
源頼朝
みなもとの・よりとも 1147–1199 / 平安末〜鎌倉・武将・大名
武家政権を創始した初代将軍基本データ
- よみ
- みなもとの・よりとも
- 生没年
- 1147–1199
- 別名
- 鎌倉殿
- おもな地位・官職
- 鎌倉幕府初代征夷大将軍
- 父母
- 父は源義朝
- 氏族
- 清和源氏(河内源氏)
- 拠点
- 鎌倉
どんな人?
源頼朝(みなもとの・よりとも)は、鎌倉を拠点に武家政権を樹立した鎌倉幕府の初代征夷大将軍です。源義朝の子として生まれ、1159年の平治の乱で父が平清盛に敗れると、まだ少年だった頼朝は伊豆へ配流されました。
伊豆で長く過ごした頼朝は、1180年に以仁王の令旨を受けて挙兵します。弟の源義経らの活躍もあって平氏を追い詰め、1185年には平氏が滅亡し、頼朝は全国に守護・地頭を設置する権限を得ました。
1192年には征夷大将軍に任じられ、東国の武士を結集した武家政権の体制を固めました。頼朝が打ち立てた御家人制度の慣習は、のちの1232年に定められた御成敗式目の基盤ともなりました。1199年に死去しています。
おもな業績・つくったもの
- 全国に守護・地頭を設置する権限を得る(1185年)平氏滅亡後、各国に守護、荘園・公領に地頭を置く権限を得た。武家支配を地方の末端まで及ぼす骨格となった。
- 征夷大将軍に就任(1192年)朝廷から征夷大将軍に任じられ、武家政権が公式に認められた。以後この称号は武家の最高権力者を示すものとなった。
- 鎌倉を拠点に武家政権を樹立京都の朝廷とは独立して東国・鎌倉に武家政権を築いた。守りやすい地形で源氏ゆかりの地でもあった。
- 御家人制度を整え主従関係を確立土地を保障する御恩と軍役などの奉公による主従関係を整えた。将軍と御家人を結ぶ武家政権の基盤となった。
- 以仁王の令旨を受け挙兵(1180年)伊豆に流されていた頼朝は、平氏打倒を呼びかける以仁王の令旨を受けて挙兵し、東国の武士を結集していった。
生涯のあゆみ(年表)
- 1147源義朝の子として生まれる
- 1160平治の乱の敗北で伊豆へ配流される解説を見る →
- 1180以仁王の令旨を受けて挙兵する
- 1185平氏滅亡後、守護・地頭の設置権を得る解説を見る →
- 1192征夷大将軍に任じられる解説を見る →
- 1199没する
ゆかりの地
鶴岡八幡宮神奈川県頼朝が鎌倉の中心に整備した源氏の氏神
豆知識
助命されて再起
平治の乱で父を失った頼朝は幼くして捕らわれたが、処刑を免れ伊豆に流された。この助命が、のちの挙兵と鎌倉幕府創設につながっていく。
なぜ鎌倉を選んだ
頼朝が本拠に選んだ鎌倉は三方を山、一方を海に囲まれた守りやすい地形で、先祖ゆかりの土地でもあった。京都から遠く朝廷の干渉を受けにくい点も好都合だった。
落馬が死因とも
頼朝の死は史料が乏しく詳しく分かっていない。後世の記録には落馬が原因とする説もあるが、確かなことは伝わっていない。
人物相関
よくある質問
源頼朝は何をした人?
鎌倉を拠点に武家政権を樹立した鎌倉幕府の初代征夷大将軍です。弟・義経らの活躍で平氏を滅ぼし、守護・地頭を設置して全国支配のしくみを整えました。
源頼朝はどのように挙兵しましたか?
平治の乱で伊豆へ流されていた頼朝は、1180年に以仁王の令旨を受けて挙兵しました。東国の武士を結集し、鎌倉を拠点に武家政権の体制を固めました。
なぜ鎌倉を拠点に選んだのですか?
鎌倉は三方を山、一方を海に囲まれた守りやすい地形で、源氏ゆかりの土地でもありました。京都から遠く朝廷の干渉を受けにくい点も好都合でした。