
水野忠邦
みずの・ただくに 1794–1851 / 江戸・政治家
天保の改革を行った老中基本データ
- よみ
- みずの・ただくに
- 生没年
- 1794–1851
- 別名
- 水野越前守
- 出身
- 肥前唐津藩主から浜松藩主(譜代大名)
- おもな地位・官職
- 江戸幕府老中首座
- 改革
- 天保の改革を主導
- 立場
- 譜代大名
どんな人?
水野忠邦(みずの・ただくに)は、天保の改革を主導した江戸幕府の老中です。浜松藩主から老中首座へと昇り、1837年の大塩平八郎の乱などの社会不安を背景に、1841年から幕政の立て直しに乗り出しました。
対外面では、1825年の異国船打払令に対し、アヘン戦争の衝撃を受けて1842年に薪水給与令を出し、打払いを緩和しています。しかし改革は強引な手法で大名・旗本双方の反発を買い、1843年に失脚しました。
おもな業績・つくったもの
- 天保の改革を主導(1841年)老中として天保の改革に着手。倹約令や物価対策で幕政の立て直しを図ったが、庶民の反発を招いた。
- 株仲間の解散を命じる物価高騰の原因とみて商人組合の株仲間を解散させたが、かえって流通が乱れ物価は下がらず逆効果だった。
- 人返しの令で農民を農村へ帰す都市に流入した農民を強制的に農村へ帰らせた命令。農業労働力の確保が目的だったが効果は限定的だった。
生涯のあゆみ(年表)
- 1794生まれる
- 1834老中に就任する
- 1841老中首座として天保の改革を始める解説を見る →
- 1842薪水給与令を出し異国船打払令を緩和する
- 1843上知令への反発で老中を罷免され失脚する
- 1851死去(享年58)
ゆかりの地
浜松城静岡県忠邦が藩主を務めた浜松藩の城
豆知識
株仲間解散が裏目に
天保の改革で忠邦は物価高の元凶と見て株仲間を解散させたが、流通網が崩れて粗悪品が出回り、物価はかえって上昇する逆効果を招いた。
上知令で失脚
財政再建のため江戸・大坂周辺の土地を幕府に収用する上知令を出したが、対象の大名・旗本が猛反発し、幕府内部から改革はつぶれ忠邦は失脚した。
唐津から浜松へ転封を願った
忠邦は幕府の要職を望み、豊かな唐津藩から石高の下がる浜松藩への転封を自ら願い出たと伝わる。老中への出世を目指した強い上昇志向を示す逸話とされる。
人物相関
水野忠邦
仕えた将軍徳川家慶先行する改革者松平定信
よくある質問
水野忠邦は何をした人?
江戸幕府の老中首座として天保の改革を主導した人物です。1841年から株仲間の解散や人返しの令などで幕政の立て直しを図りましたが、強引な手法で反発を招き、上知令をきっかけに1843年に失脚しました。
天保の改革とはどんな改革?
1841年から水野忠邦が進めた幕政改革です。倹約の奨励、風俗の取り締まり、株仲間の解散、人返しの令などを行いましたが、多くが失敗や反発を招き、わずか2年ほどで挫折しました。