
1575年(天正3年)、三河国(現在の愛知県新城市)の長篠・設楽原で、織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼の軍が激突しました。信長は馬防柵を築き、大量の鉄砲を集中運用することで、当時最強とも称された武田騎馬軍団の突撃を退けました。この勝利は戦国の戦い方を大きく変えた転換点とされ、信長の天下統一へ向けた勢いをいっそう強める結果となりました。また、この5年後の1580年に石山本願寺が降伏し、1582年には本能寺の変が起きます。長篠はその激動の時代の真っただ中に位置する重要な戦いです。
「三段撃ち3000挺」は江戸時代以降に広まった話。実際の鉄砲数や戦法については現在も研究が続いている。
長篠の戦いは、突然に起きた出来事ではありません。1543年の鉄砲伝来から三十余年、そして1560年の桶狭間の戦いを経て信長が台頭するまでの流れ、さらに武田氏との長年にわたる対立が背景にあります。
1543年、ポルトガル人によって種子島に伝わった鉄砲は、数十年のうちに各地の大名が争って調達する重要な武器となりました。生産地として堺・国友・根来などが栄え、戦場での使用も徐々に増えていきました。信長は早い段階から鉄砲の有用性に着目し、積極的に取り入れた武将の一人です。
1560年の桶狭間の戦いで、今川義元の大軍を少数の手勢で奇襲した信長は一躍その名を知られる存在となりました。その後、1573年には室町幕府(足利義昭)を追放し、天下布武の旗印のもと支配領域を広げていきました。
信玄の代から強大な武力を誇った武田氏は、1572〜73年の西上作戦で徳川・織田連合を脅かしましたが、信玄は1573年に病没。後を継いだ勝頼は父の遺志を継ぎ、信長・家康と対立を続けました。長篠城は家康の支配下にある要衝であり、勝頼はその攻略に乗り出したのです。
1575年、勝頼は大軍を率いて長篠城を包囲しました。城将・奥平貞昌は少人数で籠城し、鳥居強右衛門という武士が命がけで城外に脱出し信長へ援軍を要請したという逸話が伝わります。信長は家康とともに大軍で救援に向かい、設楽原に布陣して決戦の場が整いました。
信長は設楽原に大規模な馬防柵(木柵)を張り巡らせ、武田騎馬隊の突撃を物理的に阻む陣地を作り上げた。防御を固めた上で鉄砲を運用する戦術的な工夫が光る。
多数の鉄砲足軽を馬防柵の後方に配置し、一斉射撃で武田軍の突撃を迎え撃った。当時としては異例とも言える大量の鉄砲の活用が、長篠の戦いを象徴する特徴とされる。
山縣昌景・馬場信春・内藤昌豊ら武田の重臣・有力武将が次々と戦死。武田氏の軍事力は大きく損なわれ、信長・家康との力関係が決定的に変わった。
天下布武を掲げて覇権を争う。鉄砲の大量運用など革新的な戦術で知られる。
長篠城を管轄する同盟相手。信長に援軍を要請し、連合軍として戦った。
信玄の後継者。長篠で大敗し、重臣の多くを失う。1582年に滅亡。
少人数で武田軍の包囲に耐え抜き、援軍到着まで城を守った。
援軍要請のため城外に脱出し信長に伝達。帰路に武田軍に捕えられ処刑されたと伝わる。
武田四天王の一人。長篠で戦死。この戦いで多くの重臣が失われた。
「鉄砲を三段に並べ3000挺で連続射撃した」という話は江戸時代の軍記物語などで広まったが、同時代の一次史料には明確な記述がない。実際の鉄砲数や射撃方法については現在も研究者の間で議論が続いており、定説として断定するのは難しい状況にある。
長篠城の雑兵・鳥居強右衛門は泳いで城外に脱出し信長への援軍要請に成功した。帰路に武田軍に捕えられ、「援軍は来ない」と叫べば命を助けると言われたが、逆に「援軍は必ず来る」と城内に向けて叫んだため処刑されたと伝わる。忠義の武士として後世まで語り継がれている。
山縣昌景・馬場信春・内藤昌豊・真田信綱・土屋昌続ら武田の重臣・有力武将が相次いで戦死。武田氏の軍事的中枢を担う人材の多くをこの一戦で失ったことは、その後の武田氏衰退に大きく影響した。
愛知県新城市には長篠城址史跡保存館があり、城跡や設楽原古戦場などが見学できる。毎年5月には長篠合戦のぼりまつりが開催される。

長篠の戦いは、鉄砲と馬防柵を組み合わせた「守りながら撃つ」戦術が戦国の攻防を大きく変えた象徴的な戦いです。「以後なご(1575)む長篠」の語呂とともに、織田・徳川 対 武田という対戦構図、そして馬防柵と鉄砲の集中運用という信長の戦術を押さえましょう。「三段撃ち3000挺」は広く知られた話ですが史料的な裏づけが不十分であり、近年の歴史研究では慎重な見方が主流です。試験では「鉄砲を大量・集中的に活用した」という点が核心です。