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平治の乱の浮世絵イラスト
武士の台頭 ②高校/戦乱
1159

平治の乱

平清盛・源義朝・藤原信頼
語呂
覚え方
人々ご苦労 平治の乱
人(1)々(1)ご(5)苦労(9)

1159年(平治元年)、藤原信頼と源義朝が結んで後白河上皇の近臣・信西(藤原通憲)を倒し、京の実権を握ろうとしました。しかし熊野詣から急ぎ帰京した平清盛がこれを制圧。源義朝は敗死し、その子・源頼朝は伊豆に流されました。この乱によって武士の中での覇権は平氏に傾き、清盛が1167年に太政大臣に就くなど平氏政権が確立されていきます。保元の乱(1156年)から3年、武士が朝廷の権力闘争を動かす時代が本格的に始まりました。

この記事のポイント

  • 1159年、藤原信頼と源義朝が挙兵し、後白河上皇を幽閉・実権を掌握
  • 熊野詣から急帰した平清盛が軍事力で反撃し、信頼・義朝方を撃破
  • 藤原信頼は処刑、源義朝は尾張で家臣に殺害されて敗死
  • 義朝の子・源頼朝は伊豆に流配(後の鎌倉幕府創設へ)
  • 平氏が武家の頂点に立ち、1167年の清盛の太政大臣就任へとつながった
ここが面白い

清盛は熊野詣の最中に挙兵を知った。急いで京へ引き返した行動力が、平氏政権への道を開いた。

ここに至るまでの流れ
背景

平治の乱は、突然起きた反乱ではありません。その3年前の保元の乱(1156年)で武士が朝廷内の権力争いに深く組み込まれ、勝ち組・負け組が生まれたことで、次の対立の芽が育っていました。

保元の乱(1156年)の後処理

保元の乱では後白河天皇・平清盛・源義朝の陣営が勝利し、崇徳上皇方は敗れました。しかし戦後、実権を握ったのは後白河上皇の近臣・信西(藤原通憲)でした。義朝は武功に見合う恩賞を得られず不満を募らせます。

藤原信頼の台頭と信西への対抗

後白河上皇の寵臣だった藤原信頼は、院政の実務を握る信西と対立していました。信頼は武力として源義朝に目をつけ、両者は手を結びます。一方の清盛は、このとき摂津国(現在の大阪・兵庫)や熊野詣などで京を離れる機会が多く、信頼・義朝方はそこを狙いました。

保元の乱との区別

保元の乱(1156年)は天皇家・藤原氏の内部対立が引き金で、平清盛と源義朝が同じ陣営として戦いました。平治の乱(1159年)は、今度は清盛と義朝が敵対する形になった点が大きな違いです。また保元は「崇徳上皇 vs 後白河天皇」の皇位をめぐる争いでしたが、平治は信西を排除しようとする院近臣間の権力争いが主因です。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

信頼・義朝が挙兵し信西を滅ぼす

≒ クーデターによる権力奪取

清盛の不在中に信頼・義朝は兵を率いて三条殿を焼き、後白河上皇と二条天皇を内裏に幽閉。信西は逃亡中に捕らえられ処刑された。

清盛の急帰と反撃

≒ 機動力ある逆転劇

熊野詣の途中で挙兵を知った清盛が速やかに京へ引き返し、六波羅を拠点に態勢を立て直した。二条天皇を内裏から脱出させることに成功し、大義名分を得た。

源義朝の敗死と頼朝の配流

≒ 後継者の伊豆での潜伏

戦いに敗れた義朝は東国へ逃れる途中、尾張(現在の愛知県)で家臣の長田忠致に裏切られて殺害された。子の頼朝(当時13歳前後)は捕らえられ伊豆に配流されたが、のちに鎌倉幕府を開く。

前後のできごと
年表
1156
保元の乱天皇家・摂関家の内紛に武士が動員された。清盛・義朝は同じ陣営で戦い勝利。しかし戦後は信西が権力を握り、義朝への恩賞は薄かった。
1159
平治の乱12月、藤原信頼・源義朝が挙兵し信西を滅ぼす。清盛が急帰して二条天皇を確保し反撃、信頼・義朝を討伐した。義朝は尾張で敗死、頼朝は伊豆へ配流。
1160
戦後処理藤原信頼は処刑。源氏勢力は壊滅的打撃を受け、平氏が武家の頂点に立つ。
1167
清盛が太政大臣に平清盛が武士として初めて太政大臣に就任。平氏政権が確立される。
1180
以仁王の令旨・頼朝挙兵伊豆に配流されていた源頼朝が以仁王の令旨を受けて挙兵。源平合戦が始まる。
1185
平氏滅亡壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡し、鎌倉幕府の実質的な成立へ。
結果とその後
結果
平清盛が武家の頂点に立ち、1167年に太政大臣就任。武士が朝廷の最高職に就く前例のない平氏全盛期が到来した。
敗れた源氏は壊滅したが、伊豆に配流された頼朝が生き延びたことで、約20年後の源平合戦・鎌倉幕府成立へとつながる伏線が残された。
登場人物
人物

平清盛

平氏の棟梁・武家の頂点

熊野詣から急帰して反乱を鎮圧。勝利後も源頼朝を処刑せず伊豆配流にとどめたことが後に鎌倉幕府成立の伏線となった。

源義朝

源氏の棟梁

藤原信頼と組んで挙兵するも敗北。東国へ逃げる途中、尾張の長田忠致に裏切られ殺害された。

藤原信頼

後白河上皇の寵臣

乱の主謀者。信西への対抗心から義朝と結んだが、清盛の反撃を受けて失脚し処刑された。

信西(藤原通憲)

後白河上皇の近臣・実務のトップ

院政の実務を握り権勢を誇ったが、信頼・義朝の挙兵により捕らえられ処刑された。

源頼朝

義朝の三男(当時13歳前後)

捕らえられたが清盛の継母・池禅尼の嘆願により伊豆配流にとどまった(この点は諸説あり)。のちに鎌倉幕府を開く。

後白河上皇

院政の主(第77代天皇)

平治の乱では信頼・義朝方に一時幽閉されたが、清盛の反撃で解放。その後も院政を続け、平氏・鎌倉幕府と複雑な関係を維持した。

キーワード解説
用語
平治の乱
1159年(平治元年)に起きた武力衝突。保元の乱と合わせて「保元・平治の乱」と呼ばれ、武士が政治の表舞台に登場する転換点とされる。
院政
天皇が退位して上皇・法皇となったあとも、政務を執り続ける政治体制。白河上皇が1086年に始め、後白河上皇も長く続けた。
六波羅
京都東山に位置する平氏の拠点(六波羅館)。清盛はここを軍事的な足場として反撃を図った。
配流(はいる)
罪人を辺地に強制移住させる刑罰。源頼朝は伊豆(現在の静岡県)に配流され、そこで北条氏と結んで後の挙兵の基盤を築いた。
もっと知りたい
豆知識

1清盛は熊野詣の途中だった

信頼・義朝が挙兵したとき、清盛は熊野(現在の和歌山県)への参詣中だった。知らせを受けて即座に引き返し、六波羅に戻って反撃に移った行動の速さが、乱の帰趨を決定づけた。

2頼朝を助けたのは「継母の嘆願」?

当時13歳前後の頼朝がなぜ処刑されなかったかについては、清盛の継母・池禅尼が嘆願したからという説が有名だが、史料上の確証は十分ではない。頼朝の年齢を考慮したとも、源氏の若者を残しておくことを軽く見たとも言われている。

3義朝を裏切った家臣の「お風呂場の最期」

源義朝は東国へ逃れる途中、頼みにしていた家臣・長田忠致の館に身を寄せたが、入浴中に刺され殺害されたと伝わる。「我に木太刀の一本でもあれば」と言い残したとされる。

4「保元」「平治」の名の由来

保元の乱(1156年)は年号「保元」に、平治の乱(1159年)は年号「平治」にそれぞれ由来する。両者は同一人物(清盛・義朝)が登場するが、敵味方が入れ替わるという点でセットで覚えるとよい。

5平氏全盛期の象徴「日本国は平氏の天下」

乱後に平氏の権勢が増し、清盛の一族が朝廷の要職を独占したようすは、後の時代に「平家にあらずんば人にあらず」という言葉で語り継がれた。ただしこの言葉自体は『平家物語』に記されたものであり、当時の実態を正確に反映するかは注意が必要。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
平治の乱は1159年。語呂は「人々ご苦労(1159)」。
挙兵したのは藤原信頼と源義朝。鎮圧したのは平清盛。
保元の乱(1156年)との区別:保元は清盛・義朝が同じ側、平治は敵対した。
源義朝は敗死、子の頼朝は伊豆配流→後の鎌倉幕府の伏線。
乱の結果、平清盛が武家の頂点に立ち、1167年に太政大臣に就任した。
語呂クイズ
「人々ご苦労 平治の乱」= 平治の乱は西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 平治の乱はなぜ起きたのですか?
A. 後白河上皇の近臣・信西が院政の実務を独占していたことへの反発から、藤原信頼が源義朝と組んで挙兵しました。保元の乱後に冷遇された義朝の不満も重なっていました。
Q. 保元の乱と平治の乱の違いは何ですか?
A. 保元の乱(1156年)は天皇家・摂関家の内紛で、清盛と義朝は同じ陣営として戦いました。平治の乱(1159年)では清盛と義朝が敵対する側に回り、清盛が勝利しました。
Q. 源義朝はどうなりましたか?
A. 乱に敗れ、東国へ逃れる途中の尾張(現在の愛知県)で、頼りにしていた家臣の長田忠致に裏切られて殺害されました。
Q. 源頼朝はなぜ処刑されなかったのですか?
A. 当時まだ若年(13歳前後)だったこと、清盛の継母・池禅尼が命乞いをしたことなどが理由として伝わりますが、史料上の確証は必ずしも十分ではありません。頼朝は伊豆に配流され、のちに鎌倉幕府を開きます。
Q. 平治の乱のあと、平氏はどうなりましたか?
A. 武家の頂点に立った平清盛は1167年に太政大臣に就任し、一族が朝廷の要職を独占する平氏政権の全盛期を迎えました。しかし1185年の壇ノ浦の戦いで源頼朝・義経に滅ぼされます。
まとめ

平治の乱は「保元・平治の乱」としてセットで覚えるのが鉄則です。保元(1156年)では清盛と義朝が同じ側で戦い、平治(1159年)ではその二人が敵対しました。この2つの乱を経て武士が政治の前面に立ち、平氏が頂点へ上り詰めます。一方、敗れた源氏の御曹司・頼朝は伊豆に流されますが、約20年後に挙兵して鎌倉幕府を開きます。「人々ご苦労(1159)」で年号を押さえつつ、勝者・敗者・その後の行方を一緒に確認しておきましょう。

編集メモ(ファクト)
頼朝が処刑を免れた理由(池禅尼の嘆願説)は『平家物語』などに記されるが、史料の信頼性に限界があるため断定を避けた。
義朝が殺害された場所・状況(入浴中の説)は軍記物語に基づく伝承であり、史実として確定されたものではない。
「平家にあらずんば人にあらず」の言葉は『平家物語』の記述であり、当時の実態そのものを示す史料とは言えないため注釈を添えた。