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ポルトガル船の来航禁止(鎖国の完成)の浮世絵イラスト
江戸の対外政策 ①中学/外交
1639

ポルトガル船の来航禁止(鎖国の完成)

徳川家光(江戸幕府3代将軍)
語呂
覚え方
一路さく(1639)国、鎖国完成
いろ(16)さく(39)こく

1639年(寛永16年)、江戸幕府はポルトガル船の来航を全面的に禁止しました。1543年の鉄砲伝来、1549年のキリスト教伝来以来、日本と深く関わってきたポルトガルが完全に締め出されたこの措置により、いわゆる「鎖国」体制が完成したとされます。背景にあったのは1637年の島原・天草一揆です。幕府はキリスト教の広がりを幕府支配への脅威とみなし、禁教政策を徹底させました。ただし「鎖国」は日本を完全に孤立させたものではありません。長崎の出島(オランダ)・長崎(中国)・対馬(朝鮮)・薩摩(琉球)・松前(アイヌ)という「四つの口」を通じた交易・交流は引き続き続いていました。

この記事のポイント

  • 1639年、江戸幕府がポルトガル船の来航を禁止し、いわゆる「鎖国」が完成
  • 直接の背景は1637年の島原・天草一揆。幕府がキリスト教の危険性を再認識した
  • 「鎖国」は当時からの用語ではなく、19世紀に広まった後世の呼称
  • 完全な閉鎖ではなく、長崎(オランダ・中国)・対馬・薩摩・松前の「四つの口」で交流継続
  • 1641年にオランダ商館を長崎の出島へ移し、管理された交易体制が整った
ここが面白い

「鎖国」という言葉は当時から使われていたわけではない。実は19世紀に広まった後世の呼称で、江戸時代の人々はこの体制を特別な名前で呼んでいなかった。

ここに至るまでの流れ
背景

1639年のポルトガル船来航禁止は、ある日とつぜん決まったものではありません。鉄砲・キリスト教伝来から約100年にわたる日本と西洋の接触が積み重なり、幕府の警戒感が頂点に達した末の決断でした。ここに至るまでの流れを見てみましょう。

鉄砲・キリスト教の伝来と南蛮貿易

1543年、種子島にポルトガル人が漂着して鉄砲が伝わりました。続いて1549年にはイエズス会のザビエルが鹿児島に上陸してキリスト教を伝えます。ポルトガルとの南蛮貿易は大名たちに大きな経済的利益をもたらし、九州を中心に多くのキリシタン大名が生まれました。

秀吉・家康による禁教の強化

豊臣秀吉は1587年にバテレン追放令を出してキリスト教布教を禁じ、1597年には二十六聖人の殉教事件が起きました。江戸幕府を開いた徳川家康も当初は貿易を優先してキリスト教に一定の余地を認めましたが、1612年には幕府直轄領での禁教令を出し、翌1613年に全国へ拡大。貿易相手もポルトガル・スペインから、布教を伴わないオランダ・中国へ段階的に絞り込んでいきました。

島原・天草一揆(1637年)が決定打に

1637年、島原半島と天草でキリシタンを中心とした大規模な民衆一揆が勃発しました(島原・天草一揆)。幕府は約12万ともいわれる大軍で攻め、翌1638年に一揆勢が籠もる原城が落城して鎮圧されましたが、キリスト教が幕府に対する反乱の旗印になったという事実は衝撃的でした。この一揆が、1639年のポルトガル船来航禁止へと直結しました。

「四つの口」で続く対外交流

ポルトガル締め出し後も、日本は孤立したわけではありませんでした。長崎の出島(オランダ)、長崎(中国)、対馬藩を通じた朝鮮、薩摩藩を通じた琉球、松前藩を通じたアイヌとの交易・交流は幕府の管理のもとで続きました。これらは「四つの口」と呼ばれます。1641年にはオランダ商館が平戸から長崎の出島へ移され、交易の管理体制がほぼ整いました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

ポルトガル船の来航を全面禁止

≒ 特定の取引相手を法的に遮断するサプライチェーン再編

1639年の法令でポルトガル船の来航を永久に禁じた。翌1640年、禁令を確認しに来たポルトガルの使節船が長崎で拿捕され、使節61名が処刑されるという厳しい対応がとられた。

キリスト教の徹底的な禁圧

≒ イデオロギー統制の完成

絵踏(えふみ)・宗門改(しゅうもんあらため)・寺請制度(てらうけせいど)など、キリシタンを摘発・管理するための制度を整備。キリスト教の根絶と人々の宗教管理を一体で進めた。

幕府による貿易の一元管理

≒ 国家による貿易独占・ライセンス制

長崎奉行が貿易を管理し、オランダ・中国との取引を幕府が独占的に統制。大名や商人が独自に外国と交易することを禁じ、情報と利益を幕府に集中させた。

前後のできごと
年表
1543
鉄砲伝来ポルトガル人が種子島に漂着し鉄砲が伝わる。南蛮との接触が本格化する。
1549
キリスト教伝来イエズス会のザビエルが鹿児島に上陸。キリスト教の布教が始まる。
1603
江戸幕府成立徳川家康が征夷大将軍に。幕府が対外政策を主導し始める。
1637
島原・天草一揆キリシタンを含む民衆が蜂起。幕府は大軍で鎮圧し、禁教を加速させる。
1639
鎖国の完成ポルトガル船の来航を禁止。いわゆる「鎖国」体制が完成する。
1641
出島へ移転オランダ商館を平戸から長崎の出島へ移す。管理された交易体制が整う。
1853
黒船来航ペリーが浦賀に来航し開国を迫る。約200年続いた「鎖国」体制が終わりに向かう。
結果とその後
結果
幕府は対外交流を管理下に置いて国内の安定を保ち、「四つの口」を通じた交易で海外の情報・物産を取り入れ続けた。江戸時代を通じた長期の平和の基盤となった。
西洋の技術・思想の流入が限定されたことで、19世紀に欧米列強と接した際の大きな技術格差につながった。1853年のペリー来航による「開国」が幕末の激動の引き金となった。
登場人物
人物

徳川家光

江戸幕府3代将軍

参勤交代の制度化(1635年)・ポルトガル船来航禁止(1639年)など鎖国体制を完成させた将軍。「生まれながらの将軍」として幕府権力の絶対化を推し進めた。

松平信綱

老中(幕府の政策立案者)

島原・天草一揆の事後処理と鎖国政策の実務を担った重要な老中の一人。

天草四郎(益田時貞)

島原・天草一揆の指導者(象徴)

一揆の総大将とされた16歳前後の少年。キリシタンの象徴として担ぎ上げられ、原城に籠城して幕府軍に抵抗したが落城とともに死去した。

キーワード解説
用語
鎖国
江戸幕府が対外交流を制限した体制の呼称。ただしこの語は19世紀に広まった後世の言葉であり、当時の幕府が自ら「鎖国」と呼んだわけではない。また長崎・対馬・薩摩・松前の「四つの口」は開かれており、完全な閉鎖ではなかった。
四つの口
鎖国体制下でも開かれていた4つの交流窓口。①長崎(オランダ・中国)、②対馬藩経由の朝鮮、③薩摩藩経由の琉球、④松前藩経由のアイヌとの交易・外交を指す。
出島
長崎に築かれた扇形の人工島。1641年にオランダ商館が平戸から移転し、以後約200年間オランダとの貿易の唯一の窓口となった。
絵踏(踏絵)
キリシタンを発見・摘発するために、キリストやマリアの像を踏ませて確認する方法。長崎では毎年正月に行われた。
寺請制度
すべての民衆をいずれかの仏教寺院の檀家とし、寺院がキリシタンでないことを証明する仕組み。現代の戸籍制度の原型の一つ。
もっと知りたい
豆知識

1「鎖国」という言葉は江戸時代末期に広まった

「鎖国」という語は、1801年に蘭学者・志筑忠雄がケンペル著「日本誌」の一節を翻訳・解説する際に作った造語だとされる。江戸幕府自身がこの体制を「鎖国」と呼んだことはなく、当時の人々はこれを「海禁」や単なる禁令として認識していた。

2使節を送り返してきたポルトガルに死刑判決

1639年の禁令後、マカオのポルトガル当局は「禁令解除の交渉を」と使節61名を乗せた船を長崎に派遣した。幕府はこれを禁令への挑戦と受け取り、使節のうち正使ら61名を処刑し、残りの乗組員に「二度と来るな」と伝えて帰国させた。

3オランダが生き残れた理由は「布教しなかった」から

オランダ(プロテスタント)は純粋な商業目的で取引し、カトリックのようなキリスト教布教活動を行わなかった。これが幕府に「危険ではない」と判断された最大の理由である。また朱印船の接触や情報提供でも協力的だったことが評価された。

4出島は今も長崎に復元されている

出島は明治以降の埋め立てで陸続きになったが、現在は長崎市が復元整備を進め、江戸時代の建物や街並みが再現されている。国の史跡に指定されており、観光地として訪れることができる。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
1639年にポルトガル船来航禁止→鎖国の完成。語呂は「いろ(16)さく(39)こく」。
直接の背景は1637年の島原・天草一揆。順序を正確に覚えること。
「鎖国」は当時の言葉ではなく19世紀の造語。試験で「当時から使われた言葉か」を問われることがある。
鎖国≠完全閉国。「四つの口」(長崎・対馬・薩摩・松前)は入試頻出。
1641年にオランダ商館を出島へ移転。1639年と1641年の2つの年号を混同しないこと。
語呂クイズ
「一路さく(1639)国、鎖国完成」= ポルトガル船の来航禁止(鎖国の完成)は西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 鎖国はいつ完成しましたか?
A. 1639年にポルトガル船の来航が禁止された時点で、いわゆる「鎖国」体制が完成したとされます。
Q. 「鎖国」という言葉は当時から使われていたのですか?
A. いいえ。「鎖国」は19世紀初め(1801年ごろ)に蘭学者・志筑忠雄が作った造語だとされています。江戸幕府が自らこう呼んだわけではありません。
Q. 鎖国中も交流していた国はありますか?
A. はい。長崎ではオランダ・中国、対馬藩を通じて朝鮮、薩摩藩を通じて琉球、松前藩を通じてアイヌとの交易・交流が続いていました。これらを「四つの口」といいます。
Q. なぜポルトガルだけ締め出されたのですか?
A. ポルトガルはカトリックの布教と貿易を一体で進めていたため、貿易を続ける限りキリスト教の流入を防げませんでした。一方オランダはプロテスタントで布教活動を行わず、純粋な商業目的だったため引き続き交易を許可されました。
Q. 島原・天草一揆との関係は何ですか?
A. 1637年に起きた島原・天草一揆でキリシタンが幕府に抵抗したことが、幕府のキリスト教への警戒を決定的に強めました。この一揆が翌1639年のポルトガル船来航禁止に直結しています。
Q. 出島とは何ですか?
A. 長崎に造られた小さな人工島です。1641年にオランダ商館がここへ移され、江戸時代を通じて日本とオランダが交易する唯一の窓口となりました。
まとめ

1639年のポルトガル船来航禁止は、単に「外国を締め出した」だけの出来事ではありません。幕府が宗教的・政治的安定を最優先に判断し、貿易の利益よりも体制の安全を選んだ歴史的な決断でした。そして「鎖国」の実態は完全な孤立ではなく、「四つの口」を通じた管理された交流の継続でした。この体制は約200年にわたって続きますが、1853年のペリー来航によって終わりを迎え、幕末の激動へとつながります。「いろ(16)さく(39)こく」の語呂とともに、鎖国の前後の流れをひと続きの因果として押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
「鎖国」の語は志筑忠雄(1801年)に由来するという説が有力だが、研究者によって見解に幅があるため断定は避けた。
「四つの口」はいずれも幕府の管理下にあったが、それぞれ管轄の藩が異なる点に注意。長崎は幕府直轄(長崎奉行)、対馬は宗氏、薩摩は島津氏、松前は松前氏。
1640年のポルトガル使節処刑は史実として確認されているが、処刑者数などの細部は史料によって若干異なるため「61名」と記述した(主要な史料に基づく数値)。
島原・天草一揆の参加者数(4万人・約3万7千人など)は史料により幅があるため本文での数値掲載を避けた。