
井伊直弼
いい・なおすけ 1815–1860 / 幕末・政治家
開国を断行した大老基本データ
- よみ
- いい・なおすけ
- 生没年
- 1815–1860
- 別名
- 井伊掃部頭
- 出身
- 近江彦根藩(譜代大名の名門)
- おもな地位・官職
- 江戸幕府大老(幕府の最高職)
- 立場
- 譜代大名・彦根藩主
- 最期
- 桜田門外の変で暗殺される
どんな人?
井伊直弼(いい・なおすけ)は、幕末に開国を断行した江戸幕府の大老です。彦根藩主で、幕府の最高職である大老として強権をふるいました。
1858年、朝廷の許可を得ないまま日米修好通商条約に調印し、開国に踏み切ります。さらに反対派を弾圧する安政の大獄を進めましたが、その強硬な政治姿勢が反発を招き、1860年、江戸城の桜田門外で暗殺されました(桜田門外の変)。享年46。
おもな業績・つくったもの
- 大老として日米修好通商条約に調印(1858年)大老として、天皇の許可を得ないまま日米修好通商条約に調印。自由貿易を開いたが不平等条約で攘夷派の反発を招いた。
- 安政の大獄で反対派を弾圧条約調印や将軍継嗣問題に反対する大名・公家・志士ら約100名を処罰し、吉田松陰らを処刑した弾圧。
- 桜田門外で暗殺される(1860年)厳しい弾圧への反発から、水戸脱藩浪士らに江戸城の桜田門外で襲われ暗殺された。幕府の権威失墜を招いた。
生涯のあゆみ(年表)
- 1815彦根藩主・井伊家に生まれる
- 1850彦根藩主となる
- 1858大老に就任し、勅許を得ず日米修好通商条約に調印解説を見る →
- 1858安政の大獄で反対派の弾圧を始める
- 1860桜田門外の変で暗殺される(享年46)解説を見る →
ゆかりの地
桜田門東京都1860年に直弼が暗殺された江戸城の門
彦根城滋賀県直弼が藩主を務めた彦根藩の城
豆知識
無勅許で条約に調印
直弼は天皇の許可を得ないまま日米修好通商条約に調印した。遅らせれば英仏がより苛酷な条件を迫るとハリスに警告されたことも一因とされる。
雪の桜田門で討たれる
1860年3月3日、桃の節句の雪の朝、直弼は登城中に桜田門外で襲われた。護衛が合羽で刀を抜けず、悪天候も暗殺の成功を後押ししたとされる。
不遇時代の「埋木舎」
直弼は藩主の座に就く前、部屋住みとして「埋木舎」と名づけた屋敷で茶や国学に打ち込んだと伝わる。世に埋もれた自分を埋もれ木にたとえた不遇時代を示す。
人物相関
井伊直弼
仕えた将軍徳川家茂弾圧した相手吉田松陰対立勢力徳川斉昭(水戸藩)条約交渉相手タウンゼント・ハリス
よくある質問
井伊直弼は何をした人?
幕末に幕府の最高職である大老を務めた彦根藩主です。1858年に朝廷の許可を得ないまま日米修好通商条約に調印して開国を断行し、安政の大獄で反対派を弾圧しましたが、その強硬姿勢が反発を招き桜田門外で暗殺されました。
安政の大獄と桜田門外の変とは?
安政の大獄は、井伊直弼が条約調印や将軍継嗣問題で自分に反対する公家・大名・志士を処罰した弾圧です。これへの反発から1860年、直弼は江戸城桜田門外で水戸浪士らに暗殺されました(桜田門外の変)。