幕末の開国 ③中学/外交
1858
日米修好通商条約(不平等条約)
井伊直弼(大老)/タウンゼント・ハリス(アメリカ総領事)
語呂
覚え方
嫌々御判(1858)日米修好通商条約
い(1)や(8)ご(5)は(8)ん
1858年(安政5年)、大老・井伊直弼はアメリカ総領事ハリスとの間で日米修好通商条約に調印しました。幕府は朝廷(天皇)の勅許を得ないまま調印を強行したため、攘夷派や尊王派から激しく非難されます。この条約は自由な貿易を認める一方、領事裁判権(治外法権)と関税自主権の欠如という二重の不平等を日本に課しました。翌年には同様の条約がオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結ばれ、まとめて「安政の五カ国条約」と呼ばれます。無勅許調印への批判を抑え込もうとした井伊は「安政の大獄」で反対派を弾圧しますが、1860年(万延元年)に桜田門外の変で暗殺されます。
この記事のポイント
- 1858年、大老・井伊直弼が朝廷の勅許を得ずに日米修好通商条約に調印
- 自由貿易を認めた一方、領事裁判権(治外法権)と関税自主権の欠如という不平等条約
- 翌年にオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を締結(安政の五カ国条約)
- 無勅許調印への批判を封じる「安政の大獄」で吉田松陰ら多数が処罰される
- 1860年、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺され、幕府の権威は大きく揺らいだ
ここが面白い朝廷の許可なく結んだ「不平等条約」。関税も裁判権も日本に不利なまま、約50年にわたって日本を縛り続けた。
日米修好通商条約は、突然生まれたわけではありません。1853年のペリー来航、翌1854年の日米和親条約を経て、アメリカはさらに踏み込んだ貿易開始を求めていました。そこに登場するのが総領事ハリスと、強権で幕府を切り盛りした大老・井伊直弼です。
日米和親条約との違い
1854年の日米和親条約(神奈川条約)は「港を開いて食料・燃料を補給する」という内容でした。貿易は認めておらず、あくまで「漂流民の保護と船の寄港」が中心です。修好通商条約はそこから大きく踏み込み、自由な商品の売買(貿易)を正式に認めた条約です。
ハリスの粘り強い交渉
アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは1856年、下田(静岡県)に着任しました。幕府との交渉を重ねる中で、「清(中国)がアヘン戦争でイギリスに敗れたのは強引な態度をとったからだ。日本は今のうちにアメリカと条約を結んでおけば、イギリスやフランスに強硬に迫られるより有利な条件を得られる」と説いて幕府を説得しました。
朝廷の勅許問題
条約の最大の問題は、天皇(孝明天皇)が条約締結に強く反対していたことです。幕府は慣例として朝廷に許可(勅許)を求めましたが、孝明天皇は攘夷(外国を追い払うべし)の立場から拒否しました。それでも井伊直弼は「このまま延ばせばもっと不利になる」と判断し、1858年6月に勅許を得ないまま調印を強行しました。
安政の五カ国条約
日米条約の調印後、幕府はオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を締結しました(1858年)。これら五カ国との条約をまとめて「安政の五カ国条約」と呼びます。同一の不平等内容が5カ国との間で成立し、日本の外交上の制約はさらに重くなりました。
自由貿易の開始
≒ 商品の輸出入を自由に認めた日米和親条約では認められていなかった商業的な貿易が正式に始まった。横浜・長崎・函館などを開港し、外国商人との取引が可能になった。
領事裁判権(治外法権)
≒ 外国人が日本で犯罪を起こしても、日本の裁判所で裁けない日本に住む外国人が犯罪を犯した場合、日本の法律ではなく相手国の領事が裁く権利を認めた。これは近代国家としての日本の主権を大きく制限する不平等な内容だった。
関税自主権の欠如
≒ 輸入品にかける税率を日本が自由に決められない輸入品への関税率が条約で固定され、日本が独自に税率を変えられなかった。安い外国製品が大量に流入しても、国内産業を守る手段が事実上なかった。この問題は1911年(明治44年)の条約改正まで続いた。
1853来航ペリーが浦賀に来航。開国を求める国書を渡す。
1854和親条約日米和親条約(神奈川条約)を締結。下田・箱館を開港。
1856ハリス着任アメリカ総領事ハリスが下田に着任し、通商条約の締結を要求。
1858通商条約大老・井伊直弼が無勅許で日米修好通商条約に調印。同年、安政の五カ国条約が完成。
1859安政の大獄井伊が反対派(吉田松陰ら)を大規模に弾圧。吉田松陰は翌年処刑。
1860暗殺桜田門外の変。水戸藩浪士らによって井伊直弼が暗殺される。
1911条約改正小村寿太郎が関税自主権を回復し、不平等条約の解消が完成(明治44年)。
◎貿易の開始により生糸・茶などの輸出が伸び、日本の産業が世界経済とつながるきっかけになった。
△領事裁判権と関税自主権の欠如は主権国家としての日本の制約となり、その完全解消には明治時代の終わりまで約50年を要した。
△無勅許調印は幕府の権威をゆるがし、安政の大獄→桜田門外の変→倒幕運動の激化という幕末動乱を加速させた。
井伊直弼
大老(幕府の最高職)彦根藩主。幕府の最高職・大老として強権をふるい、無勅許調印を断行。安政の大獄で反対派を弾圧したが、1860年に桜田門外で暗殺された。
タウンゼント・ハリス
初代アメリカ総領事1856年に下田に着任し、粘り強い交渉で日米修好通商条約の締結を実現した。イギリス・フランスよりも穏当な条件を示し、幕府を説得した。
孝明天皇
当時の天皇強硬な攘夷論者で、外国との条約締結に反対し、勅許を与えなかった。幕府が無勅許調印を強行したことで、尊王攘夷運動が激化する一因となった。
吉田松陰
思想家・松下村塾主宰安政の大獄で捕縛され、1859年に処刑(享年29)。高杉晋作・伊藤博文・山縣有朋ら明治の指導者を育てた。
徳川家定
13代将軍条約調印当時の将軍。病弱だったため井伊直弼が実権を握っていた。条約調印の年に死去。
- 領事裁判権(治外法権)
- 外国人が相手国で犯罪を起こした場合、滞在国ではなく自国の領事(外交官)が裁判を行う権利。近代国際法上は主権の制限にあたり、日本は1894年(日清戦争の年)に撤廃を実現した。
- 関税自主権
- 輸入品に課す税率を自国が独自に決定できる権利。これがないと、安価な外国製品の流入から国内産業を守れない。日本は1911年に小村寿太郎が回復した。
- 勅許
- 天皇の許可のこと。幕府が朝廷に伺いを立て、天皇の承認(勅許)を得る慣例があった。無勅許調印はその慣例を破ったものとして攘夷派の激しい反発を招いた。
- 安政の五カ国条約
- 1858年に日本がアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5カ国と結んだ通商条約の総称。すべて領事裁判権と関税自主権の欠如という同様の不平等内容を含む。
- 安政の大獄
- 1858〜59年に井伊直弼が行った大規模な反対派弾圧。吉田松陰・橋本左内ら多くの尊王攘夷派・一橋派の武士・志士が捕縛・処刑・謹慎となった。
1「ゴーサイン」の代償
井伊直弼が無勅許調印に踏み切ったのは、ハリスから「すぐに調印しなければイギリス・フランスが軍艦を連れてもっと苛酷な条件で迫ってくる」と警告されたことも一因とされる。アヘン戦争で清が敗れた事実は、幕府にとって非常に重い教訓だった。
2生糸ブームと物価高騰の二面性
開港後、横浜から生糸・茶などが大量に輸出されると農家の収入は増えた。しかし国内の品物が外国に流出したことで物価が高騰し、庶民の生活を直撃した。経済的混乱も倒幕運動を後押しする要因の一つになったとされる。
3吉田松陰が「大獄」に連座した理由
吉田松陰は老中・間部詮勝の暗殺計画を藩に訴えたが、藩に拒絶されたうえ幕府に通報されて逮捕された。伝馬町牢屋敷で処刑された松陰の思想は門下生に受け継がれ、明治維新の原動力となった。
4条約のドル換算問題
条約では金銀の交換比率も定められた。当時の日本と海外では金銀の比率が大きく違ったため、開港直後に外国商人が金貨を大量に持ち出して利益を得る「金の流出」が起き、日本経済が混乱した。
5「安政」という元号が示すもの
安政(1854〜1860)は「安らかな政治」を願う元号だったが、安政の五カ国条約・安政の大獄・安政の大地震(1855年江戸大地震)と、激動の出来事が続いた。元号の意図とは裏腹な時代だった。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1858年。語呂は「嫌々御判(いやごはん=1858)」。無勅許で「判(調印)」を押した意にも掛かる。
大老・井伊直弼が朝廷の勅許を得ずに(無勅許で)調印した点が最重要。
不平等の内容は「領事裁判権(治外法権)」と「関税自主権の欠如」の2点。
1854年の日米和親条約は貿易なし(開港・補給のみ)、1858年の修好通商条約は貿易あり(不平等)の違いを押さえる。
安政の大獄(1858〜59年)→桜田門外の変(1860年)→倒幕の流れを関連付けて覚える。
語呂クイズ
「嫌々御判(1858)日米修好通商条約」= 日米修好通商条約(不平等条約)は西暦何年?
- Q. 日米修好通商条約はなぜ不平等条約と言われるのですか?
- A. 日本に領事裁判権(外国人が日本で犯罪を犯しても日本の裁判所で裁けない)を認め、かつ関税自主権(輸入品の税率を日本が自由に決める権利)がなかったためです。相手国には日本に対してこうした制約がないため、対等でない「不平等」な条約とされます。
- Q. 無勅許調印とはどういう意味ですか?
- A. 天皇(孝明天皇)の許可(勅許)を得ないまま条約に調印したことを指します。当時の慣例では重大な決定は朝廷に伺いを立てるものでしたが、孝明天皇は条約に反対していたため許可が得られず、井伊直弼は強行しました。
- Q. 日米修好通商条約と日米和親条約の違いは何ですか?
- A. 和親条約(1854年)は港を開いて食料・燃料を補給することが中心で、貿易は認めていません。修好通商条約(1858年)は自由な貿易(商品の売買)を認めた条約で、不平等な内容を含む点でも大きく異なります。
- Q. 安政の五カ国条約とは何ですか?
- A. 1858年にアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5カ国と結んだ通商条約の総称です。すべて日米修好通商条約と同様の不平等な内容を含んでいました。
- Q. 井伊直弼はどうなりましたか?
- A. 無勅許調印と安政の大獄に対する反発から、1860年(万延元年)3月、江戸城の桜田門外で水戸藩を中心とする浪士たちに暗殺されました(桜田門外の変)。これにより幕府の権威はさらに低下しました。
日米修好通商条約は、日本が近代国際社会に引き込まれる際に背負わされた「二重の制約」を象徴する条約です。領事裁判権と関税自主権の欠如という不平等は、明治政府が全力で取り組む外交課題となり、1894年の治外法権撤廃、1911年の関税自主権回復をもって初めて解消されます。また、無勅許調印という「ルール破り」が幕府の権威を決定的に傷つけ、安政の大獄→桜田門外の変→倒幕と続く幕末動乱の引き金を引きました。「嫌々御判(いやごはん=1858)」の語呂と共に、開国の代償と幕末の転換点として押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
安政の大獄(1858〜59年)で吉田松陰が処刑されたのは1859年(安政6年)10月。「安政の大獄」は条約調印後から始まる弾圧の総称。
関税自主権の完全回復は1911年(明治44年)の小村条約。治外法権(領事裁判権)撤廃は1894年(明治27年)の日英通商航海条約が先行した。
ハリスが提示した「今なら穏当な条件が得られる」という説得の有効性については諸説あり、断定を避けた表現にしている。
「安政の五カ国条約」の五カ国順序(米・蘭・露・英・仏)は教科書によって表記が異なることがある。