語呂で覚える日本史年号語呂合わせ・日本史暗記
一覧 / 安土桃山時代 / 文禄の役(朝鮮出兵)
文禄の役(朝鮮出兵)の浮世絵イラスト
朝鮮出兵 ①高校/戦乱
1592

文禄の役(朝鮮出兵)

豊臣秀吉(関白)
語呂
覚え方
以後国(1592)乱れる朝鮮出兵
いご(15)くに(92)乱れる

1592年(文禄元年)、豊臣秀吉は約16万の大軍を朝鮮に送り込みました(文禄の役)。「明(中国)を征服し、朝鮮を道として使う」という前代未聞の野望のもとで始まった戦争です。日本軍は釜山から北上して開城・平壌を次々と落とし、開戦から2か月ほどで朝鮮半島の大半を制圧しました。しかし海では李舜臣率いる朝鮮水軍が亀甲船を操り日本の補給路を断ち、陸では各地で義兵(民間の自発的抵抗軍)が立ち上がり、さらに明が大軍を派遣して反撃に転じると戦況は一変。1593年(文禄2年)から明との和議交渉が始まりましたが交渉は長引き、秀吉の死の翌年1598年(慶長3年)にようやく全軍が撤退しました。1597年に始まった2度目の出兵(慶長の役)と合わせ、朝鮮出兵は豊臣政権の国力を大きく消耗させた戦いとして知られます。

この記事のポイント

  • 1592年、豊臣秀吉が約16万の軍を朝鮮に派遣(文禄の役)。明の征服を最終目的とした
  • 日本軍は開戦直後に平壌まで進出したが、李舜臣の水軍・義兵・明の援軍に阻まれ苦戦
  • 李舜臣が指揮する朝鮮水軍は亀甲船などを駆使し、日本の海上補給路を遮断した
  • 1593年から明との和議交渉に入るが決裂し、1597年に2度目の出兵(慶長の役)が始まる
  • 1598年に秀吉が死去。遺言を受けて五大老が撤兵を命じ、日本軍は朝鮮から撤退した
ここが面白い

「明を征服する」という壮大な野望を掲げた秀吉。しかし李舜臣の亀甲船と義兵の抵抗、明の援軍が立ちはだかり、戦線は泥沼化した。

ここに至るまでの流れ
背景

文禄の役は突然始まったわけではありません。秀吉が天下統一を果たした1590年代初頭、朝鮮や東アジアをめぐる当時の国際情勢と秀吉の野望が絡み合って起きた戦争です。ここに至るまでの流れを整理しましょう。

全国統一後の秀吉の野望

1590年に北条氏を滅ぼして全国統一を成し遂げた秀吉は、その直後から「唐入り(明征服)」の構想を周囲に語っていました。1591年には朝鮮に「明への先導役を果たせ」と要求しましたが、朝鮮はこれを拒絶。秀吉はそのまま出兵を決断します。

当時の朝鮮と明の状況

朝鮮(李朝)は長年の平和が続いており、軍備は十分ではありませんでした。一方の明も万暦帝の時代に入り国力は衰えていましたが、朝鮮の救援要請に応じて軍を派遣できる力はまだ残っていました。この両国の事情が戦況を複雑にします。

肥前名護屋城を前進基地に

秀吉は肥前名護屋(現・佐賀県唐津市)に巨大な城(名護屋城)を築き、自らも出陣して全軍を指揮する構えを見せました。実際には秀吉本人は朝鮮半島には渡らず名護屋城に留まりましたが、城下には全国の大名が集まり、一時は2〜3万の武士が集結したとされます。

電光石火の進撃と補給の限界

1592年4月に釜山に上陸した日本軍は、小西行長・加藤清正らを先頭に北上を続け、わずか2か月ほどで平壌まで達しました。しかし制海権を失ったことで兵糧・弾薬の補給が滞り、朝鮮全土で義兵が蜂起するなか、戦線を維持することが次第に困難になっていきました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

李舜臣の水軍が補給路を断つ

≒ 制海権の喪失が陸上の優勢を無意味にした

朝鮮水軍の提督・李舜臣は亀甲船(鉄板で覆ったとされる装甲船)などを用いて日本水軍を各地で撃破。特に閑山島海戦(1592年)が有名で、日本の海上補給路を事実上遮断した。

義兵の全国的な蜂起

≒ 民間レベルの持久戦が日本軍を消耗させた

朝鮮全土で農民・儒学者・僧侶らが自発的に組織した義兵が立ち上がり、日本軍の後方を攪乱し続けた。正規軍だけでなく民衆の抵抗を同時に受けたことが、制圧を困難にした大きな要因の一つ。

明の援軍と平壌からの撤退

≒ 大国の介入で戦況が逆転した

1593年初め、明は約4万の援軍を派遣。小西行長が守る平壌城が陥落し、日本軍は南部沿岸へと後退した。その後は明との和議交渉が始まるが、双方の要求が噛み合わず7年にわたり交渉は続いた。

前後のできごと
年表
1591
出兵決定秀吉が朝鮮に明征服への協力を要求。拒否を受け出兵を決定。名護屋城の築城を開始。
1592
文禄の役4月、約16万の日本軍が釜山に上陸。2か月で平壌まで進出するが、その後苦戦に転じる。
1593
明の援軍・和議明の援軍により平壌陥落。日本軍は南部へ後退し、明との和議交渉が始まる。
1597
慶長の役和議交渉が決裂。秀吉が2度目の出兵(慶長の役)を命じる。
1598
秀吉死去・撤兵8月に秀吉が伏見城で死去。五大老の命により全軍が朝鮮から撤退。
1600
関ヶ原朝鮮出兵で東西に分かれた武将の対立が尾を引き、関ヶ原の戦いへとつながる。
結果とその後
結果
日本軍は占領地を維持できず撤退。明の征服という当初の目的は達成されなかった。
長年の出兵で豊臣政権の国力・武将の結束が大きく損なわれ、秀吉死後の関ヶ原(1600年)・豊臣家滅亡(1615年)への遠因となった。
朝鮮・明にも甚大な被害を与えた。朝鮮では多くの人口が失われ、陶芸家など多数の職人が日本に連れ去られた(「陶磁器戦争」とも呼ばれる)。
登場人物
人物

豊臣秀吉

関白・最高権力者

出兵を発令し、名護屋城に駐留して指揮を執った。朝鮮半島には渡らなかった。

李舜臣(イ・スンシン)

朝鮮水軍の提督

亀甲船を駆使して日本水軍を撃破し、補給路を遮断。朝鮮では英雄として知られる。

小西行長

第1軍司令官

釜山上陸・平壌進出を主導。キリシタン大名で、和議交渉でも中心的な役割を担った。

加藤清正

第2軍司令官

北上を続け朝鮮北東部まで進出した。虎狩りの逸話で有名。

宋応昌・李如松

明の援軍司令官

1593年初めに朝鮮に派遣された明の将領。李如松が平壌を奪還した。

キーワード解説
用語
文禄の役
1592年(文禄元年)に始まった豊臣秀吉の1度目の朝鮮出兵。1593年の和議開始をもって第1次出兵の戦闘は事実上終了した。
亀甲船
李舜臣が用いたとされる朝鮮水軍の船。上部に鉄板や木の板を被せた構造が特徴とされるが、詳細な構造については諸説ある。
義兵
文禄・慶長の役で朝鮮各地で自発的に組織された民間の抵抗軍。農民・儒学者・僧侶などが参加し、日本軍の後方を攪乱した。
名護屋城
秀吉が肥前名護屋(現・佐賀県唐津市)に築いた朝鮮出兵の前進基地。大阪城に次ぐ規模とされ、多数の大名が城下に集まった。
唐入り
秀吉が掲げた「明(中国)を征服する」という構想。「朝鮮を道として使う」という表現で朝鮮に協力を求めた。
もっと知りたい
豆知識

1秀吉は朝鮮半島に渡らなかった

秀吉は名護屋城を前進基地として全体を統括したが、海を渡って朝鮮に入ることはなかった。病気や側近の進言、そして戦況の悪化がその主な理由とされる。

2「陶磁器戦争」とも呼ばれる

出兵の際、加藤清正や島津義弘ら多くの武将が朝鮮から陶芸家を連れ帰った。彼らは薩摩焼・萩焼・有田焼など日本各地の陶磁器文化の礎を築いた。このため文禄・慶長の役は「陶磁器戦争」とも呼ばれる。

3木活字印刷技術の伝来

出兵の際に朝鮮から金属活字・木活字の技術が日本に伝わり、江戸時代の出版文化の発展に貢献した。

4李舜臣は最後の海戦で戦死

朝鮮水軍を率いた英雄・李舜臣は、撤退する日本軍を追撃した1598年の露梁海戦(慶長の役末期)で流れ弾に当たり戦死した。「私の死を敵に知らせるな」と言い残したとされる。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
文禄の役は1592年(文禄元年)。語呂は「以後国(1592)乱れる朝鮮出兵」。
2度目の慶長の役(1597年)と区別する。文禄=1度目、慶長=2度目。
朝鮮水軍の提督は李舜臣(イ・スンシン)。亀甲船で日本の補給路を断った。
秀吉の死(1598年)を受けて五大老が撤兵を命じた。「征服成功」ではなく「撤退」が正しい。
名護屋城(肥前・現佐賀県)が前進基地。秀吉自身は朝鮮半島には渡っていない。
語呂クイズ
「以後国(1592)乱れる朝鮮出兵」= 文禄の役(朝鮮出兵)は西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 文禄の役はなぜ始まったのですか?
A. 豊臣秀吉が「明(中国)を征服する」という野望を抱き、その道として朝鮮に協力を求めました。朝鮮が拒否したため秀吉は出兵を決断し、1592年に約16万の大軍を送り込みました。
Q. 文禄の役と慶長の役の違いは何ですか?
A. 文禄の役(1592年)が1度目の出兵、慶長の役(1597年)が2度目の出兵です。文禄の役は明との和議交渉が始まることで一度休戦しましたが、交渉が決裂したため慶長の役が起こりました。
Q. 亀甲船とはどんな船ですか?
A. 李舜臣が率いた朝鮮水軍の船で、上部に板や鉄板を被せた構造が特徴とされます。ただし詳細な構造は史料によって諸説あり、全面が鉄板で覆われていたかどうかは定かではありません。
Q. 文禄の役の結果はどうなりましたか?
A. 日本軍は当初平壌まで進出しましたが、李舜臣の水軍・義兵・明の援軍に阻まれ苦戦。1598年の秀吉死去を機に五大老の命で全軍が撤退し、明の征服という目的は達成されませんでした。
Q. 朝鮮出兵で日本にどんな影響がありましたか?
A. 長年の出兵で豊臣政権の国力が大きく消耗しました。また出兵を主導した武将と反対した武将の対立が尾を引き、秀吉死後の関ヶ原の戦い(1600年)への遠因の一つとなりました。
まとめ

文禄の役は、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が「明を征服する」という前代未聞の野望を抱いて起こした戦争です。日本軍は当初の勢いで平壌まで進出しましたが、李舜臣の水軍・義兵の蜂起・明の援軍という三重の壁に阻まれ、大義を失ったまま泥沼化しました。1598年の秀吉死去で全軍が撤退し、朝鮮・明・日本の三国いずれも大きな傷を負って終結しました。「以後国(1592)乱れる朝鮮出兵」の語呂とともに、文禄(1度目)と慶長(2度目)の区別、そして李舜臣の活躍を押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
亀甲船の全面鉄板説は有力だが一次史料では確認しにくく、木板に鉄の装飾とする説もある。断定を避けた表現にしている。
秀吉の出兵の動機(明征服・国内矛盾の解消・貿易利権など)は複合的で諸説あり。記事では複数の視点を併記した。
1597年慶長の役の id(1597-keicho-no-eki)は現時点でpages内に実在しないため、relatedには含めていない。