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慶長の役(朝鮮出兵)の浮世絵イラスト
豊臣政権の朝鮮出兵 ②高校/戦乱
1597

慶長の役(朝鮮出兵)

豊臣秀吉(太閤)
語呂
覚え方
以後苦難、再び朝鮮へ
以後(1・5)く(9)な(7)

1597年(慶長2年)、豊臣秀吉は2度目の朝鮮侵攻を断行しました。これを慶長の役といいます(朝鮮では「丁酉再乱」と呼ばれます)。1592年の文禄の役のあと、日明間で講和交渉が進められましたが、明の使者が持参した条件が秀吉の要求とまったく異なることが判明し、交渉は決裂。激怒した秀吉は再び大軍を朝鮮に送り込みました。しかし日本軍は朝鮮南部の狭い地域で苦戦を強いられ、李舜臣率いる朝鮮水軍と明の援軍に押し込まれます。1598年8月に秀吉が病死すると、五大老の命令で日本軍は全軍撤退。撤退中の11月の露梁海戦では李舜臣も戦死し、2度の朝鮮出兵は豊臣政権の弱体化と諸大名の疲弊という大きな傷跡を残しました。

この記事のポイント

  • 1597年、文禄の役の講和交渉決裂を受け、豊臣秀吉が2度目の朝鮮侵攻(慶長の役)を命令
  • 日本軍は朝鮮南部に展開したが、李舜臣の朝鮮水軍と明の援軍に阻まれ苦戦
  • 1598年8月、秀吉が病死。五大老の命令により日本軍は全軍撤退
  • 撤退中の1598年11月、露梁海戦が起き、李舜臣も戦死
  • 2度の出兵は豊臣政権の財政・軍事力を消耗させ、関ヶ原の戦いへの対立の遠因となった
ここが面白い

講和交渉が決裂し、秀吉は激怒して2度目の出兵を命令。しかし日本軍は李舜臣の水軍に行く手を阻まれ続けた。

ここに至るまでの流れ
背景

慶長の役は突然起きたわけではありません。1592年の文禄の役から続く、豊臣秀吉の「大陸制覇」という野望と、それが現実の壁にぶつかった5年間の経緯を押さえることが重要です。

文禄の役(1592年)とは

1592年、豊臣秀吉は約15万の大軍を朝鮮半島に上陸させました(文禄の役)。当初は快進撃で漢城(ソウル)・平壌まで占領しましたが、李舜臣率いる朝鮮水軍に補給路を断たれ、明の援軍にも押し返されます。1593年から日明間で講和交渉が始まりましたが、戦線は膠着したまま停戦状態に入りました。

講和交渉の決裂

3年以上かけた講和交渉は、1596年の小西行長らによる交渉で最終局面を迎えます。しかし明の使者が持参した文書の内容は「日本を朝貢国として冊封する」というもので、秀吉が求めていた「朝鮮南部の割譲・明皇帝の娘を后に」とはまったく異なりました。内容を知った秀吉は激怒し、交渉担当の小西行長らを問い詰め、ふたたびの出兵を命じます。

朝鮮南部での苦戦

再出兵した日本軍は朝鮮南部の沿岸部に築いた城(倭城)を拠点に防衛戦を展開しましたが、朝鮮水軍を復活させた李舜臣の活躍で制海権を失い、兵站が苦しい状況が続きました。文禄の役のような快進撃は起きず、局地的な攻防が繰り返されました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

講和交渉決裂からの再出兵

≒ 交渉失敗による方針転換

明の使者が持参した条件が秀吉の要求と正反対だったため交渉が決裂。1597年、秀吉は再び大軍を朝鮮へ送り込んだ。

李舜臣の水軍による抵抗

≒ 補給路の遮断

朝鮮水軍を指揮する李舜臣は日本の水軍に打撃を与え続け、制海権を握った。陸上の日本軍は補給が届かず朝鮮南部に押し込められた。

秀吉の病死と全軍撤退

≒ 最高指導者の死による作戦中止

1598年8月に秀吉が伏見城で病死。遺命を受けた五大老(家康・利家ら)は撤退を決定し、日本軍は朝鮮半島から全軍引き揚げた。

前後のできごと
年表
1592
文禄の役豊臣秀吉が最初の朝鮮侵攻(文禄の役)を開始。快進撃も李舜臣の水軍に阻まれ膠着。
1593
停戦・交渉開始明の援軍が参戦し停戦。日明間で講和交渉が始まる。
1596
交渉決裂明の使者が持参した条件が秀吉の要求とまったく異なり、講和交渉が完全に決裂。
1597
慶長の役秀吉が2度目の朝鮮侵攻(慶長の役)を命令。日本軍は朝鮮南部で苦戦。
1598
秀吉死去・撤退8月に秀吉が病死。五大老の命で日本軍が全軍撤退。11月の露梁海戦で李舜臣も戦死。
1600
関ヶ原の戦い朝鮮出兵をめぐる武功派(武断派)と行政派(文治派)の対立が一因となり、関ヶ原の戦いへ。
結果とその後
結果
2度の朝鮮出兵で多くの兵・民が犠牲になり、豊臣政権の財政と軍事力は大きく消耗した。
出兵をめぐる武断派(加藤清正・福島正則ら)と文治派(石田三成ら)の対立が深まり、関ヶ原の戦いの遠因となった。
朝鮮・明との国交断絶が続き、日朝関係の回復は江戸初期(1607年の朝鮮通信使再開)まで待つことになった。
登場人物
人物

豊臣秀吉

太閤(出兵命令者)

「大陸制覇」を掲げ2度の朝鮮出兵を命じたが、自身は朝鮮に渡らず名護屋城(肥前)に留まった。1598年8月に伏見城で病死。

李舜臣(イ・スンシン)

朝鮮水軍の提督

亀甲船などを率いて日本水軍に打撃を与え続けた朝鮮の英雄。露梁海戦(1598年)で戦死。

加藤清正

武断派の武将

文禄・慶長両役に参加した猛将。虎退治の逸話で有名。文治派の石田三成と対立した。

小西行長

講和交渉の担当者・武将

文禄の役後の日明講和交渉を担った。交渉決裂の責任を問われた。関ヶ原では西軍に属し敗死。

石田三成

豊臣政権の奉行(文治派)

朝鮮出兵の兵站・行政を担った。武断派武将との対立が関ヶ原の戦いへの伏線となった。

徳川家康

五大老の筆頭

秀吉の遺言を受けて撤退を指揮。出兵疲れした武断派武将を味方につけ、のちに関ヶ原で覇権を握った。

キーワード解説
用語
慶長の役
1597年に豊臣秀吉が命じた2度目の朝鮮侵攻。朝鮮では「丁酉再乱(ていゆうさいらん)」と呼ぶ。1592年の文禄の役と合わせて「文禄・慶長の役」と総称されることが多い。
文禄の役
1592年に豊臣秀吉が命じた最初の朝鮮侵攻。慶長の役(1597年)と混同しないこと。
露梁海戦
1598年11月、撤退する日本水軍と朝鮮・明連合水軍との間で起きた海戦。この戦いで朝鮮の英雄・李舜臣が戦死した。
倭城(わじょう)
慶長の役で日本軍が朝鮮南部沿岸に築いた城塞群。長期駐留の拠点となったが、最終的に撤退とともに放棄された。
五大老
秀吉が政権を補佐させるために設けた5人の重鎮(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)。秀吉死後の撤退命令を出した。
もっと知りたい
豆知識

1秀吉は一度も朝鮮の土を踏まなかった

2度の朝鮮出兵を命じた秀吉本人は、朝鮮半島に渡ったことがない。文禄の役では肥前名護屋城(現・佐賀県唐津市)に陣を構え、朝鮮海峡を挟んで命令を出し続けた。

2陶磁器職人が大量に連れ帰られた

朝鮮出兵に参加した九州の大名たちは、帰国の際に朝鮮の陶磁器職人(陶工)を多数連れ帰った。彼らが日本各地で窯を開いたことで、有田焼・薩摩焼・萩焼など、日本の焼き物文化が大きく花開いた。「やきもの戦争」とも呼ばれる所以だ。

3李舜臣は一度免職されていた

李舜臣は文禄の役での活躍で英雄となったが、政争に巻き込まれて1597年に一時免職・投獄された。慶長の役で窮地に陥った朝鮮がふたたび彼を復帰させ、彼は再び日本水軍に立ちはだかった。

4講和交渉の「大ウソ」

文禄の役後の交渉で、交渉担当の小西行長と明の担当者・沈惟敬はそれぞれ自国の権力者に都合よい報告をしていたとされる。秀吉には「明が降伏を申し出てきた」、明皇帝には「日本が朝貢を希望している」と。双方が希望する条件を偽って交渉を進めた結果、使者が秀吉に会った際に真実が露わになり、交渉が決裂した。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
慶長の役は1597年(2度目の朝鮮出兵)。1592年の文禄の役と年号・順番を混同しないこと。
語呂:「以後(1・5)く(9)な(7)=1597」。以後=15、く=9、な=7で1597が成立。
再出兵の直接原因は、文禄の役後の日明講和交渉の決裂。
1598年に秀吉が病死し、五大老の命で全軍撤退。同年の露梁海戦で李舜臣も戦死。
2度の出兵は武断派と文治派の対立を生み、1600年の関ヶ原の戦いの遠因となった。
語呂クイズ
「以後苦難、再び朝鮮へ」= 慶長の役(朝鮮出兵)は西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 文禄の役と慶長の役の違いは何ですか?
A. 文禄の役(1592年)が最初の朝鮮出兵で、慶長の役(1597年)が2度目の出兵です。文禄の役は講和交渉の決裂を受けて始まった慶長の役の前段にあたります。
Q. 慶長の役はなぜ始まったのですか?
A. 文禄の役後に進められた日明の講和交渉が決裂したためです。明の使者が持参した条件(日本の朝貢国扱い・冊封)が豊臣秀吉の要求とまったく異なり、激怒した秀吉が2度目の出兵を命じました。
Q. 李舜臣はどんな人物ですか?
A. 朝鮮水軍の提督で、文禄・慶長の役を通じて日本水軍と戦い続けた朝鮮の英雄です。亀甲船などを駆使して日本水軍に多くの打撃を与えました。1598年の露梁海戦で戦死しています。
Q. 慶長の役はどのように終わりましたか?
A. 1598年8月に豊臣秀吉が病死したことで終結しました。五大老の命令で日本軍は全軍撤退し、11月の露梁海戦を経て朝鮮半島から引き揚げました。
Q. 慶長の役は日本にどんな影響を与えましたか?
A. 豊臣政権の財政・軍事力を消耗させたことや、出兵をめぐる武断派と文治派の対立が深まったことが主な影響です。この対立が1600年の関ヶ原の戦いの遠因のひとつとなりました。
まとめ

慶長の役は、秀吉の「大陸制覇」という野望が完全に頓挫した出来事です。1592年の文禄の役に続く2度目の出兵でしたが、李舜臣の水軍と明の援軍に阻まれ、日本軍は朝鮮南部に押し込められたまま秀吉の死去とともに撤退を余儀なくされました。この2度の朝鮮出兵が残した傷は深く、豊臣政権の弱体化と武断派・文治派の対立を生み、やがて関ヶ原の戦いへとつながっていきます。語呂「以後(1・5)く(9)な(7)=1597」とともに、文禄の役(1592年)との年号の違いをしっかり押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
慶長の役(1597年)と文禄の役(1592年)は年号・原因・経過が異なる。試験では混同が多いため注意。
露梁海戦(1598年11月)は慶長の役の撤退戦中に起きた海戦。李舜臣の戦死もこの年。
陶工連行は主に文禄・慶長両役の参加大名(特に九州の大名)によるもので、出典によって詳細が異なる場合がある。