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日米和親条約(開国)の浮世絵イラスト
幕末の開国 ②中学/外交
1854

日米和親条約(開国)

ペリー(アメリカ東インド艦隊司令長官)・林復斎(幕府全権)
語呂
覚え方
嫌で来よ(1854)日米和親で開国
嫌(い=1・や=8)こ(5)よ(4)

1854年(嘉永7年/安政元年)、前年に来航したペリーが軍艦7隻を率いて再び日本に現れました。幕府は交渉の末、3月に日米和親条約(神奈川条約)を締結。下田と箱館(函館)の2港を開き、食料・薪水・石炭などの補給を認めました。これにより約200年続いた鎖国体制が終わり、日本は開国します。ただし自由貿易は認められておらず、本格的な通商は1858年の日米修好通商条約まで待つことになります。

この記事のポイント

  • 1854年3月、ペリー再来航により日米和親条約(神奈川条約)を締結
  • 下田(伊豆)と箱館(蝦夷地、現在の函館)の2港を開港
  • 食料・薪水・石炭などの補給と、漂流民の保護を約束した
  • 片務的最恵国待遇条項があり、日本側のみ不利な扱いを受けた
  • 自由貿易は認めておらず、約200年の鎖国終了の第一歩にとどまった
ここが面白い

「和親」とは友好という意味で、貿易は認めていない。開港したのに商売はできない、不思議な条約だった。

ここに至るまでの流れ
背景

日米和親条約は突然結ばれたわけではありません。前年のペリー来航から幕府が1年間で答えを出すよう求められており、その緊迫した交渉の末に生まれた条約です。日本が「なぜここまで追い詰められたか」を理解するには、鎖国体制の変質と、前年の黒船来航の衝撃を押さえる必要があります。

前年のペリー来航(1853年)

1853年、ペリーが浦賀沖に軍艦4隻で現れ、フィルモア大統領の国書を手渡しました。幕府は即答を避け、ペリーは「翌年に返事を聞きに来る」と告げて退去。幕府は1年間、対応策を迫られることになります。

幕府内の論争

幕府は前例を破り、朝廷や諸大名に意見を求めました。攘夷(外国を追い払え)論も根強くありましたが、西洋との軍事力差は明らかで、強硬策をとれる状況ではありませんでした。老中首座・阿部正弘は最終的に開港路線で折り合いをつけます。

ペリーは予定より早く戻ってきた

1854年2月、ペリーは「1年後」の約束より早く、今度は7隻の艦隊で再来航します。江戸湾(東京湾)の奥深くまで侵入し、改めて圧力をかけました。幕府との交渉は神奈川(現在の横浜)で行われ、3月31日に条約が調印されました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

下田・箱館の開港

≒ 寄港地の提供

下田(伊豆半島)と箱館(蝦夷地・現函館)の2港を開き、アメリカ船が入港できるようにした。江戸や大阪など主要都市から離れた場所が選ばれた。

薪水・食料・石炭の供給

≒ 補給インフラの整備

漂流民の送還、燃料(薪・石炭)と食料・水の提供を約束。貿易(物の売買)は認めておらず、あくまで補給のための条約だった。

片務的最恵国待遇

≒ 一方的な有利条件

日本がほかの国に与えた権利は自動的にアメリカにも認める、という条項。日本側だけが義務を負う片務的な内容で、不平等条約の原型となった。

前後のできごと
年表
1853
黒船来航ペリーが浦賀に初来航。国書を渡し、返答を求めて退去。
1854
条約締結ペリー再来航。日米和親条約(神奈川条約)を締結。下田・箱館を開港。
1856
総領事着任アメリカ総領事ハリスが下田に着任。通商条約を求め交渉を開始。
1858
修好通商条約大老・井伊直弼が日米修好通商条約を朝廷の許可なく調印(不平等条約)。自由貿易が始まる。
1860
桜田門外の変条約を推進した井伊直弼が水戸藩士らに暗殺される。
1867
大政奉還徳川慶喜が政権を朝廷に返上。江戸幕府が終わる。
結果とその後
結果
約200年続いた鎖国体制が終わり、日本は正式に開国。西洋との交流の第一歩が踏み出された。
片務的最恵国待遇などの不平等な条項は、1858年の日米修好通商条約でさらに拡大し、幕末・明治にかけて外交上の重荷となった。
登場人物
人物

マシュー・ペリー

アメリカ東インド艦隊司令長官

1853年に続いて1854年にも来航。強硬な姿勢で開国を実現させた。

林復斎(はやしふくさい)

幕府全権(大学頭)

日米和親条約締結時の幕府側の主席交渉担当者。儒学者・学者肌の官僚だった。

阿部正弘

老中首座

ペリー来航から開国までの幕府の方針を主導した。諸大名への諮問など前例のない対応をとった。

井伊直弼

のちの大老

1858年の日米修好通商条約を朝廷の許可なく調印。1860年の桜田門外の変で暗殺された。

キーワード解説
用語
日米和親条約
1854年に締結された日米間の条約。神奈川条約とも呼ばれる。下田・箱館の開港と薪水・食料の補給などを定めた。自由貿易は含まれない。
神奈川条約
日米和親条約の別名。条約交渉が神奈川(現在の横浜付近)で行われたことに由来する。
片務的最恵国待遇
日本がほかの国に与えた権利を自動的にアメリカにも適用する条項。日本側だけが義務を負う不平等な仕組み。
下田
伊豆半島南端の港。日米和親条約で開港された2港のひとつ。アメリカ総領事ハリスが着任した場所でもある。
箱館
蝦夷地(現在の北海道)の港。現在の函館。太平洋航路の中継地として開港が求められた。
薪水給与
外国船に薪・水・食料などを供給すること。日米和親条約の主な内容のひとつ。
もっと知りたい
豆知識

1再来航の艦隊は7隻に増えていた

1853年の初来航が4隻だったのに対し、1854年の再来航では7隻に増えた。ペリーは「答えを引き出す」ために艦隊を増強して戻ってきた。交渉前から軍事的圧力を強めた。

2蒸気機関車の模型を実演した

ペリーは贈り物として蒸気機関車の4分の1スケール模型(全長約3.5メートル)を持参し、実際に走らせて見せた。大人は中に入れず屋根に乗って走らせたという記録がある。幕府側は蒸気の力に驚いた。

3力士が米俵を担いで対抗した

幕府は体格で劣るアメリカ兵に圧倒されないよう大相撲の力士を呼んだ。力士は60kgの米俵を2俵軽々と担ぎ、アメリカ側を驚かせたといわれる。

4開港地は意図的に「江戸から遠い場所」

下田(伊豆半島南端)と箱館(蝦夷地)はいずれも江戸・大阪などの主要都市から離れた場所。幕府は外国人が国内に深く入り込まないよう、辺境の地を選んだ。

5「和親」は仲よくするという意味で、貿易ではない

条約名の「和親」は友好・仲睦まじいという意味。自由な貿易(商売)は含まれておらず、薪水・食料の補給と漂流民の保護が主な内容。本格的な通商は4年後の修好通商条約まで待つことになる。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
1854年締結。語呂は「嫌で来よ(い・や・こ・よ=1854)」。
開港地は下田(伊豆)と箱館(現・函館)の2か所。神奈川条約とも呼ばれる。
自由貿易は認めていない。貿易を認めた条約は1858年の日米修好通商条約(不平等条約)。
幕府全権は林復斎。ペリー来航時の老中首座は阿部正弘。
片務的最恵国待遇が含まれており、不平等条約の原型となった点も押さえる。
語呂クイズ
「嫌で来よ(1854)日米和親で開国」= 日米和親条約(開国)は西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 日米和親条約はどこで結ばれましたか?
A. 神奈川(現在の横浜付近)で交渉・調印されました。そのため神奈川条約とも呼ばれます。
Q. どこの港が開かれましたか?
A. 下田(伊豆半島南端)と箱館(現在の函館)の2港です。
Q. 日米和親条約と日米修好通商条約の違いは何ですか?
A. 和親条約(1854年)は薪水・食料の補給と漂流民保護が主で、自由貿易は認めていません。修好通商条約(1858年)は自由な貿易を認めた本格的な通商条約で、関税自主権がないなど不平等な内容を含みます。
Q. 鎖国はいつ終わりましたか?
A. 1854年の日米和親条約により、約200年続いた鎖国体制が終わりました。ただし本格的な貿易開始は1858年です。
Q. 誰が幕府側の交渉担当でしたか?
A. 大学頭・林復斎が主席全権を務めました。幕府全体の方針は老中首座・阿部正弘が主導していました。
まとめ

日米和親条約は、200年以上続いた鎖国を終わらせた歴史的な条約です。ただし「開国」といっても貿易を全面的に認めたわけではなく、薪水・食料の補給と2港の開放にとどまりました。片務的最恵国待遇という不平等な条項を含み、その後の日米修好通商条約(1858年)の不平等性につながっていきます。「嫌で来よ(1854)」の語呂とともに、「和親=貿易なし、修好通商=貿易あり」の違いをしっかり区別して押さえましょう。

編集メモ(ファクト)
条約の正式名称は「日本国米利堅合衆国和親条約」。神奈川条約は一般的な別称。
片務的最恵国待遇の評価(「不平等条約の原型」)は研究者間で一定のコンセンサスがあるが、和親条約自体を「不平等条約」と断定する用法は修好通商条約ほど一般的でないため、「原型」という表現にとどめた。
開港した2港が「なぜ下田と箱館か」については諸説あるが、幕府が江戸などの主要都市を避けたという解釈が通説。
機関車模型の実演や力士の話は主に1854年再来航時の出来事。1853年初来航の出来事と混同しないこと。