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生類憐みの令(徳川綱吉)の浮世絵イラスト
江戸幕府の政治 ③高校/社会
1685

生類憐みの令(徳川綱吉)

徳川綱吉(5代将軍)
語呂
覚え方
色は恋しく生き物大事、生類憐みの令
い(1)ろ(6)は(8)こ(5)

1685年(貞享2年)、5代将軍徳川綱吉は最初の「生類憐みの令」を発しました。以後1709年の死去まで20年以上にわたり繰り返し追加・改訂された一連の法令の総称で、犬・猫・牛馬はもちろん、虫や魚にいたるまで生き物の殺傷を禁じ、捨て子・捨て牛馬・病人の放置も取り締まりました。庶民には「犬を傷つけただけで島流し」とも伝わり大きな反発を招きましたが、一方で生命を尊重する風潮を広め、現代の動物保護や社会福祉の先駆けとして再評価する見方もあります。綱吉の死の翌月には多くの令が廃止されました。

この記事のポイント

  • 5代将軍徳川綱吉が1685年頃から1709年の死去まで繰り返し発した一連の法令の総称
  • 犬をはじめとする生き物の殺傷・遺棄を禁止し、捨て子・病人の放置も取り締まった
  • 綱吉は戌年生まれで犬を特に保護したとされ「犬公方」と揶揄された
  • 極端な運用で庶民の生活に支障をきたした面がある一方、生命尊重の風潮を広めた
  • 1709年に綱吉が死去すると、後継の6代将軍徳川家宣がまもなく多くを廃止
ここが面白い

「犬を傷つけたら死罪」は都市伝説に近い誇張。実態はもっと複雑で、捨て子・捨て牛馬の禁止など福祉的側面も持っていた。

ここに至るまでの流れ
背景

生類憐みの令は突然生まれた奇策ではありません。綱吉が将軍になるまでの政治状況と、彼の思想的背景を理解することで、なぜこの令が生まれたのかが見えてきます。

綱吉とはどんな将軍か

徳川綱吉(1646〜1709)は3代将軍家光の四男として生まれ、1680年に5代将軍に就任しました。文治政治を推進し、儒学・礼楽を重んじた「学問将軍」として知られます。自ら湯島聖堂に出向いて講義を行うほど儒学に傾倒していました。

綱吉の時代の社会問題

17世紀後半の江戸では、口減らしのための捨て子や、労働力を失った牛馬を路上に捨てる行為が横行していました。また戦国時代以来の「殺伐とした気風」も残っており、綱吉はこれを儒教道徳で矯正しようとしたと考えられます。

「一つの法令」ではなく「令の積み重ね」

生類憐みの令は1685年を皮切りに、20年以上にわたって繰り返し発令されました。その数は数十から百数十件以上とも言われ、対象となる生き物や禁止行為が少しずつ拡大されていきました。単一の法律ではなく、一連の布告・触書の集合体です。

中野の犬小屋

令の最も有名なエピソードが、現在の東京都中野区に設けられた巨大な犬小屋です。最盛期には数万頭の野良犬が収容されたとも言われ、その維持費は幕府財政を圧迫しました。これが庶民の反発を強める一因になりました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

生き物の殺傷・遺棄を禁止

≒ 広義の動物保護法

犬・猫・牛馬・鳥・魚・虫など幅広い生き物の殺傷・遺棄を禁じた。特に犬は手厚く保護され、傷つけると厳しい処罰が科された。

捨て子・捨て牛馬の禁止

≒ 社会的弱者の保護

生活困窮による捨て子や病人の放置、老いた牛馬を路上に捨てる行為も禁止した。これは現代の福祉的観点から再評価される部分でもある。

中野に大規模な犬小屋を設置

≒ 公設の動物保護施設

野良犬を収容するため現在の中野区に広大な犬小屋を設けた。数万頭規模ともされ、維持費が幕府財政の負担になった。

前後のできごと
年表
1680
就任徳川綱吉が5代将軍に就任。文治政治を推進し、儒学を重んじる。
1685
最初の令最初の「生類憐みの令」を発令。生き物の殺傷・遺棄を禁じる布告が始まる。
1687
拡大令の対象が拡大。犬以外の生き物への適用も強化される。
1695
犬小屋中野(現・東京都中野区)に大規模な犬小屋を設置。野良犬を収容。
1709
綱吉死去綱吉が死去。翌月、後継の6代将軍徳川家宣がまもなく多くの令を廃止。
結果とその後
結果
捨て子・捨て牛馬の禁止など、社会的弱者や動物を保護しようとする先駆的な施策として再評価されている。殺生を戒める風潮が広まったとも言われる。
過度に厳格な運用は庶民の生活を圧迫し、反発を招いた。幕府財政の圧迫も招き、綱吉死後すぐに大部分が廃止された。
登場人物
人物

徳川綱吉

5代将軍

戌年生まれで犬を特に大切にしたとされ「犬公方」と呼ばれた。儒学・仏教に傾倒した文治派の将軍。

柳沢吉保

側用人・老中格

綱吉の側近として政治を補佐。令の実施にも深く関わった。

徳川家宣

6代将軍

綱吉の甥で後継将軍。就任後まもなく生類憐みの令の多くを廃止した。

キーワード解説
用語
生類憐みの令
5代将軍徳川綱吉が1685年頃から発した、生き物の殺傷・遺棄を禁じる一連の法令の総称。単一の法律ではなく、20年以上にわたる布告・触書の集合体。
文治政治
武力による統治から、法律・礼儀・儒教道徳による統治へ転換した江戸時代中期以降の政治スタイル。
犬公方
犬を特に厚く保護した綱吉への庶民の揶揄の呼び名。将軍(公方)でありながら犬に肩入れするという批判的ニュアンスを含む。
側用人
将軍と老中の間を取り次ぐ役職。綱吉期に権限が強まり、柳沢吉保が代表的存在。
もっと知りたい
豆知識

1「犬を殺したら死罪」は誇張

「犬を傷つけただけで死罪・島流し」というイメージが広まっているが、実際には令の内容・運用はもっと複雑で、死罪に至ったケースは限られる。ただし軽率な殺傷が厳しく処罰された事例は記録に残っており、庶民が委縮したのは事実。

2中野の犬小屋は幕府財政を圧迫

現在の中野区に設けられた犬小屋は最盛期に数万頭を収容したとも伝わる。犬の飼育費・人件費が膨大となり、幕府の財政負担になったとされる。江戸時代の「大きすぎた動物保護施設」として有名なエピソード。

3捨て子保護は現代的評価が高い

令には「捨て子を見つけた者は届け出よ、養育せよ」という内容も含まれており、これは現代の里親制度や児童保護に通じる考え方として研究者から評価されている。動物保護の側面ばかりが強調されるが、人間の弱者保護も重要な柱だった。

4戌年生まれだから犬を保護した?

綱吉が犬を特に保護した理由として「自身が戌年生まれだから」という説が流布しているが、これは後世の俗説に過ぎず、史料的裏付けは乏しい。儒教・仏教的な殺生戒の実践という側面の方が実態に近い。

5死後1か月余で廃止

綱吉は1709年1月に死去。後継の6代将軍徳川家宣は同年3月までに令の大部分を廃止した。20年以上続いた法令が将軍の交代によって急速に消えたことは、令がいかに綱吉個人の政治意思と結びついていたかを示している。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
生類憐みの令は5代将軍徳川綱吉が1685年頃から発した一連の法令の総称(単一の法律ではない)。
語呂は「い(1)ろ(6)は(8)こ(5)=1685」。色は恋しく生き物大事。
綱吉は「犬公方」と呼ばれた。令は綱吉の死後まもなく廃止された(1709年)。
捨て子・捨て牛馬の禁止など社会的弱者保護の側面も持ち、近年再評価されている。
語呂クイズ
「色は恋しく生き物大事、生類憐みの令」= 生類憐みの令(徳川綱吉)は西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 生類憐みの令はいつ出されましたか?
A. 1685年(貞享2年)に最初の令が発せられ、以後1709年の綱吉死去まで繰り返し追加・改訂されました。単一の法令ではなく、20年以上にわたる一連の布告の総称です。
Q. なぜ「犬公方」と呼ばれたのですか?
A. 令が犬を特に手厚く保護したことから、庶民が将軍(公方)を皮肉って「犬公方」と呼びました。戌年生まれという説もありますが、史料的裏付けは乏しいとされます。
Q. 生類憐みの令はいつ廃止されましたか?
A. 1709年に綱吉が死去し、後継の6代将軍徳川家宣が同年中に多くの令を廃止しました。
Q. 生類憐みの令は悪法だったのですか?
A. 極端な運用で庶民の生活を圧迫した面は否定できませんが、捨て子・病人の保護、殺生を戒める風潮の形成など、現代的視点から再評価される側面もあります。一概に悪法とは言えず、研究者の評価は分かれています。
Q. 中野の犬小屋とは何ですか?
A. 令に基づき現在の東京都中野区に設置された大規模な犬の収容施設です。野良犬を保護する目的で作られましたが、最盛期には数万頭が収容されたとも言われ、幕府財政の負担になりました。
まとめ

生類憐みの令は「犬を大切にしすぎた悪法」として長らく嘲笑されてきましたが、近年の研究では捨て子・病人の保護など福祉的側面や、生命尊重の風潮を広めた点が再評価されています。語呂「い(1)ろ(6)は(8)こ(5)=1685」で年号を押さえつつ、単なる奇法ではなく、江戸中期の文治政治・社会改革の一端として理解しておきましょう。

編集メモ(ファクト)
生類憐みの令は単一の法令ではなく、1685年から1709年にわたる布告・触書の集合体。
「犬を傷つけたら死罪」は誇張を含む俗説であり、実際の運用はより複雑だった。
「戌年生まれだから犬を保護した」は後世の俗説で史料的根拠に乏しい。
中野の犬小屋の収容数(数万頭)は諸説あり、誇張を含む可能性がある。