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大政奉還・王政復古の浮世絵イラスト
幕末の動乱 ③中学/政治
1867

大政奉還・王政復古

徳川慶喜(15代将軍)、岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛
語呂
覚え方
嫌でむな(1867)しい大政奉還
いや(18)でむな(67)しい大政奉還

1867年(慶応3年)10月、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜は政権を朝廷に返上する「大政奉還」を断行しました。約260年続いた武家政権の終わりを自ら宣言したのです。しかし同年12月、薩摩・長州と手を組んだ公家の岩倉具視らが「王政復古の大号令」を発し、幕府や摂政・関白の廃止と天皇中心の新政府樹立を宣言します。慶喜が大政奉還で倒幕の名分を奪う狙いは外れ、旧幕府側は翌1868年の戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)へと追い込まれていきました。

この記事のポイント

  • 1867年10月、15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返す「大政奉還」を行った
  • 同年12月、岩倉具視らが「王政復古の大号令」を発し、幕府・摂政・関白を廃止して新政府樹立を宣言
  • 慶喜は主導権を保とうとしたが、王政復古で「辞官納地」を求められ排除された
  • 薩長同盟(1866年)を背景に倒幕の動きが加速し、大政奉還で倒幕の口実は消えたが武力討幕路線は止まらなかった
  • 翌1868年の鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)を経て、江戸幕府は完全に崩壊した
ここが面白い

大政奉還で幕府を解散したはずの慶喜。しかし2か月後には自分も新政府から追い出された。

ここに至るまでの流れ
背景

大政奉還は突然の決断ではありませんでした。開国後の15年間、幕府の権威は少しずつ崩れ、倒幕派の力が着実に増していました。その流れを順に見てみましょう。

開国と幕府権威の動揺

1853年のペリー来航以降、幕府は開国・攘夷をめぐって朝廷や諸大名と対立を深めました。1858年、大老・井伊直弼が朝廷の許可なしに日米修好通商条約を調印すると、「天皇を無視した」として反発が爆発。1860年の桜田門外の変で井伊が暗殺され、幕府の政治的求心力は急速に低下しました。

尊王攘夷運動と薩長の転換

「天皇を尊び外国を追い払え」という尊王攘夷運動が各地で盛んになりました。しかし薩摩・長州は西洋の軍事力を直接体験し(薩英戦争・下関戦争)、攘夷の不可能を悟ります。方向を「倒幕・新政府樹立」へと転換し、1866年には坂本龍馬らの仲介で薩長同盟を締結。倒幕の共闘体制が整いました。

坂本龍馬の「船中八策」

1867年、坂本龍馬が土佐藩重臣・後藤象二郎に示したとされる政治構想「船中八策」は、大政奉還・議会の設置・旧幕府側を含む諸侯会議などを提唱したものでした。これが慶喜の大政奉還の方針に影響を与えたとされていますが、直接の関係については諸説あります。

大政奉還と王政復古

1867年10月14日(旧暦)、慶喜は二条城で大政奉還の上表を提出。翌日、朝廷はこれを受理しました。慶喜は武力衝突を避けつつ、新政府内での主導権を狙っていたとみられます。しかし同年12月9日(旧暦)、岩倉具視・薩摩・長州が主導する「王政復古の大号令」が発せられ、幕府・摂政・関白が廃止され、天皇親政の新政府が宣言されました。同夜の「小御所会議」では慶喜に辞官納地(官職返上と領地返還)が求められ、慶喜は排除されました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

大政奉還の上表(1867年10月)

≒ CEOが辞表を出したが、後継人事を自分で握ろうとした

慶喜が「政権を朝廷にお返しします」と上表。倒幕の名分を消す一手だったが、薩長は武力討幕の方針を変えなかった。

王政復古の大号令(1867年12月)

≒ 「あなたは解任です」という取締役会の決議

岩倉具視ら公家と薩長が主導。幕府・摂政・関白の廃止と天皇親政の新政府樹立を宣言。同夜の小御所会議で慶喜に辞官納地を要求した。

旧幕府側の抵抗と戊辰戦争へ

≒ クーデターに納得しない旧経営陣が法廷闘争ならぬ武力衝突に

辞官納地に反発する旧幕府側は軍を京都に向かわせ、翌1868年1月の鳥羽・伏見の戦いへ。戊辰戦争の幕が開いた。

前後のできごと
年表
1853
黒船来航ペリーが浦賀に来航。幕府の権威動揺が始まる。
1858
不平等条約日米修好通商条約を無勅許で調印。尊王攘夷運動が激化。
1860
桜田門外の変大老・井伊直弼が暗殺される。幕府の求心力が急落。
1866
薩長同盟坂本龍馬らの仲介で薩摩・長州が倒幕の共闘体制を結ぶ。
1867
大政奉還・王政復古10月に大政奉還、12月に王政復古の大号令。約260年の江戸幕府体制が終わる。
1868
戊辰戦争・明治維新鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争勃発。五箇条の御誓文発布・明治改元へ。
1869
戊辰戦争終結箱館戦争終結。新政府の全国支配が確立する。
結果とその後
結果
約260年続いた江戸幕府・武家政権が平和的な手続き(大政奉還)によって終わりを告げ、天皇中心の近代国家建設への道が開かれた。
大政奉還は幕府の終わりを意味したが、明治維新の完成ではない。翌1868年の戊辰戦争と、その後の廃藩置県・地租改正・徴兵令を経て、近代国家の基盤が整った。大政奉還=明治維新という混同に注意。
登場人物
人物

徳川慶喜

江戸幕府15代(最後の)将軍

一橋家出身の英才で、みずから大政奉還を断行。王政復古後は大阪城に退いたが、鳥羽・伏見の敗戦後に江戸へ退去し、江戸城を新政府に明け渡した。

岩倉具視

公家・倒幕派の中心人物

王政復古の大号令を主導し、小御所会議で慶喜への辞官納地を強硬に主張した。維新後は新政府の右大臣として活躍。

西郷隆盛

薩摩藩・倒幕派の指導者

薩長同盟締結から倒幕運動を牽引。王政復古後の戊辰戦争でも官軍を指揮した。

大久保利通

薩摩藩・倒幕派の戦略家

岩倉具視と連携して王政復古を計画・実行した。維新後の新政府で最も影響力を持つ政治家となる。

坂本龍馬

土佐藩脱藩・薩長同盟の仲介者

「船中八策」で大政奉還・議会政治を構想したとされる。1867年11月に京都で暗殺された(大政奉還から約1か月後)。

キーワード解説
用語
大政奉還
「大政」とは天下の政権のこと。将軍・慶喜が政権(大政)を朝廷に返上(奉還)したことを指す。1867年10月に行われた。
王政復古の大号令
1867年12月、岩倉具視・薩長が主導した宣言。幕府・摂政・関白を廃止し、天皇親政の新政府(総裁・議定・参与の三職制)の樹立を宣言した。
辞官納地
王政復古後の小御所会議で慶喜に求められた条件。「内大臣の官職を返上し、幕府の領地を朝廷に返還せよ」という要求で、徳川家の実権剥奪を意味した。
小御所会議
王政復古の大号令が発せられた夜(1867年12月9日旧暦)に御所内の小御所で開かれた会議。慶喜への辞官納地が決定された。
薩長同盟
1866年、薩摩・長州の両藩が坂本龍馬らの仲介で結んだ倒幕のための政治・軍事同盟。大政奉還に向かう政局の土台となった。
もっと知りたい
豆知識

1慶喜は「大政奉還」を自ら建白書に書かせた

土佐藩の山内容堂(前藩主)が建白書(意見書)で大政奉還を幕府に提案し、慶喜がこれを受け入れて上表したとされる。しかし慶喜はすでに自ら大政奉還を構想していたともいわれ、土佐の提案を「好機」として利用したという見方も強い。

2暗殺された坂本龍馬は大政奉還を見届けられなかった

大政奉還の上表が受理されたのは1867年10月。坂本龍馬が京都の近江屋で暗殺されたのはその翌月の11月。龍馬は大政奉還の実現を見届けたが、王政復古の大号令(12月)の前に命を落とした。犯人・黒幕については現在も諸説ある。

3「大政奉還」≠「幕府の即時消滅」

大政奉還によって政権は朝廷に返されたが、この時点では幕府の組織も慶喜の将軍職も即座に廃止されたわけではなかった。将軍職の廃止・幕府機構の解体は、12月の王政復古の大号令と翌年の戊辰戦争を経て初めて確定した。

4二条城の「二の丸御殿」で大政奉還を発表

慶喜が大名たちを集めて大政奉還の意思を伝えたのは京都の二条城・二の丸御殿(大広間)。現在も世界遺産として残る建物で、入場すれば当時の空間を体感できる。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
大政奉還は1867年10月。語呂「いや(18)でむな(67)しい大政奉還」で年号を押さえる。
大政奉還(10月)と王政復古の大号令(12月)はどちらも1867年。セットで覚える。
大政奉還は「政権を返した」だけ。明治維新の完成(戊辰戦争終結・廃藩置県など)とは異なる。
王政復古の大号令は岩倉具視・薩長主導。小御所会議で慶喜に辞官納地が求められた。
翌1868年の鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争が始まり、江戸幕府は完全に崩壊した。
語呂クイズ
「嫌でむな(1867)しい大政奉還」= 大政奉還・王政復古は西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 大政奉還と明治維新の違いは何ですか?
A. 大政奉還(1867年10月)は将軍・慶喜が政権を朝廷に返上した出来事です。明治維新は1853年前後から1870年代の廃藩置県・地租改正・徴兵令にいたる一連の大変革の総称で、大政奉還はその重要な一場面にすぎません。
Q. 王政復古の大号令とは何ですか?
A. 1867年12月、岩倉具視ら公家と薩摩・長州が主導して発した宣言です。幕府・摂政・関白を廃し、天皇親政の新政府樹立を宣言しました。
Q. なぜ徳川慶喜は大政奉還をしたのですか?
A. 薩長による武力倒幕が現実味を帯びてきたため、みずから政権を返上することで「倒幕の名分」を消し去り、有力諸侯の一人として新政府内での主導権を確保しようとしたと考えられています。ただしその真意については諸説あります。
Q. 坂本龍馬と大政奉還はどんな関係ですか?
A. 坂本龍馬は「船中八策」で大政奉還・議会設置などを構想し、その実現に向けて活動しました。大政奉還への影響については諸説ありますが、龍馬は大政奉還の実現(10月)を見届けた直後の11月に暗殺されました。
Q. 大政奉還の後、江戸幕府はどうなりましたか?
A. 12月の王政復古の大号令で幕府の廃止が宣言され、翌1868年1月の鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争の始まり)で旧幕府軍は新政府軍に敗北。江戸城は無血開城され、江戸幕府は完全に崩壊しました。
まとめ

大政奉還は、約260年続いた江戸幕府が自ら幕を閉じた歴史的な瞬間です。しかし「大政奉還=明治維新の完成」ではありません。12月の王政復古の大号令、翌1868年の戊辰戦争、そして廃藩置県・地租改正・徴兵令を経て、はじめて近代国家の基盤が整いました。語呂「いや(18)でむな(67)しい大政奉還」で1867年を押さえつつ、大政奉還(10月)→王政復古(12月)→戊辰戦争(1868年〜)という流れを一本の線としてつかんでおきましょう。

編集メモ(ファクト)
坂本龍馬の「船中八策」と大政奉還の直接の関連は諸説あるため、断定せずに「とされている」「諸説あります」と表現した。
慶喜が大政奉還を選んだ理由(真意)も諸説あるため、「と考えられています」「諸説あります」の表現にとどめた。
大政奉還と王政復古はいずれも1867年だが、旧暦の月日を使用している史料が多いため、本文では「10月」「12月」と記載(旧暦基準)。
桜田門外の変(1860)は events.json に実在するが pages ファイル未作成のため、related には id のみ記載した。