南北朝の始まり ①中学/政治
1334
建武の新政
後醍醐天皇(第96代天皇)
語呂
覚え方
いざ見よ 建武の新政
い(1)ざ(3)見(3)よ(4)※いざ=13、みよ=34
1333年(元弘3年)に鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇はただちに公家中心の天皇親政を宣言しました。翌1334年(建武元年)に元号を「建武」と改め、「建武の新政」と呼ばれる政治改革をスタートさせます。記録所・恩賞方・武者所などの新機関を設けて政務をとりましたが、土地給付をめぐる混乱や公家優遇への武士の不満が爆発。都の乱れを風刺した「二条河原落書」が話題になるほど世は騒然としました。1335年の中先代の乱を契機に足利尊氏が離反し、1336年には建武式目を発布して室町幕府の基盤を固め、後醍醐天皇は吉野へ逃れて南朝を立てます。こうして南北朝の動乱が幕を開けました。
この記事のポイント
- 1334年、後醍醐天皇が建武と改元して天皇親政(建武の新政)を開始
- 記録所・恩賞方・武者所を設置したが、公家偏重で武士の不満が高まる
- 世の混乱を風刺した「二条河原落書」が流布し、政治の乱れを象徴した
- 1335年の中先代の乱を機に足利尊氏が離反し、1336年に湊川の戦いで新政は崩壊
- 後醍醐天皇は吉野へ逃れて南朝を樹立し、京の北朝(尊氏)と対立する南北朝時代へ
ここが面白い「二条河原落書」に記された風刺は武士の本音。2年余で崩れた天皇親政の理想と現実のギャップ。
建武の新政は突然生まれた政策ではありません。後醍醐天皇は二度の倒幕計画(正中の変・元弘の変)ののちに隠岐へ流されながらも諦めず、鎌倉幕府打倒を果たしました。その背景にある天皇親政への強い意志と、鎌倉末期の幕府の動揺を押さえておきましょう。
鎌倉幕府末期の動揺
13世紀末の元寇(文永・弘安の役)以降、幕府は御家人に十分な恩賞を与えられなくなり、財政が悪化しました。1297年の永仁の徳政令も混乱を招き、御家人の幕府離れが加速。地方武士の間では新興の悪党が台頭し、幕府の支配が揺らいでいました。
後醍醐天皇の倒幕計画
後醍醐天皇は1321年から院政をやめて親政を開始。1324年の正中の変、1331年の元弘の変と2度の倒幕計画を試みましたが、どちらも事前に発覚。元弘の変では隠岐に流されました。しかし翌1333年、楠木正成・新田義貞らの活躍と足利尊氏の幕府からの離反によって鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇は京都に帰還しました。
「建武」への改元と新政の出発
1333年(元弘3年)に天皇親政が復活すると、翌1334年に元号を「建武」と改めました。後醍醐天皇は武家政権を否定し、朝廷が土地・人事・軍事のすべてを直接管理する体制を構築しようとします。しかし武士が期待した「倒幕への貢献に見合う恩賞」は、公家優先のなかで後回しにされ、支持は急速に崩れていきました。
記録所の設置
≒ 最高政務機関(天皇直属の行政センター)訴訟・政務を一元的に処理する機関。公家・武家の双方を対象としたが、実務は公家が中心となり武士には使いにくい仕組みだった。
恩賞方の設置
≒ 論功行賞担当部署倒幕に協力した武士への土地給付を担当。しかし審査が滞り、不公平な配分が相次いで武士の不満の温床となった。
武者所の設置
≒ 京都警備の治安部隊京都の治安維持を担当し、名和長年らの武士が任された。しかし実権は薄く、武士の処遇改善にはつながらなかった。
二条河原落書
≒ SNSで拡散した政治風刺1334年ごろ、二条河原(京都)に張り出された落書き。「此比都ニハヤル物」として世の混乱・公家の贅沢・武士の不満を辛辣に列挙し、新政の矛盾を広く世間に知らしめた。
1333幕府滅亡新田義貞が鎌倉を攻め、足利尊氏も六波羅を陥れ、鎌倉幕府が滅亡。後醍醐天皇が帰京。
1334建武の新政建武と改元。記録所・恩賞方・武者所を設置し、天皇親政を開始。公家中心の政治体制に武士が不満を募らせる。
1335中先代の乱北条時行が鎌倉を一時奪還(中先代の乱)。足利尊氏が後醍醐天皇の許可を得ずに独自に鎮圧し、そのまま離反。
1336湊川の戦い足利尊氏が湊川の戦いで楠木正成を破る。後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を立て、南北朝時代が始まる。
1336建武式目足利尊氏が建武式目を発布。室町幕府(武家政権)の基本方針を示した。
1338室町幕府足利尊氏が征夷大将軍に就任し、室町幕府が正式に成立。
1392南北朝合一3代将軍足利義満のもとで、南北朝が合一。約60年の動乱が終わった。
◎天皇が主導して武家政権を打倒し、公家と武家を統合した統治を目指した点は後代にも影響を与えた(明治維新の「王政復古」にも思想的影響がある)。
△武士への恩賞の不公平・公家偏重が支持を失わせ、わずか2年余で崩壊。足利尊氏の離反を招いて南北朝の動乱(約60年)を引き起こした。
後醍醐天皇
第96代天皇・建武の新政の主導者天皇親政への強い信念を持ち、2度の倒幕失敗ののちに鎌倉幕府を打倒。しかし公家中心の政策が武士の反発を招き、吉野で南朝を立てて抵抗を続けた。
足利尊氏
建武の新政を支えた武将・のちに室町幕府初代将軍倒幕に協力したが、天皇の許可なく中先代の乱を鎮圧したことで離反。1338年に征夷大将軍となり室町幕府を開いた。
楠木正成
後醍醐天皇方の武将ゲリラ戦術で幕府軍を苦しめ、建武の新政を支えた。1336年の湊川の戦いで尊氏軍に敗れて自刃。「忠臣」の代名詞とされた。
新田義貞
鎌倉を攻め滅ぼした武将1333年に鎌倉を攻め、北条氏を滅亡させた。建武の新政でも活躍したが、尊氏との対立で劣勢に立たされた。
北条時行
中先代の乱の主体北条氏の遺児。1335年に信濃で兵を挙げて鎌倉を一時奪還したが、足利尊氏に鎮圧された(中先代の乱)。
- 建武の新政
- 1334年(建武元年)から1336年にかけて、後醍醐天皇が行った天皇親政による政治体制。公家中心で武士が疎外され、短期間で崩壊した。
- 記録所
- 建武の新政で設けられた最高政務機関。訴訟・政務を統括したが、実務は公家中心で武士には使いにくかった。
- 恩賞方
- 倒幕に協力した武士への土地・官職の給付を担当する機関。審査の滞りと不公平な配分が武士の不満を招いた。
- 二条河原落書
- 1334年ごろ京都の二条河原に掲示された政治風刺文。新政下の社会の混乱を辛辣に描写し、当時の世論を伝える一級史料。
- 中先代の乱
- 1335年、北条時行が信濃で挙兵して鎌倉を一時奪還した反乱。足利尊氏が独断で鎮圧したことが後醍醐天皇との決裂のきっかけとなった。
- 南北朝時代
- 1336年から1392年まで続いた、後醍醐天皇系の南朝(吉野)と足利氏の擁立する北朝(京都)が並立した時代。
1「二条河原落書」は誰が書いた?
作者は不明で、現在も特定されていない。「此比都ニハヤル物」(この頃都に流行るもの)で始まるこの文章は、新政のドタバタぶりを「夜討・強盗・謀綸旨」「召人・早馬・虚騒動」などの言葉でリズミカルに列挙した。中学・高校入試でも頻出の史料で、当時の世相を知る一級資料として現代でも研究される。
2なぜ「建武」?醍醐・村上天皇の「延喜・天暦の治」への憧れ
後醍醐天皇は、10世紀の醍醐・村上天皇による「延喜・天暦の治」(天皇親政の理想時代)を目標とした。「建武」という元号は中国・後漢の光武帝の元号「建武」から取ったとされ、天皇親政の再興を強く意識した命名だった。
3恩賞をめぐるトラブルの実態
倒幕に貢献した武士たちは「恩賞方」に続々と申請を出したが、審査が追いつかず混乱が続いた。後醍醐天皇が公家を優遇して武士への配分を後回しにしたため、「こんなはずではなかった」という不満が武士の間に広がった。二条河原落書にも「論功行賞の混乱」が風刺されている。
4楠木正成は湊川に散る前に敗戦を予見していた
1336年の湊川の戦いの前、楠木正成は尊氏の大軍との正面決戦は不利と判断し、いったん後醍醐天皇を比叡山へ退避させて敵を京都に誘い込み、兵糧を断って背後を突く作戦を進言したとされる。しかし朝廷はこれを退けて正面決戦を命じ、正成は敗れて自刃。この「死を覚悟した忠義」の姿が後世に美化された。
5「中先代」という独特の呼び名の由来
北条時行の乱を「中先代の乱」と呼ぶのは、「先代(鎌倉幕府)」の後・「当代(建武の新政・室町幕府)」の前、すなわち「間(なか)の先代」を意味する。北条時行は「先代」と「当代」のはざまに現れた挑戦者として歴史に刻まれた。

ここが出る博士のワンポイント
建武の新政は1334年開始。語呂は「いざ見よ(1334)建武の新政」。
設置された3機関は「記録所・恩賞方・武者所」。頭文字「き・お・む」で覚える。
二条河原落書は建武の新政の混乱を風刺した匿名文書。入試史料問題に頻出。
崩壊のきっかけは1335年の中先代の乱→足利尊氏の離反。1336年に南北朝分裂。
鎌倉幕府滅亡(1333)→建武の新政(1334)→足利尊氏将軍就任(1338)の流れを整理する。
語呂クイズ
「いざ見よ 建武の新政」= 建武の新政は西暦何年?
- Q. 建武の新政はいつからいつまでですか?
- A. 1334年(建武元年)の改元から、1336年に足利尊氏が湊川の戦いで後醍醐天皇方を破るまでの約2年余りです。
- Q. 建武の新政はなぜ失敗したのですか?
- A. 主な理由は3つです。(1)恩賞の配分が不公平で、倒幕に協力した武士が不満を持った。(2)公家を優遇する体制で武士が疎外された。(3)中先代の乱への対応をめぐり足利尊氏が離反したことです。
- Q. 二条河原落書とは何ですか?
- A. 1334年ごろ、京都の二条河原に掲示された政治風刺文です。建武の新政下の社会混乱をリズミカルに列挙した匿名の文章で、作者は今も不明です。入試でも頻出の史料です。
- Q. 足利尊氏はなぜ離反したのですか?
- A. 1335年の中先代の乱で、後醍醐天皇の許可を得ずに独自に鎮圧したことが直接のきっかけです。もともと恩賞の不満もあり、そのまま後醍醐天皇と対立する側に立ちました。
- Q. 南北朝はいつ合一しましたか?
- A. 1392年、室町幕府3代将軍の足利義満のもとで南北朝が合一しました。南北朝の動乱は約60年続きました。
建武の新政は、天皇親政という理想と、武士への対応という現実の間で崩壊した政治実験でした。後醍醐天皇の強烈な意志は、倒幕という偉業を成し遂げた一方で、武士の支持を失うという致命的なミスにもつながりました。「いざ見よ(1334)建武の新政」の語呂とともに、新政の3機関(記録所・恩賞方・武者所)・二条河原落書・中先代の乱という流れを押さえ、鎌倉幕府の滅亡から南北朝分裂までの大きな歴史の流れのなかに位置づけておきましょう。
編集メモ(ファクト)
建武の新政の開始年は1334年(建武改元)。鎌倉幕府滅亡は1333年(元弘3年)であり区別が必要。
二条河原落書の作者は現在も特定されていない。
中先代の乱は1335年。足利尊氏の征夷大将軍就任は1338年。建武式目発布も1336年と整理する。