幕末の開国 前夜 ①高校/外交
1825
異国船打払令
江戸幕府(11代将軍 徳川家斉の治世)
語呂
覚え方
嫌に来る異国船、打ち払え
い(1)や(8)に(2)こ(5)
1825年(文政8年)、江戸幕府は異国船打払令(別名・無二念打払令)を発令しました。日本沿岸に接近する外国船は、理由や事情を一切問わず、ただちに砲撃して撃退せよという強硬命令です。「無二念(むにねん)」とは「一切迷わず」の意で、判断の余地すら与えない徹底した排撃方針でした。背景には1808年のフェートン号事件や1824年の英国捕鯨船員による上陸事件など、相次ぐ外国船の接近があります。しかしこの令は、1837年のモリソン号事件で実際に米国船を砲撃したことで蘭学者たちの批判を招き、やがて1842年の薪水給与令によって緩和されることになります。
この記事のポイント
- 1825年、幕府が異国船打払令(無二念打払令)を発令。外国船を理由不問で砲撃・撃退せよと命じた
- 直接の背景は1808年フェートン号事件と1824年の英国捕鯨船員による大津浜・宝島への上陸
- 1837年、漂流民を送り届けに来た米国商船モリソン号を砲撃(モリソン号事件)
- 渡辺崋山・高野長英ら蘭学者が批判→幕府は1839年に弾圧(蛮社の獄)
- アヘン戦争(1840〜42年)で清の敗北を知り衝撃を受け、1842年に薪水給与令へ方針転換(打払令を緩和)
ここが面白い「問答無用で撃て」。理由も問わず外国船を砲撃せよという、江戸幕府史上もっとも強硬な対外令だった。
異国船打払令は突然生まれたわけではありません。18世紀末から続く外国船接近の積み重ねが、幕府を追い詰め、この強硬令を生み出しました。令が出るまでの流れと、令が後の時代に与えた影響を順に見てみましょう。
相次ぐ外国船の接近
1792年にロシアのラクスマンが根室に来航して通商を求め、1804年にはレザノフが長崎に来て再び通商を要求しました。いずれも幕府は拒絶しましたが、外国船の接近は続きます。ロシア船が1806〜07年にかけて択捉島・樺太などを攻撃するという事件(文化露寇)も起き、幕府の緊張感は高まっていきました。
フェートン号事件(1808年)
1808年、イギリス軍艦フェートン号が、オランダ船に偽装して長崎港に侵入しました。オランダ商館員を人質に取り、薪水・食料を強要して引き揚げたこの事件は、幕府の鎖国体制の穴を露わにしました。長崎奉行は責任を取って切腹し、幕府は外国船への対応を真剣に考えざるを得なくなりました。
1824年の上陸事件(大津浜・宝島)
1824年、英国の捕鯨船員が水戸藩の大津浜(現在の茨城県北茨城市)に上陸し、食料や水を求めました。同年には薩摩藩の宝島にも英国船員が上陸する事件が起きます。幕府はこれを鎖国の重大な侵犯とみなし、翌1825年に異国船打払令を発令するに至りました。
モリソン号事件と蛮社の獄(1837年・1839年)
1837年、アメリカの商船モリソン号が、日本人漂流民を送り届けようと浦賀・薩摩沖に現れました。しかし幕府は打払令に従い砲撃して追い払います。この砲撃を蘭学者の渡辺崋山・高野長英らが批判すると、幕府は1839年に彼らを投獄・弾圧しました(蛮社の獄)。
アヘン戦争の衝撃と薪水給与令(1840〜42年)
1840〜42年のアヘン戦争で、アジアの大国・清がイギリスに敗れたという知らせは日本に大きな衝撃を与えました。強硬策を続ければ日本も同様の危機に陥ると判断した幕府は、1842年に薪水給与令を出し、外国船に薪水・食料を与えて穏便に帰す方針へ転換。異国船打払令はここで実質的に緩和されました。
無二念打払令の発令
≒ 即時対応・問答無用の強制退去命令「一切迷わず(無二念)撃て」という命令。接近する外国船の事情や目的を問わず、沿岸警備の藩が砲撃して撃退することを義務づけた。
沿岸諸藩への徹底通達
≒ 全国規模のセキュリティポリシー更新幕府から沿岸の諸藩に対して命令が下り、各藩は海岸警備を強化した。オランダ・中国船は例外として認められたが、それ以外は全て打払い対象とされた。
モリソン号への砲撃(1837年)
≒ ポリシーの機械的適用が招いた外交問題漂流民を送り届けに来た善意の米国商船モリソン号を砲撃し、追い払った。後にこの事実が知られると、蘭学者たちから強い批判が起きた。
1808フェートン号事件英軍艦が長崎港に侵入。幕府の鎖国体制の脆さを露呈させた。
1824大津浜・宝島事件英国捕鯨船員が水戸藩・薩摩藩の海岸に上陸。直接の打払令発令の契機となる。
1825異国船打払令幕府が無二念打払令を発令。外国船を理由不問で砲撃・撃退せよと命じる。
1837モリソン号事件漂流民を届けに来た米国商船モリソン号を打払令に従い砲撃・追い払う。
1839蛮社の獄モリソン号砲撃を批判した渡辺崋山・高野長英らを幕府が弾圧・投獄。
1842薪水給与令アヘン戦争での清の敗北を受け、幕府が方針転換。外国船に薪水・食料を与えて帰国させる穏健策へ。打払令は実質緩和。
1853ペリー来航米国のペリーが軍艦4隻で浦賀に来航。黒船来航により鎖国体制がいよいよ崩壊へ向かう。
△モリソン号への砲撃が知れ渡ると、蘭学者・知識人層から強い批判が起きた。幕府は蛮社の獄(1839年)で批判者を弾圧したが、国内の知識人と幕府の溝を深める結果となった。
△アヘン戦争の衝撃を受けて1842年に薪水給与令で方針転換。「問答無用で撃て」という強硬策は17年で転換を余儀なくされ、ペリー来航(1853年)へと続く幕末開国の流れを加速させた。
徳川家斉
11代将軍在職期間1787〜1837年。異国船打払令発令時の将軍。大御所として1841年まで実権を持ち続けた。
渡辺崋山
蘭学者・三河田原藩家老「慎機論」でモリソン号砲撃と幕府の対外政策を批判。蛮社の獄で蟄居処分となり、翌年自刃。
高野長英
蘭学者・医師「戊戌夢物語」でモリソン号事件を批判。蛮社の獄で入獄後脱獄、後に自刃。
水野忠邦
老中(天保の改革を主導)アヘン戦争の衝撃を受け、1842年に薪水給与令を発令して打払令を緩和した。
- 無二念打払令
- 「無二念(一切迷わず)」打ち払えという意味で、1825年の異国船打払令の別称。交渉・確認の余地を与えない即時撃退を命じた。
- フェートン号事件
- 1808年、英軍艦がオランダ船に偽装して長崎港に侵入し、オランダ商館員を人質に食料を強要した事件。幕府に大きな衝撃を与えた。
- モリソン号事件
- 1837年、日本人漂流民を送り届けようとした米国商船モリソン号が、打払令に従い砲撃されて退去させられた事件。
- 蛮社の獄
- 1839年、モリソン号事件や幕府の対外政策を批判した蘭学者・渡辺崋山や高野長英らを幕府が弾圧した事件。「蛮社」は蘭学者グループ「尚歯会」の蔑称。
- 薪水給与令
- 1842年に幕府が出した令。異国船打払令を緩和し、遭難船や燃料・食料を求める外国船に薪水・食料を与えて帰国させる穏健策に転換した。
1「無二念」とはどういう意味か
「無二念(むにねん)」とは、仏教語で「一切の迷いなく、ただひたすらに」という意味。つまり「迷わず撃て」という命令だった。幕府がいかに強い意思でこの令を出したかが、言葉の選び方からもわかる。
2オランダ・中国船だけは例外だった
打払令は文字通り「全ての外国船」が対象のように聞こえるが、実際は長崎での交流を公認していたオランダ・中国の船は例外とされた。ただし、それ以外の船は一切例外なく撃退の対象だった。
3モリソン号は「善意の船」だった
1837年に砲撃されたモリソン号は、アメリカのマカオを拠点とする商社が派遣した船で、難破した日本人漂流民7名を日本に送り届けようとした善意の航海だった。それでも幕府は打払令に従い問答無用で砲撃した。
4渡辺崋山は画家でもあった
蛮社の獄で弾圧された渡辺崋山は、日本史上重要な蘭学者であるだけでなく、写実的な肖像画や風景画で知られる優れた洋風画家でもあった。蟄居処分中に自刃しており、その死は幕府の言論弾圧の象徴として語り継がれている。

ここが出る博士のワンポイント
1825年発令。別名・無二念打払令。「問答無用で外国船を撃退せよ」という強硬令。
背景:1808年フェートン号事件、1824年大津浜・宝島への英国船員上陸。
1837年モリソン号事件→1839年蛮社の獄(渡辺崋山・高野長英の弾圧)の流れを押さえること。
1840〜42年アヘン戦争での清の敗北を受け、1842年に薪水給与令で打払令を緩和(方針転換)。
語呂合わせ:「い(1)や(8)に(2)こ(5)」→1825。「嫌(いや)=18、に(2)、来(こ)=5」。
語呂クイズ
「嫌に来る異国船、打ち払え」= 異国船打払令は西暦何年?
- Q. 異国船打払令とは何ですか?
- A. 1825年(文政8年)に江戸幕府が発令した命令で、日本沿岸に接近する外国船を理由を問わず砲撃して撃退せよというものです。「無二念打払令」とも呼ばれます。
- Q. なぜ異国船打払令は出されたのですか?
- A. 18世紀末から外国船の接近・上陸が相次いだためです。特に1808年のフェートン号事件と1824年の英国捕鯨船員による大津浜・宝島への上陸が直接の引き金となりました。
- Q. モリソン号事件とはどういう事件ですか?
- A. 1837年、日本人漂流民を送り届けようとしたアメリカの商船モリソン号が、打払令に従い幕府に砲撃されて退去させられた事件です。善意の船を砲撃したことで蘭学者から批判が起きました。
- Q. 蛮社の獄とは何ですか?
- A. 1839年、モリソン号事件や幕府の対外政策を批判した蘭学者・渡辺崋山や高野長英らを幕府が弾圧した事件です。言論弾圧として知られています。
- Q. 異国船打払令はいつ廃止(緩和)されましたか?
- A. アヘン戦争(1840〜42年)で清がイギリスに敗れた衝撃を受け、幕府は1842年に薪水給与令を発令して打払令を実質的に緩和しました。
異国船打払令は、鎖国体制を守ろうとした幕府の「強硬な意思」の表れでした。しかし、善意の外国船すら砲撃したモリソン号事件が知れ渡ると知識人層の批判を招き、幕府は蛮社の獄で弾圧で応えます。さらにアヘン戦争で清が敗れたという衝撃が幕府を方針転換へ追い込み、1842年に薪水給与令で打払令は緩和されました。「問答無用で撃て」という17年間の強硬策の失敗は、やがてペリー来航(1853年)による開国へとつながる幕末動乱の伏線となりました。語呂「い(1)や(8)に(2)こ(5)」で1825年とともに、打払令から薪水給与令・ペリー来航へ至る流れを押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
オランダ・中国船は打払令の例外。ただし他国船は全て打払い対象。
モリソン号事件(1837)・蛮社の獄(1839)・薪水給与令(1842)はセットで出題されやすい流れ。
goro_reading の「い(1)や(8)に(2)こ(5)」は「嫌(いや)=18、に(2)、来(こ)=5」の分解で1825に対応。