狩りで死亡(享年55歳前後とされるが不確か)。

織田信長

天下人(自害)

尾張から天下統一目前まで上り詰めた戦国最大の実力者。本能寺で自害。享年49歳。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)

信長の後継者

中国大返しと山崎の戦いで光秀を倒し、清洲会議・賤ヶ岳の戦いを経て天下人になる。

織田信忠

信長の嫡男

本能寺の変と同日、二条御所で奮戦した末に自害。信忠の死が信長後継者争いを複雑にした一因。

柴田勝家

織田家重臣

清洲会議・賤ヶ岳の戦いで秀吉と対立。1583年に敗れて自害し、後継者争いが決着する。

キーワード解説
用語
本能寺の変
1582年(天正10年)6月2日、明智光秀が京都・本能寺に宿泊中の主君・織田信長を急襲し、信長が自害した政変。
三日天下
光秀が信長を討ってから山崎の戦いで滅ぶまでの期間(約11日)を指す言葉。転じて、権力がごく短期間しか続かないことの例えにも使われる。
中国大返し
備中高松(現岡山県)にいた羽柴秀吉が、本能寺の変を知り、毛利氏と急ぎ講和してから約200kmを10日足らずで引き返した大行軍。
太閤検地
秀吉が1582年から実施した全国規模の土地調査。統一基準で田畑の広さと生産力(石高)を測量し、年貢の基礎を整備した。兵農分離を促進する効果もあった。
清洲会議
1582年6月27日、尾張・清洲城で信長の後継者を決めるために開かれた重臣会議。秀吉が柴田勝家らを抑えて主導権を握った。
もっと知りたい
豆知識

1「敵は本能寺にあり」は後世の逸話

出陣前夜に光秀が「敵は本能寺にあり」と叫んで将兵に謀反を明かしたという話は、後世に書かれた軍記物に由来し、信頼できる一次史料には記録されていない。劇的な名言として広まったが、実際の言葉かどうかは確認できない。

2信長は何人の護衛と泊まっていたか

本能寺での信長の護衛は小姓ら数十人程度とされ、一万を超える光秀軍に対して抵抗できる規模ではなかった。信長自身も弓や槍で応戦したという記録が残っているが、最期の様子は史料によって記述が異なる。

3光秀が謀反に踏み切った動機は今も謎

主な学説には「信長への怨恨説(折檻・侮辱を受けた)」「野望説(自ら天下を取ろうとした)」「四国政策をめぐる危機感説」「朝廷・将軍家との連絡説」などがある。近年は複合的な要因を重視する見方が多く、単一の動機に絞ることは難しいとされる。

4「中国大返し」の速さ

秀吉は変を知ってから数日で毛利氏と講和し、約200kmを引き返して山崎の戦いに間に合わせた。この迅速さは光秀軍の結束が固まる前に勝負を決めるという秀吉の判断によるもので、戦略眼の高さを示す出来事として評価されている。

5「三日天下」は実際には11日

6月2日の本能寺の変から6月13日の山崎の戦いまでは11日間。「三日天下」は誇張表現だが、権力掌握が極めて短命だった事実は変わらない。光秀は山崎の戦い後に落ち武者狩りで命を落としたとされる(「小栗栖の竹藪」の伝承など)。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号1582年、出来事は「本能寺の変」。語呂は「以後はに(1582)くしみ本能寺」。
謀反を起こしたのは明智光秀。討たれた(自害した)のは織田信長。
光秀を倒したのは羽柴秀吉で、山崎の戦い(同年)。このすばやい行動が秀吉を天下人への道に乗せた。
同年1582年、秀吉が太閤検地を開始。本能寺の変と太閤検地の開始が同じ年であることを押さえる。
清洲会議(1582年6月27日)→賤ヶ岳の戦い(1583年)→秀吉の全国統一(1590年)という流れを整理しておく。
語呂クイズ
「以後はに(1582)くしみ本能寺」= 本能寺の変(太閤検地の開始)は西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 本能寺の変はなぜ起きたのですか?
A. 明智光秀が謀反を起こした動機は、怨恨説・野望説・四国政策との関係など諸説あり、現在も定説は確立していません。複合的な要因があったと考えるのが現在の主流です。
Q. 織田信長はどのように死にましたか?
A. 明智軍に包囲された本能寺で自害したとされています。享年49歳。最期の様子の詳細は史料によって記述が異なります。
Q. 「三日天下」とはどういう意味ですか?
A. 明智光秀が信長を討ってから山崎の戦いで秀吉に敗れるまで約11日しか続かなかったことを指します。「三日」は誇張ですが、権力が極めて短命だったことを表す言葉です。
Q. 太閤検地とは何ですか?
A. 秀吉が1582年から実施した全国の土地調査です。田畑の生産力(石高)を統一基準で測量し、年貢の基礎を整えました。兵農分離を進めた政策でもあります。
Q. 本能寺の変の後、誰が天下を取りましたか?
A. 羽柴秀吉(豊臣秀吉)です。山崎の戦いで光秀を倒し、清洲会議・賤ヶ岳の戦いを経て信長後継者争いを制し、1590年に全国統一を達成しました。
まとめ

本能寺の変は、天下統一目前の絶対的権力者が家臣の手で突然倒れるという、歴史の大きな転換点です。しかし結果的には、後継者争いを制した羽柴秀吉が信長の路線を引き継ぎ、太閤検地や刀狩令などの統一政策を完成させていきました。「以後はに(1582)くしみ本能寺」で年号を押さえつつ、本能寺の変→山崎の戦い→清洲会議→秀吉の台頭という流れと、同年に太閤検地が開始されたことをセットで記憶しておきましょう。

編集メモ(ファクト)
「敵は本能寺にあり」という言葉は後世の軍記物に由来し、一次史料による裏付けは弱い。trivia で補足した。
光秀の死の状況(落ち武者狩り)は伝承が多く、詳細は史料によって異なる。断定を避けた。
光秀の謀反の動機は諸説あり確定していないため、断定せずに複数説を紹介する形にした。
太閤検地の開始年は1582年(events.jsonの表記に準拠)。検地は1598年ごろまで段階的に実施された。