天下分け目の決戦中学/戦乱
1600
関ヶ原の戦い
徳川家康(東軍総大将)/石田三成(西軍の実質的な指揮者)
語呂
覚え方
ヒーロー(1600)おー関ヶ原
ひ(1)ー(6)ろ(0)ー(0)おー関ヶ原
1600年(慶長5年)9月15日(旧暦)、美濃国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で、徳川家康率いる東軍と石田三成らが主導する西軍が激突しました。豊臣秀吉の死後、天下の実権をめぐって対立してきた両者が、ついに全面衝突したのです。「天下分け目の戦い」と呼ばれるこの合戦は、午前中から始まりその日のうちに東軍の勝利で幕を閉じます。わずか数時間の激戦が、その後260年以上続く江戸幕府の礎となりました。
この記事のポイント
- 1600年9月15日(旧暦)、美濃・関ヶ原で東軍(徳川家康)と西軍(石田三成ら)が激突
- 西軍の名目上の総大将は毛利輝元だが、実質的な指揮は石田三成が担った
- 小早川秀秋の東軍への寝返りなどにより、東軍が半日で勝利
- 「天下分け目の戦い」と称される、戦国時代最大規模の合戦のひとつ
- 3年後の1603年に家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開く
ここが面白い戦いはわずか半日で決した。勝敗を分けたのは小早川秀秋の「裏切り」だったといわれる。
関ヶ原の戦いは突然起きたわけではありません。豊臣秀吉が1598年に死去した後、政権の運営をめぐって内部対立が続き、それが全国の大名を二分する大合戦へと発展しました。その流れをたどってみましょう。
秀吉が残した「合議制」の仕組み
豊臣秀吉は晩年、幼い嫡男・秀頼に政権を引き継ぐため、有力大名5人を「五大老」、行政担当の実務者5人を「五奉行」として政務を担わせる合議制を整えました。五大老の筆頭が徳川家康、奉行の中心が石田三成です。秀吉は「争うな」と遺言しましたが、実力者の家康が突出した存在感を持つ以上、この均衡は脆くなる宿命にありました。
家康の台頭と三成への反発
秀吉の死後、家康は大名同士の婚姻を無断で取り決めるなど、豊臣政権内の「掟破り」を繰り返し影響力を拡大しました。一方、石田三成は秀吉の側近として官僚的な政務を仕切ってきたため、武将たちから煙たがられる面もありました。1599年には三成に不満を持つ武将たちが三成の屋敷を囲む事件まで起き、三成は奉行職を辞して近江(現在の滋賀県)の佐和山城に退きます。
五大老・前田利家の死と対立の決定的化
1599年、家康を牽制できる数少ない存在だった五大老の前田利家が死去すると、もはや家康の行動を抑える者はいなくなりました。家康は徐々に豊臣政権の主導権を握り、三成ら反家康派は危機感を強めます。こうして1600年、家康が会津の上杉景勝を「謀反の疑い」として討伐に向けて出陣したことを機に、三成は「打倒家康」の兵を挙げ、西軍が結成されました。
東西両軍の形成と関ヶ原への集結
三成が発した「内府ちかひの条々」(家康の行状を批判する文書)をきっかけに、大名たちは東軍と西軍に分かれていきました。西軍の名目上の総大将は大坂城にいた毛利輝元。東軍は会津征伐から引き返した家康を中心に結集し、1600年9月、美濃の関ヶ原に両軍が集結します。
小早川秀秋の寝返り
≒ 試合中の選手が突然相手チームに移る決定打松尾山に陣取っていた小早川秀秋(西軍)が東軍に寝返り、大谷吉継隊に突撃。これが西軍崩壊の引き金となったとされる(経緯には諸説あり)。
半日での決着
≒ 長期戦を想定していた試合が、序盤で一方的な展開になった戦いは午前中に始まり、その日のうちに東軍の勝利で終わった。当初膠着していた戦況が、西軍諸将の動揺・離反で急速に崩れた。
天下の帰趨を決めた一戦
≒ 株主総会でトップが交代し、会社の方針が丸ごと変わる勝利した家康は、豊臣政権内で圧倒的な実権を握り、1603年に征夷大将軍に就任。徳川が260年以上にわたり日本を統治する礎となった。
1598秀吉死去豊臣秀吉が死去。五大老・五奉行による合議制が始まるが、徳川家康が台頭し始める。
1599利家死去前田利家が死去し、家康を牽制できる有力者がいなくなる。石田三成は佐和山城に退く。
1600関ヶ原の戦い9月15日(旧暦)、美濃・関ヶ原で東軍と西軍が激突。半日で東軍(徳川家康)が勝利。
1600三成処刑関ヶ原の戦い後、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊が京都六条河原で処刑される。
1603江戸幕府徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開く。
1614大坂冬の陣大坂城に残った豊臣秀頼と家康が対立し、大坂冬の陣が起きる。
1615豊臣滅亡大坂夏の陣で豊臣家が滅亡。徳川による全国支配が確定し、武家諸法度が制定される。
◎東軍(徳川家康)が勝利し、戦国乱世に終止符。1603年に家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた。以後260年以上、徳川が日本を統治する。
△豊臣家は大坂城に残ったが実権を失い、1614〜15年の大坂の陣で滅亡。「関ヶ原」は豊臣から徳川への歴史的転換点となった。
徳川家康
東軍総大将・五大老筆頭旧来の同盟関係を活かし、多くの大名を東軍に引き込んだ。戦後の論功行賞で大名配置を大きく組み替え、江戸幕府開幕の基盤を固めた。
石田三成
西軍の中心人物・元五奉行豊臣政権の実務官僚として秀吉に重用されたが、武将たちとの対立もあった。関ヶ原敗戦後に捕縛され、処刑された。
毛利輝元
西軍の名目上の総大将大坂城に留まり自ら出陣しなかった。戦後、大名としての地位は維持されたが、領地を大幅に削減された(周防・長門2か国のみ)。
小早川秀秋
東軍に寝返った松尾山の将当初西軍として参加したとされるが、東軍に寝返り大谷吉継隊を攻撃。西軍崩壊の一因となった。寝返りの経緯は諸説ある。
大谷吉継
西軍の武将病を押して西軍に参陣し、小早川の寝返りに遭いながらも奮戦。関ヶ原で討死した。三成との友情で知られる。
黒田長政・福島正則
東軍の主要武将豊臣恩顧の大名でありながら東軍につき、戦後に論功行賞として大封を得た。
- 五大老
- 豊臣秀吉が死後の政権運営のために定めた有力大名5人の合議機関。徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家。
- 五奉行
- 秀吉政権の実務を担った5人の行政担当者。石田三成はそのひとり。
- 東軍・西軍
- 関ヶ原の戦いにおける両陣営の通称。徳川家康を中心とする東軍と、石田三成らを中心とする西軍に分かれた。
- 征夷大将軍
- 武家政権のトップに与えられた朝廷の官職。家康は1603年にこの職に就き、江戸幕府を開いた。
- 論功行賞
- 戦後に、戦功に応じて大名の領地(石高)を増減させること。関ヶ原後、家康は大名配置を大きく組み替えた。
1戦いはわずか半日で決した
朝霧の中で始まった戦闘は、小早川秀秋の寝返りをきっかけに一気に東軍優勢となり、その日の午後には勝敗が決したといわれる。大規模な合戦にしては異例の短さだった。
2「天下分け目」の言葉の重さ
関ヶ原の戦いを「天下分け目の戦い」と呼ぶのは後世の評価だが、実際に東軍・西軍合わせると全国の大名の多くが参戦または帰属を表明した、文字通り全国規模の決戦だった。
3家康はあえて挑発した?
家康が会津の上杉景勝を征伐に向かったのは、三成ら反家康派を「挙兵」させるための計算があったともいわれる。実際に三成が挙兵したのを知ると、家康はすばやく引き返した(真相は諸説あり)。
4豊臣恩顧の大名が東軍についた皮肉
福島正則・黒田長政ら、秀吉の恩を受けた「豊臣恩顧の大名」の多くが東軍として参戦した。三成への個人的な反感が、豊臣政権を守るはずの武将たちを家康側に引き寄せたとも評される。

ここが出る博士のワンポイント
1600年(慶長5年)9月15日(旧暦)、美濃・関ヶ原で東軍(徳川家康)対西軍(石田三成ら)が激突。語呂は「ヒーロー(1600)おー関ヶ原」。
西軍の名目上の総大将は毛利輝元。実質的な主導者は石田三成。
東軍が勝利し、3年後の1603年に家康が征夷大将軍→江戸幕府成立。
豊臣家は関ヶ原後も大坂城に残るが、1614〜15年の大坂の陣で滅亡。
小早川秀秋の寝返りが西軍崩壊の一因とされる(諸説あり)。
語呂クイズ
「ヒーロー(1600)おー関ヶ原」= 関ヶ原の戦いは西暦何年?
- Q. 関ヶ原の戦いはなぜ起きたのですか?
- A. 豊臣秀吉の死後、五大老・五奉行による合議制が機能しなくなり、徳川家康と石田三成が豊臣政権の主導権をめぐって対立。全国の大名を二分する大合戦に発展しました。
- Q. 東軍と西軍それぞれの総大将は誰ですか?
- A. 東軍の総大将は徳川家康です。西軍は名目上の総大将が毛利輝元ですが、実質的な指揮は石田三成が担いました。
- Q. 関ヶ原の戦いはいつ・どこで行われましたか?
- A. 1600年9月15日(旧暦)、美濃国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で行われました。
- Q. 関ヶ原の戦いの結果、何が変わりましたか?
- A. 家康が圧倒的な実権を握り、1603年に征夷大将軍となって江戸幕府を開きました。豊臣家は大坂に残りましたが実権を失い、1615年の大坂夏の陣で滅亡しました。
- Q. 小早川秀秋はなぜ寝返ったのですか?
- A. 詳しい経緯は諸説あります。家康の調略(事前の工作)があったとも、戦況を見極めた独自の判断ともいわれますが、確実なことはわかっていません。
関ヶ原の戦いは、秀吉の死後に崩れかけた豊臣政権の主導権をめぐる「最終決戦」でした。わずか半日の戦いが、その後260年以上続く徳川の時代の幕開けとなります。「ヒーロー(1600)おー関ヶ原」の語呂と、東軍(家康)vs西軍(三成・名目上は毛利輝元)という構図、そして3年後の1603年の江戸幕府成立とセットで頭に入れておきましょう。「天下分け目の戦い」という言葉のとおり、日本史の大きな転換点です。
編集メモ(ファクト)
9月15日は旧暦(慶長5年)。西暦換算では1600年10月21日にあたる。
兵力数は東軍・西軍ともに諸説あり確定していないため、本文では断定を避けた。
小早川秀秋の寝返りの経緯(事前の調略か戦場での独自判断か)も諸説あり、本文では「とされる」「諸説あり」と表記している。
西軍総大将を毛利輝元とするのが通説だが、輝元自身は大坂城に留まり出陣しなかった点も補足として記載した。