元寇 ②中学/戦乱
1281
弘安の役(元寇)
フビライ=ハン(元の皇帝)/北条時宗(8代執権)
語呂
覚え方
人には一杯 弘安の役
人(1)に(2)は(8)一(1)
1281年(弘安4年)、元(モンゴル帝国)の皇帝フビライ=ハンは再び日本征服を企て、大軍を送り込んできました。東路軍(朝鮮経由、約4万人)と江南軍(旧南宋の兵を主力とする約10万人)の二手から北九州に迫る大規模な作戦です。しかし博多湾岸に築かれた石築地(防塁)と御家人の激しい抵抗で上陸を阻まれ、約2か月にわたる海上での膠着ののち、大型暴風雨(いわゆる「神風」)が襲来。元の軍船の多くは沈み、残存兵力は撤退しました。1274年の文永の役に続く2度目の元寇です。
この記事のポイント
- 1281年(弘安4年)、フビライ=ハンが東路軍・江南軍の二手で再侵攻
- 博多湾岸の石築地(防塁)が上陸を阻み、御家人が海上の敵船に夜襲を繰り返した
- 約2か月の膠着ののち暴風雨が襲来し、元軍の軍船が大半沈没・撤退
- いわゆる「神風」は天佑として強調されたが、実際は武士の激戦が先行していた
- 元寇後の恩賞不足・領地不足で御家人が困窮し、幕府の支配力が低下する一因になった
ここが面白い神風が吹く前、日本の武士は約2か月間、海上の元軍と激戦を繰り広げていた。
弘安の役は突然始まったのではありません。1274年の文永の役という第1次侵攻があり、その後も元は日本に服属を求めて使者を送り続けました。日本側がこれを拒絶し続けたため、元はさらに大規模な第2次遠征を計画したのです。この流れを押さえておきましょう。
文永の役(1274年)の記憶
1274年(文永11年)、元・高麗の連合軍が対馬・壱岐を経て博多湾に上陸しました(文永の役)。元軍は集団戦法・火器(てつはう)・毒矢などで御家人を苦しめましたが、暴風雨などもあり撤退します。この経験から、幕府は博多湾岸に石築地(防塁)を築くなど防衛を強化しました。
元の再侵攻準備と使者の拒絶
文永の役の後もフビライ=ハンは服属を求める使者を日本に送り続けましたが、8代執権・北条時宗はこれをことごとく拒絶。なかには使者を斬首する強硬措置もとられました。元はついに大規模な第2次遠征を決行します。
石築地(防塁)の整備
文永の役の反省を踏まえ、幕府は九州の御家人に命じて博多湾岸に石築地(防塁)を築かせました。これが弘安の役では上陸阻止に大きく機能し、元軍を海上に釘付けにしました。
東路軍と江南軍の二軍作戦
元は東路軍(旧高麗軍主体・約4万人)と江南軍(旧南宋兵主体・約10万人)の二手に分け、博多湾で合流する作戦をとりました。両軍の規模は合計14万人とも言われ、前回をはるかに上回る大遠征でした。
石築地(防塁)が上陸を阻む
≒ 事前に備えた防衛インフラが機能した文永の役後に博多湾岸に整備された石造りの防塁が元軍の上陸を阻み、約2か月の海上膠着を生み出した。
御家人の夜間・海上奇襲
≒ 夜、小舟で敵船に乗り込む奇襲戦法御家人たちは石築地の防衛に加え、少人数の小舟で元の大船に夜間乗り込む斬り込み戦法を繰り返した。
暴風雨(神風)による元軍壊滅
≒ 天候が戦局を決した瞬間約2か月の膠着ののち大型台風とみられる暴風雨が博多湾を直撃。多くの元の軍船が沈没し、生き残った兵力も撤退を余儀なくされた。
1274文永の役元・高麗の連合軍が初めて北九州に侵攻(第1次元寇)。暴風雨もあり撤退。
1276防塁着工幕府が九州御家人に博多湾岸の石築地(防塁)建設を命じる。
1281弘安の役(6月)東路軍が先行して博多湾に現れるが石築地に阻まれ海上に停滞。
1281弘安の役(7〜8月)江南軍が合流し総勢14万とも。約2か月の海上膠着が続く。
1281暴風雨(8月)大型暴風雨が博多湾を直撃。元の軍船が壊滅し残存部隊が撤退。
1297永仁の徳政令元寇後の御家人困窮を救うため幕府が借金帳消し令(永仁の徳政令)を発布。効果は限定的だった。
1333鎌倉幕府滅亡御家人の離反もあり鎌倉幕府が滅亡。元寇後の恩賞問題が遠因の一つとされる。
◎石築地と御家人の奮戦、そして暴風雨により元軍を撃退。日本は元の支配を免れた。
△元寇は防衛戦のため新たな領地を獲得できず、幕府は御家人への恩賞を十分に支給できなかった。これが御家人の困窮と幕府への不満につながり、1333年の鎌倉幕府滅亡の一因となる。
フビライ=ハン
元(モンゴル帝国)の皇帝モンゴル帝国を最大版図に拡大した皇帝。日本遠征を二度命じたが、いずれも失敗に終わった。
北条時宗
鎌倉幕府第8代執権元の服属要求を拒絶し続け、文永・弘安の両役で防衛を指揮した。
少弐景資
九州の有力御家人文永・弘安の両役で九州の御家人を率い、博多湾岸の防衛の最前線に立った。
河野通有
伊予国の御家人小舟で元の大船に乗り込む奇襲を繰り返した勇猛な武将として知られる。
- 元寇
- 13世紀に元(モンゴル帝国)が日本に行った2度の侵攻の総称。文永の役(1274)と弘安の役(1281)を指す。
- 石築地(防塁)
- 文永の役の後、博多湾岸に築かれた石造りの防壁。高さ2〜3m程度で上陸を阻む役割を果たした。
- 神風
- 元軍を壊滅させた暴風雨のこと。後世、天が日本を守ったという文脈で「神風」と呼ばれるようになった。太平洋戦争末期の特攻隊の名称もここに由来する。
- てつはう
- 元軍が使用した火薬を詰めた鉄製の投擲兵器。爆発と火炎で敵を混乱させた。当時の日本の武士には見慣れない兵器だった。
- 永仁の徳政令
- 1297年(永仁5年)、幕府が御家人救済のために出した法令。御家人が手放した土地の無償返還と御家人の借金帳消しを命じたが、かえって御家人への金融が停止されるなど混乱を招いた。
1「神風」の前に2か月の激戦があった
「神風(暴風雨)が吹いて元軍が壊滅した」というイメージが広まっているが、暴風雨が来る前、御家人たちは約2か月にわたって石築地を盾に元軍と戦い続けていた。神風は最後の決め手であって、はじめから奇跡に頼っていたわけではない。
2江南軍の兵士の多くは旧南宋の人々だった
約10万人といわれる江南軍の主力は、元が1279年に滅ぼしたばかりの南宋(漢民族の国)の人々だった。征服直後の旧敵を日本侵攻に動員したため、江南軍の士気や結束には問題があったとされる。
3軍船の構造が台風に弱かった
元の軍船は河川での輸送用に平底で作られた船が多く、外洋の荒波に不向きだったと指摘されている。博多湾でそのまま長期停泊し、台風の直撃を受けたことで被害が甚大になった可能性がある。
4「神風」という言葉が特攻隊に受け継がれた
太平洋戦争末期に編成された特攻隊の名称「神風(かみかぜ)特別攻撃隊」は、元軍を壊滅させたこの暴風雨に由来する。敵艦に体当たりする戦法が、外敵を撃退した歴史的な奇跡と重ねられた。
5元は第3次遠征を準備していた
弘安の役の失敗後もフビライ=ハンは日本征服を諦めず、第3次遠征を計画した。しかし国内の混乱や財政的な負担が重なり、計画は実現しないまま1294年にフビライが死去した。

ここが出る博士のワンポイント
文永の役(1274)=1度目、弘安の役(1281)=2度目。年号と名称をセットで覚える。
語呂は「人には一杯(1281)弘安の役」。人(1)に(2)は(8)一(1)→ 1281。
石築地(防塁)は文永の役後に整備され、弘安の役で機能した。順序に注意。
元寇後の恩賞不足 → 御家人困窮 → 永仁の徳政令(1297)→ 幕府衰退という流れを押さえる。
執権は北条時宗(8代)。北条氏の他の執権と混同しないこと。
語呂クイズ
「人には一杯 弘安の役」= 弘安の役(元寇)は西暦何年?
- Q. 弘安の役と文永の役の違いは何ですか?
- A. どちらも元(モンゴル帝国)の日本侵攻(元寇)ですが、文永の役は1274年(1度目)、弘安の役は1281年(2度目)の出来事です。弘安の役のほうが軍の規模が大きく、石築地(防塁)が整備されていた点も異なります。
- Q. 「神風」とは何ですか?
- A. 弘安の役で元の軍船を壊滅させた大型暴風雨のことです。天が日本を守ったとして後世「神風」と呼ばれました。ただし暴風雨の前に約2か月の激戦があったことを忘れないでください。
- Q. 石築地(防塁)とは何ですか?
- A. 文永の役の後、博多湾岸に築かれた石造りの防壁です。高さ2〜3mほどあり、弘安の役では元軍の上陸を阻む役割を果たしました。
- Q. 弘安の役のときの執権は誰ですか?
- A. 鎌倉幕府の第8代執権・北条時宗です。元の服属要求を拒み続け、2度の元寇において防衛を指揮しました。
- Q. 元寇後、なぜ幕府が衰退したのですか?
- A. 元寇は防衛戦だったため、御家人は戦っても新たな土地を手に入れることができませんでした。幕府は十分な恩賞を与えられず、御家人の不満と困窮が増大。これが永仁の徳政令(1297年)や、最終的には1333年の鎌倉幕府滅亡につながる一因となりました。
弘安の役は、単に「台風が助けてくれた」ではありません。文永の役の教訓から整備した石築地、そして約2か月にわたる御家人の奮戦が元軍を海上に釘付けにした上で、暴風雨が最後の一撃を加えた結果です。一方、勝利の代償は大きく、恩賞不足による御家人の困窮が幕府の権威を掘り崩していきます。「人には一杯(1281)弘安の役」の語呂とともに、元寇→恩賞問題→永仁の徳政令→幕府衰退という流れを一緒に押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
東路軍は約4万人、江南軍は約10万人が通説だが史料によって諸説ある。
「神風」は暴風雨の俗称。気象学的には台風とみられるが、規模・経路の詳細は不明。
石築地の高さ・構造は発掘調査で判明した部分があり、現在も研究が進んでいる。