
石田三成
いしだ・みつなり 1560–1600 / 安土桃山・武将・大名
秀吉に忠義を尽くした西軍の将基本データ
- よみ
- いしだ・みつなり
- 生没年
- 1560–1600
- 別名
- 石田治部少輔
- 出身
- 近江国(現在の滋賀県)
- おもな地位・官職
- 豊臣政権の五奉行の一人
- 父母
- 父:石田正継
- 主君
- 豊臣秀吉
- 立場
- 文治派(武断派と対立)
どんな人?
石田三成(いしだ・みつなり)は、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いで西軍を率いた武将です。豊臣政権では五奉行の一人として実務を担い、1588年の刀狩令の実施や、朝鮮出兵(慶長の役)における兵站・行政を取りまとめました。
こうした文治派としての立場から、加藤清正ら武断派の武将と対立を深めます。秀吉の死後、1600年に徳川家康に対抗して西軍の中心人物として挙兵しますが、関ヶ原の戦いで敗北。捕らえられて処刑されました。
おもな業績・つくったもの
- 五奉行の一人として豊臣政権の実務を担う秀吉政権の実務を担った五奉行の一人。検地や兵站など行政面で手腕を発揮し、政権を支えた。
- 関ヶ原の戦いで西軍を率いる(1600年)秀吉の死後、徳川家康に対抗して西軍を結成し関ヶ原で戦ったが、味方の裏切りもあり敗れて処刑された。
生涯のあゆみ(年表)
- 1560近江国に生まれる
- 1588五奉行の一人として刀狩令など実務を担う解説を見る →
- 1597慶長の役で兵站・行政を取りまとめる解説を見る →
- 1600家康に対抗して西軍を挙兵し関ヶ原で敗れる解説を見る →
- 1600捕らえられ京都で処刑される(享年41)
ゆかりの地
関ヶ原古戦場岐阜県西軍を率いて敗れた「天下分け目」の戦いの地
佐和山城跡滋賀県三成の居城の跡
豆知識
恩顧の大名に嫌われた
関ヶ原では福島正則ら豊臣恩顧の大名の多くが東軍についた。三成への個人的反感が、豊臣を守るはずの武将を家康側へ押しやったと評される。
秀吉との出会い「三献の茶」
三成が寺の小僧のころ、茶の温度を段違いに変えて秀吉に出し、その気配りが認められて仕えることになったと伝わる。実話かは定かでないが人物像を示す逸話とされる。
人物相関
よくある質問
石田三成は何をした人?
豊臣秀吉に仕え、五奉行の一人として政権の実務を担った武将です。秀吉の死後、台頭する徳川家康に対抗して1600年に西軍を率いて挙兵しましたが、関ヶ原の戦いで敗れて処刑されました。
石田三成はなぜ関ヶ原で負けたの?
行政に優れる一方で、加藤清正ら武断派の武将と対立していたため、豊臣恩顧の大名の多くが敵の東軍についたことが一因とされます。小早川秀秋の裏切りなどもあり西軍は敗れました。