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オランダ商館を出島へ移すの浮世絵イラスト
江戸の対外政策 ④中学/外交
1641

オランダ商館を出島へ移す

徳川家光(江戸幕府3代将軍)
語呂
覚え方
色よい(1641)出島に、オランダ商館
色(1・6)よ(4)い(1)出島に、オランダ商館

1641年(寛永18年)、江戸幕府はオランダ東インド会社の商館を平戸から長崎の出島へ移転させました。これにより、日本と西洋の交流窓口は長崎の出島一か所に絞られ、幕府が管理・監視できる体制が整います。前年1639年のポルトガル船来航禁止とあわせて、いわゆる「鎖国体制」がほぼ完成しました。オランダ人は出島という小さな人工島の中にのみ居住を許され、毎年「オランダ風説書」で海外情報を幕府に提出し、商館長(カピタン)は江戸まで参府する義務を負いました。以後200年以上、出島は日本と西洋をつなぐ唯一の窓口であり続けます。

この記事のポイント

  • 1641年、オランダ商館が平戸から長崎・出島へ移転し、西洋との窓口が出島に一本化された
  • 1639年のポルトガル船禁止とあわせ、いわゆる鎖国体制がほぼ完成した
  • 西洋との貿易はオランダのみ・場所は出島のみに限定され、幕府が厳しく管理した
  • オランダ商館長(カピタン)は毎年江戸へ参府し、将軍に謁見する義務を負った
  • オランダは毎年「オランダ風説書」を幕府に提出し、海外の情報が日本に伝わり続けた
ここが面白い

出島はもともとポルトガル人のために造られた人工島。オランダ人が使い始めたのは1641年から。

ここに至るまでの流れ
背景

オランダ商館の出島移転は、突然起きた出来事ではありません。江戸幕府がキリスト教と外国勢力への警戒を強め、対外政策を段階的に絞り込んできた結果です。その流れを順番に見ていきましょう。

キリスト教禁止と南蛮貿易の縮小

1549年にフランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えると、九州の大名を中心に信者が急増しました。しかし豊臣秀吉は1587年に宣教師追放令を出し、江戸幕府も1612年以降、全国的な禁教令でキリスト教を厳しく取り締まりました。ポルトガルやスペインは貿易と布教を一体化させていたため、幕府の目には「危険な相手」として映りました。

出島の建設とポルトガル人の収容

1636年、幕府は長崎港内に扇形の人工島「出島」を築き、ポルトガル人をそこに移して活動を制限しました。さらに1637〜38年の島原・天草一揆(島原の乱)でキリシタンが蜂起すると、幕府はキリスト教への警戒をいっそう強め、1639年についにポルトガル船の来航を全面禁止しました。

オランダの「棚ぼた」と平戸商館の歴史

オランダ東インド会社は1609年に平戸(現在の長崎県平戸市)に商館を開いていました。オランダは布教活動を行わない純粋な商業国家であり、幕府にとって「貿易だけできる都合のよい相手」でした。ポルトガルが締め出された1639年以降、オランダは事実上、唯一の西洋貿易相手になります。しかし幕府はさらに一手打ち、1641年に平戸商館を出島へ移転させることで、西洋人の居住を出島という「小さな箱」の中に閉じ込めました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

出島への集約と完全管理

≒ 外国人専用の管理区画に囲い込む

オランダ人は出島(約1万5000平方メートルの人工島)の外に出ることを原則禁じられ、幕府の役人が常駐して行動・貿易を監視した。

オランダ風説書による情報収集

≒ 毎年提出義務のある海外ニュースレター

オランダ商館長は毎年、世界各地の政治・戦争・科学の動向をまとめた「オランダ風説書」を幕府に提出した。鎖国中も幕府が世界情勢を把握できた秘密兵器。

カピタンの江戸参府

≒ CEO が毎年本社(将軍)へ表敬訪問する義務

商館長(カピタン)は毎年(のちに数年おきに)江戸へ出向き、将軍に謁見・献上品を贈った。長崎〜江戸の往復は庶民の目にも触れ、「異国人行列」として物見遊山の的になった。

前後のできごと
年表
1609
平戸開館オランダ東インド会社が平戸に商館を開設。日本との貿易を開始。
1636
出島築造長崎港内にポルトガル人を収容する人工島・出島が完成。
1637
島原の乱島原・天草でキリシタンが蜂起(〜1638年)。幕府の禁教政策がさらに強化される。
1639
ポルトガル船禁止ポルトガル船の来航を全面禁止。西洋との窓口がオランダのみになる。
1641
出島移転オランダ商館を平戸から長崎・出島へ移転。鎖国体制がほぼ完成。
1715
海舶互市新例新井白石が正徳の治の一環として長崎貿易をさらに制限(長崎新令)。
結果とその後
結果
幕府は貿易と情報を一元管理することに成功し、キリスト教の再拡大を防いだ。オランダ風説書を通じて海外情報は途切れず、のちの蘭学・洋学の基盤になった。
西洋との交流を出島のみに限定したことで、産業革命など18〜19世紀の技術革新から日本は立ち遅れた。1853年のペリー来航時に「開国か鎖国か」の大混乱を招く遠因ともなった。
登場人物
人物

徳川家光

江戸幕府3代将軍

鎖国体制を段階的に整備した将軍。参勤交代の制度化(1635年)や禁教強化・出島移転もこの時代に行われた。

フランソワ・カロン

平戸商館長(1639〜41年)

平戸商館から出島への移転を実施した時期の商館長。日本語に堪能で、日本に関する著述も残している。

ニコラス・クーケバッケル

出島移転直前の平戸商館長

1639年のポルトガル船禁止後にオランダが唯一の西洋貿易相手となる過程で交渉にあたった。

長崎奉行(代々)

幕府の長崎統治責任者

出島のオランダ商館を直接監督し、貿易品の審査・オランダ人の行動管理・風説書の受け取りを担った。

シーボルト

19世紀の出島駐在医師・博物学者

1823年に出島に着任。日本の植物・風俗を精力的に研究し、ヨーロッパに紹介した(シーボルト事件は1828年)。

キーワード解説
用語
出島
長崎港内に幕府が築いた扇形の人工島。1636年にポルトガル人収容のために建設され、1641年以降はオランダ東インド会社の商館が置かれた。面積は約1万5000平方メートル(東京ドームの約3分の1)。
オランダ東インド会社(VOC)
17〜18世紀に東南アジア・日本との貿易を独占したオランダの特許会社。株式会社の元祖ともいわれる。日本では「オランダ」の名で呼ばれたが、商館員は多国籍だった。
オランダ風説書
出島のオランダ商館長が幕府に毎年提出した海外情勢の報告書。ヨーロッパの戦争・外交・科学の動向が記された。鎖国中の日本にとって貴重な海外情報源だった。
カピタン(甲比丹)
オランダ商館長の呼称。ポルトガル語のcapitão(キャプテン)に由来。毎年(のちに数年おきに)江戸へ参府し将軍に謁見する義務を負った。
もっと知りたい
豆知識

1出島はもともとポルトガル人のための島だった

1636年に建設された出島は当初、ポルトガル人を収容して管理するために造られた。しかし1639年にポルトガル船が禁止されると空き島になり、1641年からオランダ商館がそこに入った。「出島=オランダ」のイメージは強いが、設計意図はポルトガル対策だった。

2出島の面積は現代の「スーパー1軒分」

出島の面積は約1万5000平方メートル(南北約70m・東西約200m)。現代の中規模スーパーマーケット1店舗ほどの広さに、商館建物・倉庫・住居などが密集していた。この狭い島にオランダ人約20名が年間を通じて暮らしていた。

3カピタンの江戸参府は「見世物」だった

オランダ商館長が毎年(のちに4年に1回)行う江戸参府は、沿道の庶民にとって「異国人行列」の見学チャンスだった。オランダ人の奇異な外見や珍しい器具は評判を呼び、浮世絵の題材にもなった。

4平戸商館の建物は移転直前に取り壊された

幕府は平戸商館の移転にあたり、商館の建物を壊すよう命じた。理由の一つは「石造りの建物が城郭に見える」という警戒感だったといわれる。オランダ側は損失を嘆いたが、貿易継続のために従うしかなかった。

5鎖国中も「4つの口」は開いていた

「鎖国」といっても完全な鎖国ではなく、長崎(オランダ・中国)・対馬(朝鮮)・薩摩(琉球)・松前(アイヌ・蝦夷地)という「4つの口」を通じた交流は続いた。出島移転は「西洋との窓口を出島に一本化した」出来事であり、アジアとの外交・貿易は別ルートで維持された。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
出島移転は1641年(寛永18年)。語呂は「色よい(1641)出島に、オランダ商館」。
移転前のオランダ商館の場所は平戸(現在の長崎県平戸市)であることを押さえる。
1639年のポルトガル船禁止→1641年のオランダ商館移転という2年連続の流れで鎖国完成。
鎖国中も長崎(オランダ・中国)・対馬(朝鮮)・薩摩(琉球)・松前(蝦夷地)の「4つの口」は存在したことを混同しない。
語呂クイズ
「色よい(1641)出島に、オランダ商館」= オランダ商館を出島へ移すは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 出島はどこにあるのですか?
A. 長崎港内に幕府が築いた人工島です。現在の長崎市の中心部に位置し、江戸時代の姿を復元した「出島和蘭商館跡」として公開されています。
Q. なぜオランダだけが長崎で貿易できたのですか?
A. オランダはキリスト教の布教活動を行わない純粋な商業国家だったためです。幕府にとって「宗教的な危険なしに貿易だけできる相手」として残されました。
Q. 鎖国とはどういう意味ですか?
A. 江戸幕府が外国との交流を厳しく制限した体制を指します。ただし「鎖国」という言葉は江戸時代末期以降に広まった表現で、当時の幕府が自分でそう呼んでいたわけではありません。実際には長崎・対馬・薩摩・松前の4つの窓口を通じた限定的な交流は続いていました。
Q. オランダ風説書とは何ですか?
A. 出島のオランダ商館長が幕府に毎年提出した海外情勢報告書です。ヨーロッパの戦争・政変・科学の動向などが記されており、鎖国中の日本が世界情勢を把握するための重要な情報源でした。
Q. 出島はいつ廃止されましたか?
A. 1859年(安政6年)に長崎が正式な開港場となり、出島の役割は実質的に終わりました。1899年(明治32年)には出島の周囲が埋め立てられ、人工島としての形状もなくなりました。
まとめ

1641年のオランダ商館移転は、江戸幕府が約20年かけて積み上げてきた対外政策の「総仕上げ」です。キリスト教の禁止・ポルトガル船の排除・そして出島への一本化によって、西洋との接触は幕府が完全に管理できる形に整えられました。「色よい(1641)出島に、オランダ商館」の語呂とともに、鎖国体制完成の年として確実に押さえておきましょう。同時に、出島はただの「閉め出し」の象徴ではなく、オランダ風説書という形で世界の情報が流れ込み続けた「唯一の西洋窓口」でもあったことを忘れないでください。

編集メモ(ファクト)
「鎖国」という言葉は江戸後期に蘭学者・志筑忠雄がドイツ人医師ケンペルの著作を翻訳した際に用いた訳語とされ、当時の幕府の公式表現ではない。近年の歴史学では「海禁体制」や「四つの口」論などの観点から再検討が進んでいる。
フランソワ・カロンの在任期間や移転時の商館長の特定には複数の説がある。カロンは1639〜41年ごろ在任したとされるが、移転手続きの最終責任者については史料により記述が異なる場合がある。
カピタンの江戸参府の頻度は時代により変化した。当初は毎年だったが、のちに4年に1回程度に緩和された時期もあり、断定的な記述は避けた。