
豊臣秀吉
- よみ
- とよとみ・ひでよし
- 生没年
- 1537–1598
- 別名
- 羽柴秀吉・木下藤吉郎(前名)・太閤
- 出身
- 尾張国(現在の愛知県)
- おもな地位・官職
- 関白・太政大臣(天下人)
- 父母
- 父:木下弥右衛門(諸説あり)/出自は低い身分とされる
- 正室
- 北政所(ねね/おね)
- 子
- 豊臣秀頼
- 主君
- 織田信長
どんな人?
豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)は、農民出身から天下人へと上りつめ、全国統一を成し遂げた武将です。尾張の出身で、織田信長に仕えて頭角を現し、1582年の本能寺の変で信長が倒れたのちに天下取りへと乗り出しました。
関白・太政大臣となった秀吉は、1588年の刀狩令で農民から武器を没収し、兵農分離を進めます。自身の出自を知るからこそ一揆を恐れ、徹底した武装解除を進めたとされます。1590年には小田原征伐を経て全国統一を達成しました。
晩年には大陸への進出をめざし、1592年の文禄の役、1597年の慶長の役と二度の朝鮮出兵を命じますが、自身は名護屋城(肥前)に留まりました。1598年に病死し、その死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いへと向かいます。
おもな業績・つくったもの
- 刀狩令で農民から武器を没収(1588年)農民や寺社から刀・鉄砲などの武器を没収した命令。一揆を防ぎ、武士と農民の身分を分ける兵農分離を進めた。
- 太閤検地で全国の田畑を調査全国の田畑の面積や収穫高を統一基準で調べ、石高で表した。年貢徴収と大名支配の基礎を固めた政策。
- 兵農分離を進める刀狩と検地により、武士は戦い農民は耕すという身分の区別を制度として固定。江戸時代の身分制の原型となった。
- 小田原征伐を経て全国統一を達成(1590年)約20万の大軍で北条氏の小田原城を攻め降伏させ、続く奥州仕置で東北も従えて全国統一を達成した。
- 大坂城を築く交通の要地・大坂に巨大な城を築き、政治と経済の拠点とした。豊臣政権の権威を示す象徴でもあった。
- 文禄・慶長の役で朝鮮に出兵明の征服をめざし二度にわたり朝鮮へ大軍を派遣したが、李舜臣の水軍や明の援軍に苦しみ、秀吉の死で撤退した。
生涯のあゆみ(年表)
- 1537尾張国に低い身分の家に生まれる(生年に諸説あり)
- 1573近江に長浜城を与えられ大名となる
- 1582本能寺の変の後、山崎の戦いで明智光秀を討つ解説を見る →
- 1583賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り大坂城を築き始める
- 1585関白に就任する
- 1588刀狩令を出し農民から武器を没収する解説を見る →
- 1590小田原征伐を経て全国統一を達成する解説を見る →
- 1592文禄の役として朝鮮へ出兵する解説を見る →
- 1597慶長の役として再び朝鮮へ出兵する解説を見る →
- 1598伏見城で病死する(享年62)
ゆかりの地
豆知識
将軍になれず関白へ
百姓出身の秀吉は源氏の慣例から征夷大将軍に就けず、関白・太政大臣という朝廷の最高位を使って全国支配を正当化した独自の天下人だった。
石垣山一夜城の心理戦
小田原攻めで秀吉は石垣山に城を突貫工事で築き、木を伐って一夜で現れたように見せた。突然の城に北条方は動揺したという。
「人たらし」の交渉力
秀吉は敵をも味方に取り込む交渉のうまさで知られ、後世「人たらし」と評された。武力だけでなく調略や懐柔で大名を従えた点が天下統一の一因とされる。
人物相関
よくある質問
豊臣秀吉は何をした人?
農民出身から天下人へと上りつめ、全国統一を成し遂げた武将です。織田信長に仕えて頭角を現し、信長の死後に天下を取りました。関白・太政大臣となり、太閤検地や刀狩で兵農分離を進めました。
太閤検地と刀狩とは何ですか?
太閤検地は全国の田畑の面積や収穫高を調べて統一基準で年貢を定めた政策、刀狩は農民から武器を取り上げた政策です。武士と農民の身分を分ける兵農分離を進め、近世社会の基礎を築きました。
秀吉はなぜ将軍にならなかったの?
征夷大将軍は源氏の血筋につく慣例があり、出自の低い秀吉は就くのが難しかったとされます。そこで朝廷の最高位である関白・太政大臣に就いて全国支配を正当化しました。