
後醍醐天皇
ごだいごてんのう 1288–1339 / 鎌倉末〜南北朝・天皇・皇族
建武の新政を行った天皇基本データ
- よみ
- ごだいごてんのう
- 生没年
- 1288–1339
- おもな地位・官職
- 天皇(親政)・南朝初代
- 父母
- 父は後宇多天皇
- 在位
- 第96代天皇
- 拠点
- 京都・のち吉野
- 政治
- 建武の新政
どんな人?
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉幕府を倒して天皇親政をめざす建武の新政を行った天皇です。天皇みずからが政治を行う理想を掲げ、二度の倒幕計画の失敗を経て、1333年についに鎌倉幕府を滅ぼしました。
翌1334年からは建武の新政を開始し、天皇中心の政治を進めます。しかし公家を重んじる政策は武士の不満を招き、倒幕に貢献した足利尊氏らの離反を招く結果となりました。
1338年に尊氏が征夷大将軍となって室町幕府が成立すると、後醍醐天皇は吉野へ逃れて南朝を立て、北朝と対立を続けました。天皇親政への信念を貫いたまま、1339年に吉野で没しました。
おもな業績・つくったもの
- 鎌倉幕府を倒し倒幕を主導(1333年)二度の倒幕計画の失敗を経て、足利尊氏や新田義貞らの協力で鎌倉幕府を滅ぼし、天皇親政への道を開いた。
- 天皇親政をめざす建武の新政を開始(1334年)天皇みずから政治を行う理想を掲げ新政を始めた。しかし公家重視の政策が武士の不満を招き短命に終わった。
- 記録所・恩賞方・武者所を設置訴訟を扱う記録所、恩賞を担う恩賞方、治安を守る武者所などを置いた。ただし実務は公家中心で武士には使いにくかった。
- 吉野へ移り南朝を樹立足利尊氏が北朝を擁立すると、吉野へ移って南朝を立てた。以後約60年におよぶ南北朝の分裂が続いた。
- 天皇中心の政治の理想を掲げる天皇自ら政治を行った延喜・天暦の治を理想とし、天皇親政の再興を目指した。元号「建武」にその意志が込められた。
生涯のあゆみ(年表)
ゆかりの地
吉野奈良県後醍醐天皇が南朝を立てた地
豆知識
「建武」に込めた理想
後醍醐天皇は天皇みずから政治を行った延喜・天暦の治を理想とし、天皇親政の再興をめざした。元号「建武」にもその強い意志が込められていた。
恩賞への不満を招く
倒幕に貢献した武士への恩賞審査が滞り、公家が優遇されたため武士の不満が高まった。この混乱が建武の新政の短命につながっていった。
二度の倒幕計画の失敗
後醍醐天皇は正中の変・元弘の変と二度の倒幕計画に失敗し、一時は隠岐へ流された。それでも倒幕の志を捨てず、三度目でついに鎌倉幕府を倒した。
人物相関
よくある質問
後醍醐天皇は何をした人?
鎌倉幕府を倒して天皇親政をめざす建武の新政を行った天皇です。のちに足利尊氏と対立し、吉野へ移って南朝を立て、北朝と争い続けました。
建武の新政はなぜ短命に終わったのですか?
公家を重んじる政策や恩賞審査の滞りが武士の不満を招いたためです。倒幕に貢献した足利尊氏らの離反を招き、短期間で崩れました。
南朝とは何ですか?
足利尊氏が北朝を擁立したのに対し、後醍醐天皇が吉野に移って立てた朝廷です。以後およそ60年におよぶ南北朝の分裂が続きました。