江戸の三大改革 ②中学/政治
1787
寛政の改革(松平定信)
松平定信(老中首座・白河藩主)
語呂
覚え方
否、花咲かず(1787)寛政の改革
い(1)な(7)は(8)な(7)咲かず
1787年(天明7年)、老中首座となった松平定信が始めたのが寛政の改革です。その直前まで続いた田沼意次の商業重視・贈賄横行の政治への反動として、定信は儒教道徳を重んじる厳格な引き締め策を次々と打ち出しました。囲米で飢饉に備え、棄捐令で旗本・御家人の借金を帳消しにし、旧里帰農令で農村の人口を取り戻そうとし、寛政異学の禁で朱子学以外の学問を幕府の学校から締め出しました。厳格すぎるという批判も受けながら、定信は1793年まで改革を推し進めました。享保・寛政・天保を合わせた「江戸の三大改革」の第二弾です。
この記事のポイント
- 1787年、松平定信が老中首座となり寛政の改革を開始
- 田沼意次の商業・贈賄政治への反動として、緊縮・統制・儒教道徳を重視
- 囲米:各藩に米を備蓄させ飢饉対策(天明の大飢饉の教訓)
- 棄捐令:旗本・御家人の札差(金融業者)への借金を帳消しまたは猶予
- 旧里帰農令・人足寄場:農村への帰還を奨励し、都市の浮浪者を収容・更生
- 寛政異学の禁:幕府の学問所(昌平坂学問所)で朱子学以外の講義を禁止
ここが面白い「白河の清きに魚もすまびき」——厳しすぎる改革を風刺した狂歌が江戸中に広まった。
寛政の改革は、それ以前の時代が生んだ二つの大きな問題——田沼政治の腐敗と天明の大飢饉——への対応として始まりました。ここに至るまでの流れを見てみましょう。
田沼意次の商業重視政治
8代将軍・吉宗の享保の改革のあと、老中として権力を握ったのが田沼意次です(老中就任1772年)。意次は農業中心の幕政を転換し、商人の力を利用して幕府財政を潤そうとしました。株仲間の公認や長崎貿易の拡大など積極策をとりましたが、一方で贈賄・縁故が横行し、幕府の綱紀は乱れていきました。
天明の大飢饉と田沼政治の終わり
1782〜87年にかけて、東北を中心に天明の大飢饉が起きました。浅間山の噴火による冷害なども重なり、数十万人規模の死者が出たとも伝わります(諸説あり)。飢饉のなかで農村は荒廃し、農民が都市へ流入。江戸・大坂では打ちこわしが起きるなど社会不安が高まりました。1787年に田沼意次は失脚し、改革の担い手として白河藩主・松平定信が老中首座に就きました。
「享保の改革に学べ」という方針
定信は、祖父である8代将軍・徳川吉宗の享保の改革を手本にしました。農業基盤の立て直し・倹約・儒教道徳による秩序回復——これらを柱とする緊縮路線が寛政改革の骨格です。田沼時代の自由な商業政策から180度転換する方針でした。
囲米(かこいまい)
≒ 各藩に義務付けた米の公的備蓄各大名に石高に応じて米を貯蔵させ、飢饉に備えた。天明の大飢饉の教訓から生まれた食料安全保障策。
棄捐令(きえんれい)
≒ 旗本・御家人の借金チャラ令旗本・御家人が札差(金融業者)に抱えた6年以上の古い借金を帳消しにし、新たな借金は低利・長期返済とした。借金苦で生活が立ちいかなくなっていた武士層の救済が目的。
旧里帰農令(きゅうりきのうれい)
≒ 都市から農村への帰還促進農村から江戸へ出てきた者に帰郷費用を給付し、農村の人口回復をはかった。都市への人口流入による農村荒廃に対処する政策。
人足寄場(にんそくよせば)
≒ 浮浪者の更生・職業訓練施設江戸・石川島に設置した施設で、無宿者(浮浪者)を収容し、技術を身につけさせて社会復帰を支援した。
寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)
≒ 幕府公認の学問を朱子学一本に限定昌平坂学問所(湯島聖堂)での講義を朱子学のみとし、古学・蘭学などを公式教育から排除した。
1782大飢饉天明の大飢饉が始まる(〜87年)。東北を中心に大規模な飢餓。
1787改革開始松平定信が老中首座に就任し、寛政の改革を開始。囲米・倹約令などを次々と打ち出す。
1789棄捐令旗本・御家人の借金を帳消しにする棄捐令を発布。
1790異学の禁寛政異学の禁を発令。昌平坂学問所で朱子学以外の講義を禁止。
1790旧里帰農令旧里帰農令で農村帰還を奨励。人足寄場を石川島に設置。
1793定信失脚定信が将軍・徳川家斉と対立し老中を辞任。改革はひと区切りを迎える。
◎囲米・旧里帰農令で農村・食料の安定化に一定の効果があった。
△厳しすぎる統制と思想統制への反発が強く、「白河の清きに魚もすまびき」と風刺される。棄捐令で打撃を受けた札差は旗本・御家人への融資を渋るようになり、武士層の困窮は続いた。
松平定信
老中首座・白河藩主吉宗の孫。清廉・厳格な政治家として知られる。1793年に家斉との対立で失脚。
田沼意次
前老中(改革の前任者)商業重視・贈賄横行の政治で知られ、定信はその反動として緊縮路線をとった。
徳川家斉
11代将軍1787年将軍就任。定信と対立し、定信失脚後は自ら「文化文政の爛熟した政治」を行った。
長谷川平蔵
火付盗賊改方長官人足寄場の設立を建議した実務家。小説「鬼平犯科帳」のモデルとしても知られる。
- 囲米
- 各藩が石高に応じて米を貯蔵する義務。天明の大飢饉の教訓から導入された飢饉対策。
- 棄捐令
- 旗本・御家人が札差に抱えた古い借金を帳消しにし、新借金を低利・長期返済とした法令。
- 旧里帰農令
- 江戸に流入した農村出身者の帰郷を費用給付で奨励し、農村人口の回復をはかった法令。
- 寛政異学の禁
- 昌平坂学問所(湯島聖堂)での朱子学以外の講義を禁じた令(1790年)。朱子学を幕府公認の学問として確立。
- 札差(ふださし)
- 旗本・御家人の俸禄米を担保に金貸しを行った江戸の金融業者。棄捐令の打撃を直接受けた。
- 人足寄場
- 江戸・石川島に設置された無宿者収容・更生施設。長谷川平蔵の建議による。
1「白河の清き」狂歌の真相
「白河の清きに魚もすまびきにごりし田沼のころぞ恋しき」——定信の白河藩主としての厳格さを清流に例え、自由だった田沼時代を「濁り」に例えた風刺。作者不詳だが江戸中に広まり、定信の統制の厳しさを物語る。
2定信は吉宗の孫だった
松平定信は8代将軍・徳川吉宗の孫にあたる。「享保の改革を手本に」と公言しており、吉宗への強いあこがれが改革の原動力の一つだったとされる。
3棄捐令は諸刃の剣だった
借金チャラ令(棄捐令)は武士を救ったが、打撃を受けた札差はその後の旗本・御家人への新規融資を減らした。救済のつもりがかえって武士への資金供給を細らせた、という皮肉な結果を招いたとされる。
4長谷川平蔵=「鬼平」の実在モデル
人足寄場を建議した長谷川平蔵は、池波正太郎の時代小説「鬼平犯科帳」の主人公のモデル。現実の平蔵は、犯罪者の更生という先進的なアイデアを定信に提案した実務家だった。
5定信はわずか6年で失脚
将軍・家斉が成人し親政を始めると、定信と対立が深まり1793年に辞任。改革期間は6年ほどで終わったが、江戸後期の政治・思想に与えた影響は大きかった。

ここが出る博士のワンポイント
寛政の改革は1787年、老中首座・松平定信が主導した。三大改革の第二弾。
囲米=飢饉対策の米備蓄義務、棄捐令=旗本・御家人の借金帳消し。
旧里帰農令=農村帰還奨励、人足寄場=無宿者更生施設(石川島)。
寛政異学の禁(1790年):昌平坂学問所で朱子学以外を禁止。
田沼意次(商業重視・贈賄)の後の反動として緊縮・統制路線をとった点を押さえる。
享保(1716・吉宗)→ 寛政(1787・定信)→ 天保(1841・水野忠邦)の順で覚える。
語呂クイズ
「否、花咲かず(1787)寛政の改革」= 寛政の改革(松平定信)は西暦何年?
- Q. 寛政の改革を行ったのは誰ですか?
- A. 老中首座の松平定信です。白河藩主で、8代将軍・徳川吉宗の孫にあたります。
- Q. 田沼意次との違いは何ですか?
- A. 田沼は商業・貿易を重視し積極財政をとりましたが、定信は農業基盤の再建・倹約・儒教道徳を重んじる緊縮・統制路線をとりました。
- Q. 囲米とはどんな政策ですか?
- A. 各藩に石高に応じた量の米を備蓄させ、飢饉に備えた政策です。天明の大飢饉の教訓から生まれました。
- Q. 棄捐令で得をしたのは誰ですか?
- A. 短期的には借金を抱えていた旗本・御家人が救済されました。ただし融資を行っていた札差が打撃を受け、その後の武士への融資が渋くなったとも言われます。
- Q. 寛政異学の禁とは何ですか?
- A. 1790年に出された法令で、幕府の学問所(昌平坂学問所)での講義を朱子学のみに限定し、古学・蘭学などを排除しました。
- Q. 三大改革とは何ですか?
- A. 享保の改革(1716年・吉宗)・寛政の改革(1787年・定信)・天保の改革(1841年・水野忠邦)の三つを指します。
寛政の改革は、田沼政治の腐敗と天明の大飢饉という二つの危機への答えとして始まりました。囲米・棄捐令・旧里帰農令・寛政異学の禁——どれも現状を引き締め、農業と道徳を土台に立て直そうとする政策でした。しかしその厳格さは「白河の清きに魚もすまびき」と風刺されるほどで、定信はわずか6年で失脚します。享保(1716)→ 寛政(1787)→ 天保(1841)という三大改革の流れのなかで、「否、花咲かず(1787)寛政の改革」の語呂とともに、田沼政治の後・天保の前という位置づけをしっかり押さえましょう。
編集メモ(ファクト)
寛政の改革の開始年は1787年が通説。定信の老中首座就任が1787年(天明7年)で改革もこの年から始まったとされる。
天明の大飢饉の死者数は数十万人規模とされるが史料によって差があり断定を避けた。
棄捐令の効果・副作用(融資縮小)については学説により評価が分かれるため断定を避けた。