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長篠の戦いの浮世絵イラスト
織田信長の天下統一 ②中学/戦乱
1575

長篠の戦い

織田信長・徳川家康(連合軍)対 武田勝頼
語呂
覚え方
以後なごむ長篠、鉄砲三段撃ち
以後(1・5)な(7)ご(5)む長篠

1575年(天正3年)、三河国(現在の愛知県新城市)の長篠・設楽原で、織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼の軍が激突しました。信長は馬防柵を築き、大量の鉄砲を集中運用することで、当時最強とも称された武田騎馬軍団の突撃を退けました。この勝利は戦国の戦い方を大きく変えた転換点とされ、信長の天下統一へ向けた勢いをいっそう強める結果となりました。また、この5年後の1580年に石山本願寺が降伏し、1582年には本能寺の変が起きます。長篠はその激動の時代の真っただ中に位置する重要な戦いです。

この記事のポイント

  • 1575年、三河国長篠(現愛知県新城市)で起きた戦い
  • 織田信長・徳川家康の連合軍が武田勝頼の軍を破った
  • 信長は馬防柵を設けて防御を固め、鉄砲を集中運用した
  • 武田軍は多大な損害を受け、有力武将の多くを失った
  • 通説の「三段撃ち・3000挺」は近年の研究で見直されつつある
ここが面白い

「三段撃ち3000挺」は江戸時代以降に広まった話。実際の鉄砲数や戦法については現在も研究が続いている。

ここに至るまでの流れ
背景

長篠の戦いは、突然に起きた出来事ではありません。1543年の鉄砲伝来から三十余年、そして1560年の桶狭間の戦いを経て信長が台頭するまでの流れ、さらに武田氏との長年にわたる対立が背景にあります。

鉄砲伝来と普及

1543年、ポルトガル人によって種子島に伝わった鉄砲は、数十年のうちに各地の大名が争って調達する重要な武器となりました。生産地として堺・国友・根来などが栄え、戦場での使用も徐々に増えていきました。信長は早い段階から鉄砲の有用性に着目し、積極的に取り入れた武将の一人です。

信長の台頭と桶狭間

1560年の桶狭間の戦いで、今川義元の大軍を少数の手勢で奇襲した信長は一躍その名を知られる存在となりました。その後、1573年には室町幕府(足利義昭)を追放し、天下布武の旗印のもと支配領域を広げていきました。

武田氏との対立

信玄の代から強大な武力を誇った武田氏は、1572〜73年の西上作戦で徳川・織田連合を脅かしましたが、信玄は1573年に病没。後を継いだ勝頼は父の遺志を継ぎ、信長・家康と対立を続けました。長篠城は家康の支配下にある要衝であり、勝頼はその攻略に乗り出したのです。

長篠城の包囲と救援

1575年、勝頼は大軍を率いて長篠城を包囲しました。城将・奥平貞昌は少人数で籠城し、鳥居強右衛門という武士が命がけで城外に脱出し信長へ援軍を要請したという逸話が伝わります。信長は家康とともに大軍で救援に向かい、設楽原に布陣して決戦の場が整いました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

馬防柵の設置

≒ 防御陣地の構築

信長は設楽原に大規模な馬防柵(木柵)を張り巡らせ、武田騎馬隊の突撃を物理的に阻む陣地を作り上げた。防御を固めた上で鉄砲を運用する戦術的な工夫が光る。

鉄砲の集中運用

≒ 火力の集約

多数の鉄砲足軽を馬防柵の後方に配置し、一斉射撃で武田軍の突撃を迎え撃った。当時としては異例とも言える大量の鉄砲の活用が、長篠の戦いを象徴する特徴とされる。

武田軍の壊滅的損害

≒ 決定的な打撃

山縣昌景・馬場信春・内藤昌豊ら武田の重臣・有力武将が次々と戦死。武田氏の軍事力は大きく損なわれ、信長・家康との力関係が決定的に変わった。

前後のできごと
年表
1543
鉄砲伝来ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝える。各地の大名が調達を競う。
1560
桶狭間桶狭間の戦いで信長が今川義元を破り、天下への足がかりをつかむ。
1573
室町幕府滅亡信長が足利義昭を追放し、室町幕府が滅亡。武田信玄も同年病没。
1575
長篠の戦い織田・徳川連合が武田勝頼を設楽原で撃破。武田の有力武将が多数戦死。
1582
本能寺の変明智光秀の謀反で信長が本能寺に討たれる。天下統一の途上での非命。
1590
全国統一豊臣秀吉が小田原の北条氏を降して全国統一を完成させる。
結果とその後
結果
武田氏の主力が大きく損なわれ、信長・家康の勢力が戦国後半の覇権に向けて大きく前進した。
武田氏はこの戦いの後も滅亡するまで7年間存続する(武田氏滅亡は1582年)。長篠はあくまで決定打の一つであり、単独で天下の形勢を決したわけではない。
登場人物
人物

織田信長

尾張・美濃等の大名

天下布武を掲げて覇権を争う。鉄砲の大量運用など革新的な戦術で知られる。

徳川家康

三河の大名

長篠城を管轄する同盟相手。信長に援軍を要請し、連合軍として戦った。

武田勝頼

甲斐・信濃等の大名

信玄の後継者。長篠で大敗し、重臣の多くを失う。1582年に滅亡。

奥平貞昌(信昌)

長篠城将

少人数で武田軍の包囲に耐え抜き、援軍到着まで城を守った。

鳥居強右衛門

長篠城の雑兵

援軍要請のため城外に脱出し信長に伝達。帰路に武田軍に捕えられ処刑されたと伝わる。

山縣昌景

武田の有力武将

武田四天王の一人。長篠で戦死。この戦いで多くの重臣が失われた。

キーワード解説
用語
馬防柵
騎馬の突撃を防ぐために設けた木の柵。長篠・設楽原では大規模に設置され、鉄砲との組み合わせで防御線を形成した。
三段撃ち
鉄砲足軽を3列に分け、射撃・装填・準備を交互に行うことで連続的な射撃を実現したとされる戦法。ただし史料への記載は乏しく、後世に広まった通説である可能性が高い。
天下布武
「武力で天下を治める」を意味する信長の印章の文言。信長の覇権への意志を示すスローガン。
設楽原
長篠城の近くにある平地。この地に信長・家康の連合軍が布陣し、武田軍と激突した。
もっと知りたい
豆知識

1「三段撃ち3000挺」は後世の創作か

「鉄砲を三段に並べ3000挺で連続射撃した」という話は江戸時代の軍記物語などで広まったが、同時代の一次史料には明確な記述がない。実際の鉄砲数や射撃方法については現在も研究者の間で議論が続いており、定説として断定するのは難しい状況にある。

2鳥居強右衛門の伝説

長篠城の雑兵・鳥居強右衛門は泳いで城外に脱出し信長への援軍要請に成功した。帰路に武田軍に捕えられ、「援軍は来ない」と叫べば命を助けると言われたが、逆に「援軍は必ず来る」と城内に向けて叫んだため処刑されたと伝わる。忠義の武士として後世まで語り継がれている。

3武田軍の損害は甚大だった

山縣昌景・馬場信春・内藤昌豊・真田信綱・土屋昌続ら武田の重臣・有力武将が相次いで戦死。武田氏の軍事的中枢を担う人材の多くをこの一戦で失ったことは、その後の武田氏衰退に大きく影響した。

4長篠城は現在も跡が残る

愛知県新城市には長篠城址史跡保存館があり、城跡や設楽原古戦場などが見学できる。毎年5月には長篠合戦のぼりまつりが開催される。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1575年。語呂は「以後なご(1575)む長篠」。
対戦構図:織田信長・徳川家康の連合軍 対 武田勝頼。
信長の戦術の特徴:馬防柵の設置と鉄砲の集中運用。
「三段撃ち・3000挺」は通説だが史料的根拠が薄く、試験では「鉄砲を活用した」という点を押さえれば十分。
時系列:桶狭間(1560)→ 室町幕府滅亡(1573)→ 長篠(1575)→ 本能寺(1582)の順。
語呂クイズ
「以後なごむ長篠、鉄砲三段撃ち」= 長篠の戦いは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 長篠の戦いはいつ・どこで起きましたか?
A. 1575年(天正3年)、三河国長篠・設楽原(現在の愛知県新城市)で起きました。
Q. 長篠の戦いで戦ったのは誰と誰ですか?
A. 織田信長・徳川家康の連合軍と、武田勝頼の軍が戦いました。
Q. なぜ信長は長篠の戦いに勝てたのですか?
A. 馬防柵を築いて武田騎馬隊の突撃を防ぎ、大量の鉄砲を集中運用することで有利な条件を作り出したからです。
Q. 「三段撃ち」は本当にあったのですか?
A. 江戸時代の軍記物語などで広まった話ですが、同時代の確かな史料には明記されておらず、現在も研究者の間で議論が続いています。実際に大量の鉄砲が活用されたことは確かとされています。
Q. 長篠の戦いのあと武田氏はどうなりましたか?
A. 多くの重臣を失って弱体化し、1582年に信長・家康・北条氏らの攻撃を受けて滅亡しました(天目山の戦い)。
まとめ

長篠の戦いは、鉄砲と馬防柵を組み合わせた「守りながら撃つ」戦術が戦国の攻防を大きく変えた象徴的な戦いです。「以後なご(1575)む長篠」の語呂とともに、織田・徳川 対 武田という対戦構図、そして馬防柵と鉄砲の集中運用という信長の戦術を押さえましょう。「三段撃ち3000挺」は広く知られた話ですが史料的な裏づけが不十分であり、近年の歴史研究では慎重な見方が主流です。試験では「鉄砲を大量・集中的に活用した」という点が核心です。

編集メモ(ファクト)
「三段撃ち」「3000挺」については江戸時代の軍記・絵図(「長篠合戦図屏風」等)に由来する通説だが、同時代の一次史料での確認が困難なため、本記事では断定を避けた表現とした。
実際の鉄砲数については500〜1000挺程度とする研究もあり、諸説ある。
武田氏滅亡(1582年)は長篠の7年後。長篠単独で武田を滅ぼしたわけではない点に注意。