幕末の開国 ③高校/政治
1860
桜田門外の変(井伊直弼暗殺)
井伊直弼(彦根藩主・江戸幕府大老)
語呂
覚え方
嫌でむれて 桜田門外
嫌(1・8)む(6)れ(0)て
1860年(万延元年)3月3日、桜田門外の変が起きました。江戸幕府の最高実力者・大老井伊直弼が、江戸城桜田門の目の前で水戸藩脱藩浪士ら18名(水戸17名・薩摩1名)に暗殺された事件です。井伊は前年(1858〜59年)の安政の大獄で反対派を弾圧したため、浪士たちの恨みを買っていました。この事件で幕府の権威は大きく失墜し、公武合体・尊王攘夷の動きが加速。やがて明治維新へとつながる幕末の激動を決定づけた一撃となりました。
この記事のポイント
- 1860年3月3日、江戸城桜田門外で大老・井伊直弼が水戸浪士らに暗殺された
- 直接の動機は1858〜59年の安政の大獄による反幕府派への厳しい弾圧への報復
- 背景には1858年の日米修好通商条約の無勅許調印(朝廷の許可を得ない強行)への反発があった
- 幕府の最高実力者が白昼に殺されたことで、幕府の権威が決定的に失墜した
- 以降、尊王攘夷運動が激化し、公武合体の動きも生まれ、明治維新の伏線となった
ここが面白い暗殺された場所は江戸城の目の前。水戸浪士17名が決行した「白昼の政変」は、幕府権威を根底から揺るがした。
桜田門外の変は突然起きた事件ではありません。1853年のペリー来航から続く開国をめぐる対立と、井伊直弼の強硬な政策が積み重なった末に起きた出来事です。
開国と無勅許調印
1853年のペリー来航後、日本は欧米列強の開国圧力にさらされました。1858年、アメリカ総領事ハリスの強い要求を受け、大老・井伊直弼は朝廷の許可(勅許)を得ないまま日米修好通商条約に調印します(いわゆる無勅許調印)。この条約は関税自主権がなく治外法権を認めた不平等条約であり、さらにオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約が結ばれました(安政の五カ国条約)。「天皇の許可なく外国と約束した」という事実は、天皇を尊ぶ尊王攘夷派の激しい反発を招きました。
安政の大獄(1858〜59年)
井伊は反対派を一掃するため、1858年から59年にかけて安政の大獄を断行します。一橋慶喜を将軍候補として推した大名・公家・志士ら約100名が処罰され、吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎らが処刑されました。水戸藩は特に厳しく処分されており、藩内の尊王攘夷派は「井伊を討たなければ国が滅ぶ」と決意を固めていきます。
水戸藩と「斉昭の怒り」
水戸藩主・徳川斉昭は尊王攘夷の中心人物であり、無勅許調印に激しく抗議しました。しかし安政の大獄で謹慎処分を受け、水戸藩は井伊政権から特に厳しく扱われます。藩内の過激な攘夷派は、藩に加えられた弾圧への憤りと天下の形勢を変えたいという思いから、井伊直弼を暗殺することを決意しました。なお斉昭自身は変の後の1860年8月(旧暦。新暦では9月)に急死しています。
雪の決行日
1860年3月3日は桃の節句(雛祭り)であり、彦根藩の登城行列は儀礼的な日程として事前に把握されていました。当日は雪が降っており、護衛の藩士は合羽(雨具)で刀に手が届きにくい状態でした。水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士1名は桜田門外で行列を急襲し、井伊直弼を討ち取りました。
行列への急襲
≒ 要人暗殺テロ水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士1名が、登城中の井伊の行列を桜田門外で急襲。護衛の彦根藩士は不意を突かれ応戦するも多くが即死・重傷を負った。
首級を奪う
≒ 象徴的な示威行動井伊直弼は駕籠の中で銃撃されたのち斬られ、首を奪われた。白昼に幕府最高実力者の首が奪われるという衝撃的な結末で、天下に大きな衝撃を与えた。
幕府の権威失墜
≒ 政府トップが護衛の目の前で暗殺される最高権力者が江戸城の門前で殺されたことは、幕府の支配力の限界を天下に示した。以降、幕府は強硬策を取れなくなり、政治的主導権を失っていく。
1853ペリー来航アメリカ海軍ペリーが浦賀に来航。開国を要求し、翌1854年に日米和親条約を締結。
1858修好通商条約大老・井伊直弼が朝廷の勅許を得ずに日米修好通商条約に調印。安政の大獄開始。
1859大獄の頂点安政の大獄で吉田松陰・橋本左内らが処刑される。水戸藩への処罰も厳しく、藩内の怒りが頂点に達する。
1860桜田門外の変1860年3月3日、水戸脱藩浪士らが桜田門外で井伊直弼を暗殺。幕府権威が失墜する。
1866薩長同盟桜田門外の変後の政治的混乱を経て、薩摩・長州が倒幕に向けて同盟を結ぶ。
1867大政奉還15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上。江戸幕府が事実上の終焉を迎える。
△大老・井伊直弼が暗殺され、幕府の最高実力者を失った。以後、幕府は強力な政治指導者を欠き、朝廷・諸藩に対する主導権を喪失していく。
△尊王攘夷運動が全国的に激化し、公武合体論も台頭。政治的対立が深まり、幕末の動乱が本格化した。桜田門外の変はその分水嶺となった事件といえる。
井伊直弼
江戸幕府大老・彦根藩主1858年に大老に就任。日米修好通商条約の無勅許調印と安政の大獄を断行した。1860年3月3日、桜田門外で暗殺された。享年46。
関鉄之介(せき てつのすけ)
水戸脱藩浪士・決行の中心人物変の首謀者の一人。事件後は逃亡したが後に捕縛・処刑された。
有村次左衛門(ありむら じざえもん)
薩摩藩士18人の襲撃者のうち唯一の薩摩藩士。変の際に井伊の首を取ったとされるが、自身も重傷を負い現場付近で自刃した。
徳川斉昭(とくがわ なりあき)
水戸藩主(前藩主)尊王攘夷の中心人物。安政の大獄で謹慎処分を受けた。その水戸藩への弾圧が浪士決起の精神的背景となった。斉昭自身は変の後の1860年8月(旧暦)に急死している。
橋本左内
福井藩士・安政の大獄の犠牲者一橋派を支持した俊才。安政の大獄で1859年に処刑された。享年26。桜田門外の変の間接的な動機の一つ。
吉田松陰
長州藩士・思想家安政の大獄で1859年に処刑。その門弟(伊藤博文ら)が後の明治維新の担い手となる。
- 大老(たいろう)
- 江戸幕府の最高職。老中の上に置かれた臨時職で、非常時のみ設置された。井伊直弼は1858年に就任した。
- 安政の大獄(あんせいのたいごく)
- 1858〜59年に井伊直弼が断行した弾圧。反対派の大名・公家・志士ら約100名を処罰し、吉田松陰・橋本左内らを処刑した。
- 無勅許調印(むちょっきょちょういん)
- 天皇の許可(勅許)を得ずに条約に調印すること。1858年の日米修好通商条約がこれにあたり、尊王攘夷派の激しい反発を招いた。
- 尊王攘夷(そんのうじょうい)
- 天皇を尊び外国勢力を打ち払うという思想・運動。桜田門外の変以降、全国的に激化した。
- 公武合体(こうぶがったい)
- 朝廷(公)と幕府(武)が協力して国政を担うべきとする考え方。桜田門外の変後に幕府が推進しようとした政策路線。
1雪が護衛の刀を封じた
当日は早春の雪が降っており、彦根藩の警護役は合羽(雨具)をまとっていた。合羽を着た状態では刀に素早く手が届かないため、護衛は十分な応戦ができなかったとされる。悪天候が暗殺の成功を後押しした皮肉な事情の一つとして語られる。
2桃の節句を選んだ理由
3月3日は桃の節句(雛祭り)。この日は儀礼的な行事日であり、井伊の登城スケジュールが事前に把握しやすかったという。祝日の油断と雪という二重の条件が重なり、浪士たちは決行日に選んだとされる。
3襲撃者のその後
18名の襲撃者のうち、現場で即死したのは数名。生き残った浪士の多くは逃亡したが、その後捕縛・処刑された。首謀者の関鉄之介も1862年に捕まり処刑されている。薩摩藩士・有村次左衛門は重傷を負い現場付近で自刃した。
4「暗殺」ではなく「天誅」の意識
浪士たちは自分たちの行為を「暗殺」とは考えておらず、天皇の意に背いた逆臣を天に代わって討つ「天誅(てんちゅう)」と位置づけていた。この思想は以後の幕末の政治テロにも影響を与えた。
5「大老の首」を持ち去った衝撃
井伊直弼の首は桜田門外の地に持ち去られた。幕府の最高実力者の首が奪われるという前代未聞の事態に、江戸の市中は騒然となった。この衝撃的な結末が「幕府はもう終わりだ」という空気を社会に広めたとされる。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1860年。語呂は「嫌でむれ(1860)て」が覚えやすい。
被害者は大老・井伊直弼(彦根藩主)。老中ではなく大老である点に注意。
直接の動機は安政の大獄(1858〜59年)への報復。根本の背景は日米修好通商条約の無勅許調印(1858年)。
主力は水戸脱藩浪士17名。薩摩藩士1名(有村次左衛門)も加わった計18名。
この事件以後、幕府の権威が失墜し、尊王攘夷運動が激化した点を押さえること。
語呂クイズ
「嫌でむれて 桜田門外」= 桜田門外の変(井伊直弼暗殺)は西暦何年?
- Q. 桜田門外の変はいつ起きましたか?
- A. 1860年(万延元年)3月3日です。江戸城桜田門の外で起きたため、この名称がついています。
- Q. なぜ井伊直弼は暗殺されたのですか?
- A. 主に二つの理由があります。一つは1858年の日米修好通商条約を朝廷の許可(勅許)なしに調印したこと。もう一つは、反対派を弾圧した安政の大獄(1858〜59年)への強い怒りです。特に水戸藩は厳しく処分されたため、藩内の過激派が暗殺を決行しました。
- Q. 安政の大獄とはどんな出来事ですか?
- A. 1858〜59年に井伊直弼が行った大規模な弾圧です。一橋慶喜を将軍候補に推した大名・公家・志士ら約100名を処罰し、吉田松陰・橋本左内らを処刑しました。
- Q. 桜田門外の変の後、幕府はどうなりましたか?
- A. 幕府の権威は大きく失墜しました。以後、尊王攘夷運動が全国に広がり、公武合体論も台頭。幕府は朝廷や諸藩への主導権を失っていき、1867年の大政奉還・1868年の明治維新へと向かいます。
- Q. 水戸浪士と薩摩藩士が一緒に行動したのはなぜですか?
- A. 両者は開国・安政の大獄への反発という点では同じ立場にありました。ただし両藩が組織的に連携していたわけではなく、薩摩藩士・有村次左衛門が個人の意志で参加したとされています。組織的な薩摩藩の関与については諸説あります。
桜田門外の変は、「大老が白昼に暗殺された」という衝撃的な事件にとどまりません。安政の大獄の弾圧と無勅許調印への怒りが爆発した「幕末の転換点」です。この事件を境に幕府の権威は地に落ち、尊王攘夷・公武合体をめぐる政治対立が激化。最終的には大政奉還・明治維新へとつながっていきます。「嫌でむれ(1860)て」の語呂で年号を押さえながら、安政の大獄と日米修好通商条約との連鎖をセットで理解しておきましょう。
編集メモ(ファクト)
薩摩藩の組織的関与については諸説あり、有村次左衛門の参加が藩命によるものか個人的決断かは史料によって解釈が分かれる。
安政の大獄で処分された人数については100名前後とする史料が多いが、処罰の軽重も含めた集計であり、死刑は8名とする説もある。
井伊の首の扱いや、首が奪われた経緯の詳細には異説もあるため断定を避けた表現にしている。