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天保の改革(水野忠邦)の浮世絵イラスト
江戸の三大改革 ③中学/政治
1841

天保の改革(水野忠邦)

水野忠邦(老中首座)
語呂
覚え方
嫌よ良い改革、天保の改革
嫌(い=1・や=8)よ(4)い(1)

1841年(天保12年)、老中首座・水野忠邦が断行したのが天保の改革です。1833〜39年の天保の飢饉と1837年の大塩の乱で幕府の威信が揺らぐなか、水野は倹約令・株仲間解散・人返しの令・上知令など矢継ぎ早に手を打ちました。しかし核心の上知令が大名・旗本・大商人の反発を買い、1843年にわずか2年余りで改革は頓挫。水野は老中を罷免されました。享保・寛政とならぶ「江戸の三大改革」の最後を飾りながら、最も短命に終わった改革です。

この記事のポイント

  • 1841年、老中首座・水野忠邦が天保の改革を開始
  • 倹約令・風俗取締りで江戸の庶民生活を厳しく規制
  • 株仲間解散で物価引き下げを狙ったが、かえって流通が混乱
  • 人返しの令で農村離れを防ぎ、労働力の農村回帰をはかった
  • 上知令(江戸・大坂周辺を幕府直轄地化)が猛反発を招き1843年に失脚
ここが面白い

上知令が諸大名・旗本の猛反発を招き、わずか2年余りで水野は失脚。三大改革で最も短命に終わった。

ここに至るまでの流れ
背景

天保の改革は突然始まったわけではありません。その前の数十年間に積み重なった財政問題・飢饉・社会不安が、水野忠邦を強硬な改革へと駆り立てました。流れを追ってみましょう。

寛政の改革の後遺症

1787年に松平定信が行った寛政の改革は倹約・思想統制で一定の成果を上げましたが、厳しすぎる規制が庶民の反発を招き、定信自身も1793年に失脚しました。その後も幕府の財政難は解決されないまま積み残されていきます。

天保の飢饉(1833〜39年)

1833年から断続的に続いた大凶作が「天保の飢饉」です。東北を中心に全国各地で深刻な被害が出て、農村が疲弊しました。江戸などの都市では物価が高騰し、打ちこわしが頻発しました。

大塩の乱(1837年)

1837年、大坂町奉行所の元与力・大塩平八郎が、貧民救済に動かない奉行所に憤って武装蜂起しました(大塩の乱)。反乱は半日で鎮圧されましたが、幕府の直轄都市で元役人が反乱を起こしたという衝撃は大きく、諸藩でも同調の動きが出るなど幕府の権威を大きく傷つけました。

水野忠邦の登場

こうした危機のなか、1839年から老中首座となった水野忠邦は、強硬な幕政立て直しを決意します。財政再建・物価安定・農村復興・幕府権力の強化という複数の目標を一気に解決しようとしたのが天保の改革です。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

倹約令・風俗取締り

≒ 緊縮財政+生活規制

贅沢品の製造・販売・購入を禁じ、歌舞伎・寄席・出版物も厳しく規制。庶民の反発を招いた。

株仲間の解散

≒ カルテル解体による物価引き下げ

幕府公認の商人組合(株仲間)が物価を高騰させていると判断し、1841年に解散命令。しかし流通ネットワークが崩れて物価はさらに混乱し、逆効果となった。

人返しの令

≒ 農村への帰農促進策

都市に流入した農民を強制的に農村へ帰らせる命令。農業労働力の確保と都市の過密解消が目的だが、徹底するのが難しく効果は限定的だった。

上知令(失敗)

≒ 江戸・大坂周辺の幕府直轄化

江戸・大坂周辺10里四方を幕府直轄地にして財政強化を図る計画。しかし対象地域の大名・旗本が激しく反発し、老中仲間も同調せず撤回に追い込まれた。これを機に水野は失脚(1843年)。

前後のできごと
年表
1833
飢饉始まる天保の飢饉が始まる。翌年以降も凶作が続き全国に被害が拡大。
1837
大塩の乱大坂で大塩平八郎が武装蜂起。半日で鎮圧されるも幕府の威信が傷つく。
1841
改革開始水野忠邦が老中首座として天保の改革を本格化。倹約令・株仲間解散を断行。
1842
人返しの令農民の帰農を促す人返しの令を発布。
1843
上知令と失脚上知令を発布するも大名・旗本の猛反発を招き撤回。水野忠邦は老中を罷免され改革は終了。
1853
黒船来航ペリーが浦賀に来航。改革が失敗に終わった幕府はさらなる危機に直面することになる。
結果とその後
結果
上知令が撤回され水野が失脚。改革は2年余りで頓挫し、幕府の権威はさらに低下した。
株仲間解散は物価安定を狙ったが逆効果となり、後の老中・阿部正弘によって1851年に株仲間は再興された。
三大改革のなかで最も短命。10年後のペリー来航(1853年)を前に、幕府の統治力の限界を内外に示す結果となった。
登場人物
人物

水野忠邦

老中首座

浜松藩主から老中へ。強引な改革推進で大名・旗本双方の反発を買い、上知令撤回後に失脚した。

大塩平八郎

元大坂町奉行所与力

天保の飢饉で苦しむ民を救おうと1837年に蜂起。反乱は鎮圧されたが、その衝撃が水野の改革を促す一因となった。

遠山景元(遠山の金さん)

北町奉行・南町奉行

天保の改革期に奉行を務めた。水野の厳しい風俗取締りと対立したとも伝わるが、詳細は諸説ある。

徳川家慶

12代将軍

天保の改革期の将軍。水野に改革を委ねていたが、上知令撤回後に水野の罷免を認めた。

キーワード解説
用語
株仲間
幕府や藩が公認した商工業者の同業組合。独占販売権を持つ代わりに冥加金(税)を納めた。天保の改革で解散、1851年に再興。
人返しの令
江戸など都市部に流入した農民を農村へ帰らせる命令。農業労働力の確保と農村の再建が目的。
上知令
江戸・大坂周辺10里四方の土地を幕府直轄地(天領)に没収しようとした命令。大名・旗本の猛反発で撤回された。
三大改革
江戸幕府が行った3度の大規模な幕政改革の総称。享保の改革(1716年・吉宗)、寛政の改革(1787年・松平定信)、天保の改革(1841年・水野忠邦)を指す。
もっと知りたい
豆知識

1歌舞伎の名門・中村座が廃絶の危機に

水野は芝居小屋を江戸郊外の浅草へ強制移転させた。江戸三座(中村座・市村座・森田座)は観客が激減して経営難に陥り、中村座はこの移転が遠因で廃絶した。

2「ビーフステーキを食べた男」水野忠邦

水野は西洋の食文化にも関心があったとされ、オランダ医師から牛肉料理を振る舞われた記録が残るとも言われる。倹約を強いた改革者が当時としては珍しい食経験をしていた可能性がある(諸説あり)。

3株仲間解散は「想定外の逆効果」だった

物価高騰の原因を株仲間の独占と見た水野は解散を命じたが、実際には株仲間が品質管理・流通ネットワークを担っていた。解散後は粗悪品が出回り流通が混乱、物価は下がるどころか上昇した。

4「上知令」は幕府の懐事情がすけて見えた

上知令の本音は財政立て直しのための土地収用だと多くの大名・旗本に見抜かれた。「自分の領地を取り上げられる」と猛反発した対象大名・旗本が老中仲間にも働きかけ、幕府内部から改革がつぶれた。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
天保の改革は1841年開始、推進者は老中首座・水野忠邦。語呂は「嫌よ良い(1841)改革」。
四大施策: 倹約令・株仲間解散・人返しの令・上知令(上知令は失敗して撤回)。
上知令の失敗で1843年に水野が失脚し改革終了。三大改革で最も短命。
背景には天保の飢饉(1833〜39年)と大塩の乱(1837年)がある。
享保の改革(1716年・吉宗)→寛政の改革(1787年・松平定信)→天保の改革(1841年・水野)の順が「三大改革」。
語呂クイズ
「嫌よ良い改革、天保の改革」= 天保の改革(水野忠邦)は西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 天保の改革はいつ始まりましたか?
A. 1841年(天保12年)に老中首座・水野忠邦が本格化させました。
Q. なぜ天保の改革は失敗したのですか?
A. 上知令(江戸・大坂周辺の幕府直轄地化)が大名・旗本の猛反発を招き、撤回に追い込まれた。また株仲間解散も物価安定という目的を達成できず逆効果となりました。
Q. 株仲間を解散した理由は何ですか?
A. 株仲間が商品を独占して物価を高騰させていると幕府が判断したためです。しかし流通ネットワークが崩れて物価はかえって混乱しました。
Q. 人返しの令とは何ですか?
A. 都市に出稼ぎや流入してきた農民を農村に帰らせる命令です。農業労働力の確保と農村復興が目的でした。
Q. 天保の改革と享保・寛政の改革の違いは?
A. 享保の改革(吉宗)は財政再建に一定の成果。寛政の改革(松平定信)は引き締め政策。天保の改革(水野忠邦)は上知令の失敗で最も短命に終わり、成果が最も乏しかったと評価されます。
まとめ

天保の改革は「失敗した改革」として歴史に刻まれています。倹約令・株仲間解散・人返しの令・上知令と手を打ちましたが、核心の上知令が大名・旗本の猛反発で撤回され、水野忠邦は1843年に失脚しました。三大改革のなかで最も短命に終わり、かえって幕府の統治力の限界を露呈する結果となりました。10年後のペリー来航(1853年)が迫るなか、この失敗が幕末動乱の一つの伏線になったと言えます。「嫌よ良い(1841)改革」と覚えながら、三大改革の最後を飾るこの出来事を押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
天保の改革の開始年は1841年(天保12年)が通説。水野が老中首座に就いたのは1834年だが、改革の本格化は1841年とするのが一般的。
遠山景元(遠山の金さん)と水野の対立については、江戸時代後期の記録や講談・伝承に基づく部分が多く、詳細は諸説ある。
上知令の対象範囲(10里四方)は史料により記述が異なる場合があり、詳細は研究者間でも議論がある。