江戸時代の始まり ①中学/政治
1603
徳川家康が征夷大将軍に(江戸幕府成立)
徳川家康(初代征夷大将軍)
語呂
覚え方
ヒーローおっさん(1603)家康、江戸幕府
ひ(1)ろ(6)お(0)っさん(3)
1603年(慶長8年)、徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸(現在の東京)に幕府を開きました。関ヶ原の戦い(1600年)で天下の覇権を握ってから3年、ついに武家政権の頂点に立ったのです。幕府は以後、約260年にわたって日本を統治し、江戸時代と呼ばれる長い平和の時代をもたらしました。家康が築いた「幕藩体制」の基盤は、武家諸法度や参勤交代など次々と整備される統制策とともに、江戸時代を通じて機能し続けました。
この記事のポイント
- 1603年、徳川家康が征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開いた
- 関ヶ原の戦い(1600年)の勝利で覇権を握り、3年後に正式に幕府を開設
- 1605年、家康は将軍職を息子・秀忠に譲り「大御所」として実権を保持した
- この将軍職の世襲により「征夷大将軍=徳川の家柄」であることを天下に示した
- 幕藩体制・武家諸法度・参勤交代など、約260年続く江戸時代の統治の骨格を形成した
ここが面白い家康は将軍になってわずか2年で息子に職を譲った。「徳川の世は続く」と天下に示すための計算づくの行動だった。
江戸幕府の成立は、ある日突然起きたわけではありません。豊臣秀吉の死後から続く権力争い、そして関ヶ原での決戦を経て、家康が着実に「次の天下人」の地位を固めていった過程の「総仕上げ」が、1603年の将軍任官でした。ここに至るまでの流れを追ってみましょう。
秀吉の死と権力の空白(1598年)
1598年、豊臣秀吉が死去しました。後継者の豊臣秀頼はまだ6歳。秀吉は五大老・五奉行という合議制で豊臣家を支えるよう遺言しましたが、五大老筆頭の徳川家康が独自に婚姻政策を進めるなど、五大老・五奉行の対立が深まっていきました。
関ヶ原の戦いと覇権の確立(1600年)
1600年、家康に反発した石田三成ら西軍と、家康率いる東軍が関ヶ原(現在の岐阜県)でぶつかりました。戦いはわずか半日で東軍の勝利に終わり、家康は事実上の天下人となります。しかし、豊臣秀頼はなお大坂城に健在であり、家康の権力はまだ完全なものではありませんでした。
征夷大将軍の任官と幕府開設(1603年)
関ヶ原から3年後の1603年、家康は朝廷に働きかけ、征夷大将軍に任じられました。「征夷大将軍」とは源頼朝以来、武家政権の長として認められる称号です。家康は江戸を拠点として幕府を開き、全国の大名を支配する体制を整え始めます。
将軍職の世襲で豊臣家に釘を刺す(1605年)
家康はわずか2年後の1605年、将軍職を三男の秀忠に譲りました。「征夷大将軍は徳川家が代々継ぐもの」という前例を作るためです。豊臣政権では秀吉が死んで後継者争いが起きましたが、家康は生前に「譲位」を行うことで、徳川の世の継続を天下に示しました。家康自身は「大御所」として実権を握り続けます。
征夷大将軍への任官
≒ 国の最高指導者として正式に認証されること朝廷から「征夷大将軍」の称号を得ることで、武家政権の正当性を公式に確立した。源頼朝・足利尊氏と同じ権威の系譜に連なる重要な儀式。
江戸を拠点とした幕府の開設
≒ 首都を新しい場所に移して中央政府を置くこと関東の地・江戸に幕府を置いた。当初は寒村に近かった江戸は、幕府の整備とともに大都市へと成長し、やがて世界有数の人口を誇る都市になった。
秀忠への将軍職の譲渡
≒ 権力の世襲を既成事実化する政治的演出1605年、在職わずか2年で息子・秀忠に将軍職を譲った。「将軍は徳川家代々の職」という慣例をつくり、豊臣家が将軍になれないことを印象づけた。
1598秀吉死去豊臣秀吉が没し、幼い秀頼が後継者となる。家康ら五大老が豊臣政権を支える体制に。
1600関ヶ原関ヶ原の戦い。家康率いる東軍が石田三成らの西軍を破り、天下の覇権を握る。
1603幕府開設徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開く(江戸幕府の成立)。
1605将軍譲位家康が将軍職を秀忠に譲り「大御所」に。徳川の世の世襲を天下に示す。
1615大坂の陣大坂夏の陣で豊臣秀頼が滅亡。同年、武家諸法度を発布し大名の統制を強化。
1616家康死去徳川家康が75歳で没。死後、東照大権現として日光東照宮に祀られる。
1635参勤交代武家諸法度(寛永令)を改定し、参勤交代を制度として義務化。幕藩体制が確立する。
◎江戸幕府は約260年続き、「徳川の平和(パックス・トクガワーナ)」とも呼ばれる長期安定をもたらした。全国的な流通・文化・経済も発展した。
△大名の自律性を残した幕藩体制は、幕末に諸藩が独自の軍事力を持って倒幕運動を展開する遠因ともなった。
徳川家康
初代征夷大将軍・江戸幕府初代将軍1542年生まれ。三河(現・愛知県)出身。関ヶ原の勝利から3年後に将軍となり、江戸に幕府を開いた。1616年没。
徳川秀忠
2代将軍家康の三男。1605年に将軍職を譲り受け、武家諸法度の制定(1615年)など統制強化を進めた。
豊臣秀頼
豊臣家2代目当主秀吉の子。大坂城を拠点に豊臣家の再興を図ったが、1615年の大坂夏の陣で敗れ滅亡した。
石田三成
豊臣家の奉行関ヶ原で家康に対抗する西軍を率いたが敗北。戦後に処刑された。
- 征夷大将軍
- もともと東北地方を制圧する軍の総司令官を指す称号。源頼朝以降、武家政権の頂点に立つ者が朝廷から与えられる役職として定着した。
- 幕府
- 征夷大将軍を長とする武家政権のこと。江戸幕府のほか、鎌倉幕府・室町幕府がある。幕府の置かれた地名がそのまま時代の名前になることが多い。
- 幕藩体制
- 江戸幕府(幕)と各地の大名が支配する藩(藩)が、それぞれの領地を統治する政治体制。将軍が頂点に立ち、大名がその下に連なる階層構造。
- 大御所
- 将軍職を退いた前将軍のこと。家康は将軍を秀忠に譲った後も「大御所」として実権を握り、駿府(現・静岡市)で政治を行った。
1将軍の在職期間は「わずか2年」だった
家康が征夷大将軍に就いたのは1603年。しかし1605年にはもう秀忠に将軍職を譲っている。「短すぎる在職」に見えるが、これは意図的な政治戦略だった。源頼朝も足利尊氏も将軍は一代で終わっていない例がある中、家康は生前に世襲の既成事実を作ったのだ。
2江戸はもともと「寒村」だった
家康が幕府を開いた当時の江戸は、関東の湿地帯に広がる小さな城下町にすぎなかった。しかし全国から人と物が集まるにつれ急速に発展し、18世紀初頭には人口100万人を超えるとも言われる世界有数の大都市に成長した。
3「征夷大将軍」は本来アイヌ征討の称号
「征夷」の「夷」は東北地方に住む人々(蝦夷)を指す言葉で、もともとは「東北を征討する大将軍」を意味した。坂上田村麻呂(797年)が有名だが、源頼朝以降は「武家政権の頂点」の称号として再定義され、実態とは異なる形で使われ続けた。
4家康の死後は「神様」になった
1616年に75歳で没した家康は、朝廷から「東照大権現」の神号を贈られ、日光東照宮に神として祀られた。「徳川の祖神」として幕府の権威を強化する宗教的な装置でもあった。

ここが出る博士のワンポイント
江戸幕府の成立は1603年。語呂は「ヒーローおっさん(1603)家康」。
1605年に家康は秀忠に将軍職を譲った。「世襲を示す」という意図が頻出論点。
武家諸法度の発布は1615年(大坂夏の陣と同年)、参勤交代の制度化は1635年。年号の混同に注意。
豊臣家が滅んだのは1615年の大坂夏の陣。江戸幕府成立(1603年)と混同しないこと。
幕藩体制・参勤交代・武家諸法度はセットで「江戸幕府の統制策」として整理する。
語呂クイズ
「ヒーローおっさん(1603)家康、江戸幕府」= 徳川家康が征夷大将軍に(江戸幕府成立)は西暦何年?
- Q. 江戸幕府はいつ成立しましたか?
- A. 1603年、徳川家康が征夷大将軍に任じられた年が成立年とされています。
- Q. なぜ家康は征夷大将軍になれたのですか?
- A. 1600年の関ヶ原の戦いで天下の覇権を握ったためです。朝廷に働きかけて1603年に征夷大将軍の称号を得ました。
- Q. 家康はなぜすぐに将軍を秀忠に譲ったのですか?
- A. 「征夷大将軍は徳川家が代々継ぐもの」という前例を作り、豊臣家が将軍になれないことを示すためです。
- Q. 豊臣家はいつ滅びましたか?
- A. 1615年の大坂夏の陣(大坂の陣)で豊臣秀頼が敗れ、豊臣家は滅亡しました。江戸幕府成立から12年後のことです。
- Q. 江戸幕府はいつまで続きましたか?
- A. 1603年の成立から1867年の大政奉還まで、約264年間続きました。将軍は15代まで続きました。
- Q. 参勤交代や武家諸法度はいつ始まりましたか?
- A. 武家諸法度の発布は1615年、参勤交代の制度化(武家諸法度の改定)は1635年です。いずれも江戸幕府成立後に整備された統制策です。
1603年の江戸幕府成立は、単に「家康が将軍になった」だけの出来事ではありません。関ヶ原での勝利、江戸への幕府開設、わずか2年での将軍職の世襲——これらはすべて「徳川が永続的な権力者である」と天下に示すための計算づくの政治行動でした。その後、武家諸法度(1615年)・参勤交代(1635年)など統制策が次々と整備され、約260年にわたる江戸時代の平和が実現します。「ヒーローおっさん(1603)家康、江戸幕府」の語呂とともに、日本史最長の武家政権の出発点として確実に押さえましょう。
編集メモ(ファクト)
「江戸幕府の成立年」は1603年(征夷大将軍任官)が定説。鎌倉幕府(1185年説と1192年説が並立)のような成立年論争は現状ない。
家康の将軍在職は1603〜1605年のわずか2年。大御所として駿府で政治を行ったのは1607年以降とされる。
参勤交代は1635年の武家諸法度(寛永令)改定で制度化。それ以前にも慣行的な参勤は存在したが、義務化されたのは1635年。