
徳川家康
- よみ
- とくがわ・いえやす
- 生没年
- 1542–1616
- 別名
- 松平元康(前名)・東照大権現(神号)
- 出身
- 三河国(現在の愛知県)
- おもな地位・官職
- 江戸幕府初代征夷大将軍(のち大御所)
- 父母
- 父:松平広忠/母:於大の方
- 子
- 徳川秀忠(2代将軍)ほか
- 同盟
- 織田信長(清洲同盟)
どんな人?
徳川家康(とくがわ・いえやす)は、天下泰平の礎を築いた江戸幕府の初代将軍です。三河(現・愛知県)の出身で、織田信長とは同盟を結び、1575年の長篠の戦いでは連合軍として武田軍を破りました。
豊臣秀吉のもとでは五大老の筆頭を務めましたが、秀吉の死後に台頭。1600年の関ヶ原の戦いで石田三成らの西軍を破り、東軍総大将として覇権を握ります。1603年に征夷大将軍となって江戸に幕府を開きました。
1605年には将軍職を子の秀忠に譲りながらも大御所として実権を握り、1615年の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、武家諸法度を制定して大名統制の基盤を固めました。家康が開いた江戸幕府は約260年におよぶ泰平の世を実現しました。
おもな業績・つくったもの
- 関ヶ原の戦いで西軍を破る(1600年)石田三成らの西軍と戦い、小早川秀秋の寝返りもあって半日で勝利。天下の実権を握る決定的な一戦となった。
- 征夷大将軍となり江戸幕府を開く(1603年)1603年に朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開いた。以後260年以上続く江戸時代が始まった。
- 大坂の陣で豊臣家を滅ぼす(1615年)大坂の陣で豊臣秀頼・淀殿を滅ぼした。これにより戦国の争乱が終わり、徳川の天下が確定した。
- 武家諸法度を制定し大名を統制(1615年)城の無断修築や大名間の私的な同盟などを禁じる法令を定め、大名を厳しく統制する仕組みをつくった。
- 一国一城令で大名の軍事力を削減各大名に居城を一つだけ残し他の城を壊させた法令。大名の軍事力を削ぎ、幕府への反抗を防いだ。
生涯のあゆみ(年表)
- 1542三河国に松平広忠の子として生まれる
- 1560桶狭間の戦いの後、今川氏から独立する
- 1575長篠の戦いで織田信長と連合し武田軍を破る解説を見る →
- 1590秀吉の全国統一後、関東へ移り江戸に入る解説を見る →
- 1600関ヶ原の戦いで西軍を破る解説を見る →
- 1603征夷大将軍となり江戸幕府を開く解説を見る →
- 1605将軍職を子・秀忠に譲り大御所となる
- 1615大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし武家諸法度を制定解説を見る →
- 1616駿府で死去(享年75)
名言
ゆかりの地
豆知識
わずか2年で将軍を譲る
1603年に将軍となった家康は1605年には早くも秀忠に職を譲った。生前に世襲を既成事実化し、徳川の世襲体制を固める狙いだったとされる。
死後は神様になった
1616年に75歳で没した家康は「東照大権現」の神号を贈られ日光東照宮に祀られた。徳川の権威を支える宗教的な装置ともなった。
忍耐の人だった
家康は幼少期を今川氏の人質として過ごし、長く織田・豊臣に従った。機が熟すまで耐え忍び、秀吉の死後にようやく天下を取ったことから「忍耐の人」と評される。
人物相関
よくある質問
徳川家康は何をした人?
江戸幕府を開いた初代将軍で、約260年続く天下泰平の礎を築いた人物です。関ヶ原の戦いで勝って覇権を握り、1603年に征夷大将軍となりました。大坂の陣で豊臣家を滅ぼし、武家諸法度で大名統制の基盤を固めました。
関ヶ原の戦いとはどんな戦い?
1600年、豊臣秀吉の死後に徳川家康の東軍と石田三成らの西軍が美濃・関ヶ原で激突した戦いです。東軍が勝利し、家康が全国の実権を握る決定的な転機となりました。「天下分け目の戦い」と呼ばれます。
家康はなぜすぐ将軍職を譲ったの?
1603年に将軍となった家康は1605年には子の秀忠に職を譲りました。将軍職が徳川家に世襲されることを早く既成事実にし、豊臣方に望みを持たせないためだったとされます。