幕末の倒幕運動 ①高校/政治
1866
薩長同盟
坂本龍馬・中岡慎太郎(仲介)/西郷隆盛・小松帯刀(薩摩)/桂小五郎=木戸孝允(長州)
語呂
覚え方
一夜むむと手を結ぶ、薩長同盟
い(1)や(8)む(6)む(6)
1866年(慶応2年)1月、京都・薩摩藩邸で薩摩藩と長州藩が軍事同盟(薩長同盟)を締結しました。土佐脱藩の坂本龍馬・中岡慎太郎が仲介し、薩摩側は西郷隆盛・小松帯刀、長州側は桂小五郎(のちの木戸孝允)が主役となりました。禁門の変(1864年)以来、深く対立していた両藩が反幕府・倒幕で結束したこの密約は、6か条の取り決めで成り、幕府が崩れてゆく土台を一気に固めました。同年の第二次長州征討で幕府軍は敗北し、翌1867年の大政奉還・王政復古、そして明治維新へとなだれ込む歴史の分水嶺となった出来事です。
この記事のポイント
- 1866年1月、京都の薩摩藩邸で薩長同盟が締結される
- 坂本龍馬・中岡慎太郎が仲介し、薩摩(西郷・小松)と長州(桂小五郎)が密約を結ぶ
- 禁門の変(1864年)以来の対立を乗り越え、6か条の軍事的相互支援を約束
- 薩摩名義で長州がグラバー商会経由の武器調達を可能にするなど実利的な内容を含む
- 同年の第二次長州征討での幕府敗北を経て、翌1867年の大政奉還・倒幕へつながる画期
ここが面白いかつての「天敵」どうしが秘密の6か条で手を結んだ。仲介した龍馬は締結翌日、覚書を裏書きして証人となった。
薩長同盟は突然生まれたわけではありません。幕末の複雑な政治対立と外圧、そして藩同士の激しい確執を経て、ようやく成立した同盟です。その背景をたどると、なぜこの密約が「歴史の転換点」になったかがよくわかります。
公武合体と攘夷の対立
ペリー来航(1853年)以降、幕府の権威は揺らぎ続けました。尊皇攘夷(天皇を奉じて外国を追い払え)を叫ぶ志士たちが各地で台頭し、長州藩はその急先鋒でした。一方、薩摩藩は朝廷と幕府を結びつける「公武合体」路線をとり、一時は長州と激しく対立していました。
禁門の変(1864年)と長州の孤立
1864年、長州藩が京都御所を武力で奪回しようとして失敗した事件が禁門の変(蛤御門の変)です。このとき薩摩藩と会津藩が御所を守る幕府方で戦い、長州を退けました。長州は「朝敵」とされ、直後の第一次長州征討(1864年)で幕府・諸藩連合軍に屈服して政治的窮地に立たされました。
長州の藩論転換と坂本龍馬の動き
長州藩では高杉晋作らが奇兵隊を率いて保守派を倒し、1865年に倒幕路線へ藩論を転換しました。坂本龍馬は薩摩の西郷隆盛、長州の桂小五郎(木戸孝允)の双方と信頼関係を築いており、両藩の利害を調整できる数少ない人物でした。龍馬はまず薩摩名義で長州に武器・弾薬を購入させる実利から交渉を固め、軍事同盟成立の地ならしをしました。
グラバー商会と武器調達
長崎のトーマス・グラバーは、欧米の最新式小銃や艦船を幕末諸藩に売っていたスコットランド人商人です。長州藩は幕府の監視下にあったため直接武器を購入しにくい状況でした。そこで薩摩が名義人となってグラバー商会から武器を調達し、長州に回すという実利的な枠組みが密約の核心の一つになりました。
6か条の軍事的相互支援を約束
≒ 秘密の軍事同盟の締結長州が幕府に攻められた際は薩摩が支援し、薩摩が困れば長州が助けるという相互扶助を6か条で取り決めた。具体的には、第二次長州征討の際の薩摩の動向なども盛り込まれていた。
薩摩名義での武器調達を認める
≒ 実利ベースの経済・軍事協力長州は幕府の制約で武器を直接買いにくかった。薩摩が名義を貸すことでグラバー商会からの小銃・弾薬の購入を可能にし、長州の軍備強化を支援した。
覚書に龍馬が裏書きで証人に
≒ 第三者による合意保証締結翌日、坂本龍馬が桂小五郎宛の書状(覚書)の裏に龍馬自身が「薩摩藩の約束は間違いない」と裏書きして証人となった。信頼関係を担保する龍馬の役割を象徴するエピソード。
1863薩英戦争薩摩藩がイギリスと戦い(薩英戦争)、英国製兵器の威力を実感。攘夷から開国・近代化路線へ転換するきっかけとなった。
1864禁門の変長州藩が京都御所奪回を試みて失敗(禁門の変)。薩摩・会津が幕府方で長州を撃退。両藩は「天敵」となった。
1864第一次長州征討幕府・諸藩連合が長州を征討。長州は幕府に従伏し「朝敵」の汚名を着せられた。
1865長州藩論転換高杉晋作らが藩内クーデターで保守派を倒し、長州藩が正式に倒幕路線へ転換。
1866薩長同盟1月、京都の薩摩藩邸で薩長同盟締結。坂本龍馬・中岡慎太郎が仲介。
1866第二次長州征討の失敗薩摩は出兵を拒否し、幕府軍は各地で長州軍に敗北。幕府の権威は決定的に失墜した。
1867大政奉還・王政復古10月、徳川慶喜が大政奉還。12月、王政復古の大号令。江戸幕府が事実上終焉した。
1868明治維新戊辰戦争を経て明治新政府が樹立。薩長土肥が新政府の中枢を担った。
◎幕府に対抗できる最強の軍事的枠組みが生まれ、同年の第二次長州征討で幕府を敗北させる力となった。翌1867年の大政奉還・倒幕、明治維新への決定的な土台となった。
△同盟は秘密裏に結ばれたため、坂本龍馬・中岡慎太郎は後に暗殺される(1867年、近江屋事件)。明治維新後は薩長出身者が政府を独占し、薩長藩閥政治という新たな問題も生んだ。
坂本龍馬
土佐脱藩の志士・仲介者海援隊を組織した実業家的志士。薩摩・長州双方に信頼され、交渉を主導した。1867年に近江屋で暗殺される。
中岡慎太郎
土佐脱藩の志士・仲介者龍馬とともに同盟成立に奔走した。陸援隊を組織し、龍馬と同じく近江屋事件で命を落とした。
西郷隆盛
薩摩藩の実力者薩摩藩を代表して同盟交渉を担った。後に明治政府の参議となるが、西南戦争で没した。
小松帯刀
薩摩藩家老薩摩藩の実質的な主導者の一人。交渉の場を整えた。若くして病死し、西郷・大久保の陰に隠れがちだが実力者。
桂小五郎(木戸孝允)
長州藩を代表する交渉役後の木戸孝允。長州藩の倒幕路線を牽引し、明治維新後は維新三傑の一人に数えられる。
高杉晋作
長州藩の軍事指導者奇兵隊を創設し、藩内の保守派を打倒して倒幕路線を確立した。薩長同盟成立前後に病死(1867年)。
- 薩長同盟
- 薩摩藩と長州藩が1866年1月に京都で結んだ軍事的秘密同盟。6か条の取り決めで互いの軍事支援を約束した。坂本龍馬・中岡慎太郎が仲介した。
- 禁門の変(蛤御門の変)
- 1864年、長州藩士が京都御所の奪還を試みた事件。薩摩・会津藩が防衛し、長州は「朝敵」とされた。薩長が「天敵」となった原因。
- 第二次長州征討
- 1866年、幕府が長州を再び征討しようとした軍事行動。薩摩は出兵を拒否し、長州軍は各地で幕府軍を撃破。幕府の威信が決定的に崩れた。
- 奇兵隊
- 高杉晋作が組織した長州藩の混成部隊。身分を問わず農商人も採用し、近代的な軍隊の先駆けとなった。薩長同盟後の対幕府戦で活躍。
- グラバー商会
- 長崎を拠点にしたトーマス・グラバーの貿易商会。欧米製の最新式銃や艦船を幕末の諸藩に売り、薩長同盟を通じた長州の武器調達に関わった。
- 大政奉還
- 1867年10月、15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上した政治行動。薩長同盟を基盤とした倒幕運動の圧力に対する慶喜の政治的判断。
1龍馬の「裏書き」が現存する
薩長同盟の覚書そのものは現存しないが、坂本龍馬が桂小五郎宛に「薩摩の約束は相違ない」と裏書きした書状(いわゆる「薩長同盟の覚書」)は写しが現存し、龍馬が証人役を担ったことを示す一級史料となっている。
2「薩長同盟」という言葉は後世の呼び名
当時の当事者たちは「薩長同盟」という言葉を使っていなかった。後の歴史家が名付けたもので、史料上は「密約」「盟約」と表現されている。近年は「薩長連合」と呼ぶ研究者もいる。
3締結の場は「料亭」ではなく薩摩藩邸
大衆的なイメージでは料亭での密談とされることもあるが、史料から締結の場は京都伏見の薩摩藩邸(寺田屋近辺)と考えられている。龍馬はこの直後、寺田屋事件(幕府の捕方に急襲された事件)に巻き込まれた。
4坂本龍馬は2日後に捕方に急襲される
薩長同盟締結からわずか2日後の1866年1月23日、龍馬は伏見の寺田屋で幕府の捕方に急襲された(寺田屋事件)。内通者がいたとも、監視が強まっていたとも言われる。龍馬はお龍(妻)の機転で難を逃れた。
5高杉晋作は同盟締結の翌年に病死
薩長同盟の実現に大きく貢献した長州の高杉晋作は、結核により1867年5月に27歳で没した。倒幕の成就を見ることなく夭折し、「おもしろき こともなき世を おもしろく」の辞世の句を残した。

ここが出る博士のワンポイント
薩長同盟は1866年(慶応2年)、語呂は「い(1)や(8)む(6)む(6)→一夜むむ」。
仲介者は坂本龍馬と中岡慎太郎(どちらも土佐脱藩)。
薩摩側は西郷隆盛・小松帯刀、長州側は桂小五郎(木戸孝允)。
同年の第二次長州征討で幕府が敗北し、翌1867年の大政奉還・倒幕への土台となった点を押さえる。
禁門の変(1864年)で対立していた両藩が結束した逆転劇という文脈も重要。
語呂クイズ
「一夜むむと手を結ぶ、薩長同盟」= 薩長同盟は西暦何年?
- Q. 薩長同盟はいつ・どこで結ばれましたか?
- A. 1866年(慶応2年)1月、京都の薩摩藩邸(伏見)で締結されました。
- Q. 坂本龍馬はなぜ仲介できたのですか?
- A. 龍馬は土佐藩を脱藩した立場で藩に縛られず、薩摩の西郷隆盛・長州の桂小五郎双方と信頼関係を築いていたためです。また、先に薩摩名義の武器調達という実利を取り決めることで長州を引き付ける手腕も発揮しました。
- Q. 薩長同盟の内容は何ですか?
- A. 6か条の取り決めで、長州が幕府に攻められた際の薩摩による支援、薩摩が困難になった場合の長州の協力、そして薩摩名義での長州への武器調達支援などが主な内容です。
- Q. 薩長はなぜそれまで対立していたのですか?
- A. 1864年の禁門の変(蛤御門の変)で、長州藩が京都御所を武力で奪回しようとした際に薩摩・会津藩が幕府方として長州を撃退したためです。両藩はそれ以来「天敵」として深く対立していました。
- Q. 薩長同盟は明治維新にどう影響しましたか?
- A. 同年の第二次長州征討で薩摩が幕府への出兵を拒否し、長州軍が幕府軍を各地で撃破しました。幕府の軍事的権威が崩れ、翌1867年の大政奉還・王政復古、そして1868年の明治維新へと直結する決定的な力となりました。
薩長同盟は、かつての「天敵」同士が打算と志をもって手を結んだ、幕末最大の政治的逆転劇です。坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介がなければ、両藩の対立はさらに続き、幕府打倒が大幅に遅れていたかもしれません。「い(1)や(8)む(6)む(6)→一夜むむと手を結ぶ、薩長同盟」の語呂とともに、1866年という年号と仲介者(龍馬・中岡)・薩摩(西郷・小松)・長州(桂小五郎)の顔ぶれを押さえておきましょう。この密約が、翌1867年の大政奉還・王政復古、そして明治維新への扉を開きました。
編集メモ(ファクト)
締結日は1866年1月21日(慶応2年正月9日)とするのが通説だが、21日説・23日説など諸説ある。
薩長同盟の原本(覚書)は現存せず、龍馬の裏書き書状の写しが主要史料となっている。
「薩長同盟」は後世の呼称で、当時の史料には「密約」「盟約」と記されている。