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保元の乱の浮世絵イラスト
武士の台頭 ①高校/戦乱
1156

保元の乱

後白河天皇・平清盛・源義朝(勝者)/崇徳上皇・源為義・平忠正(敗者)
語呂
覚え方
いい頃 保元の乱
いい(1・1)頃(5・6)保元の乱

1156年(保元元年)、鳥羽法皇の死をきっかけに、崇徳上皇と後白河天皇の対立が爆発しました。そこに藤原摂関家の内紛も絡み、源義朝・平清盛ら武士が初めて本格的な「朝廷の戦争」に動員されます。後白河天皇側が勝利し、敗れた崇徳上皇は讃岐(香川県)へ流罪。源為義・平忠正らは処刑されました。この乱は、武士が政治の実力者として頭角を現す決定的な転換点となり、3年後の平治の乱(1159年)へとつながっていきます。

この記事のポイント

  • 1156年、鳥羽法皇の死後に崇徳上皇と後白河天皇が対立し武力衝突
  • 源義朝・平清盛は後白河天皇側、源為義・平忠正は崇徳上皇側につき、一族が分裂
  • 後白河天皇側の夜襲が成功し、崇徳上皇側は敗北
  • 崇徳上皇は讃岐へ流罪、源為義・平忠正ら敗者側の武士は処刑(肉親処刑の慣例破り)
  • 武士が朝廷の政争に不可欠な存在となり、平治の乱・平氏政権へと続く武家台頭の幕開け
ここが面白い

父と子、兄と弟が別々の陣に分かれて戦った内乱。勝敗を決したのは、夜襲という武士の判断だった。

ここに至るまでの流れ
背景

保元の乱は突然起きたわけではありません。平安末期の朝廷では、院政・摂関家・天皇家がそれぞれ権力をめぐって複雑に絡み合い、長年にわたって緊張が高まっていました。その経緯をたどってみましょう。

院政と摂関家の権力争い

白河上皇が1086年に院政を開始して以来、天皇の父や祖父にあたる「上皇・法皇」が実質的な政治権力を握る時代が続きました。これにより、かつて権勢を誇った藤原摂関家の力は相対的に低下します。しかし摂関家内部でも頼長(左大臣)と忠通(関白)の兄弟が対立しており、朝廷全体が二つの勢力に割れる状況が生まれていました。

崇徳上皇と後白河天皇の確執

崇徳天皇(のちの崇徳上皇)は、父・鳥羽法皇から疎まれていたとされ、「叔父子」と呼ばれる複雑な出生をめぐる説話も伝わります。1141年に弟・近衛天皇に譲位させられ、上皇となってからも院政を行えませんでした。1155年に近衛天皇が後継ぎのないまま崩御すると、崇徳上皇の子ではなく、鳥羽法皇の意向で後白河天皇(崇徳の弟)が即位。この決定が崇徳上皇の怒りに火をつけました。

武士の時代への胎動

平安中期に起きた前九年合戦(1051年)・後三年合戦(1083年)を経て、東国では源氏、西国では平氏が武士団を束ねる棟梁として力をつけていました。しかし都の政治では武士はまだ「貴族の手足」にすぎず、自ら政権を動かす立場にはありませんでした。保元の乱は、その関係を根本から変える事件となります。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

一族が東西に分裂して戦う

≒ 同じ家の親子・兄弟が敵と味方に

源氏では義朝(後白河側)と父・為義(崇徳側)が対立。平氏では清盛(後白河側)と叔父・忠正(崇徳側)が分かれた。朝廷の命令が「家」を超えた構図を生み出した。

夜襲で決した戦局

≒ 武士の機動力が勝敗を分ける

後白河側の源義朝が「夜討ちにすべき」と主張し、夜間奇襲を断行。崇徳上皇側は防ぎきれず白河北殿が焼かれ、崇徳上皇は脱出を余儀なくされた。

敗者への苛烈な処罰

≒ 流罪と死刑で完全決着

崇徳上皇は讃岐へ配流。源為義・平忠正ら敗者側の武士は、勝者側の息子・甥の手で処刑された。身内が身内を処刑するという慣例破りの措置が、武士社会に大きな衝撃を与えた。

前後のできごと
年表
1086
院政開始白河上皇が院政を始め、上皇が実権を握る政治体制が確立。藤原摂関家の権力が後退し始める。
1141
崇徳天皇が退位鳥羽法皇の意向で崇徳天皇が弟の近衛天皇へ譲位。崇徳上皇となるも院政は認められず、鬱屈が積もる。
1155
後白河天皇の即位近衛天皇が後継なく崩御。鳥羽法皇は崇徳の子を排し、弟の後白河天皇を即位させる。崇徳上皇の怒りが頂点に。
1156
保元の乱(7月)鳥羽法皇の崩御(7月2日)をきっかけに崇徳上皇方が兵を集める。源義朝らの夜襲で後白河天皇側が勝利。崇徳上皇は讃岐へ配流。
1158
後白河天皇が譲位後白河天皇が二条天皇に譲位し、院政を開始。平清盛・源義朝らが引き続き朝廷に重用される。
1159
平治の乱後白河院の近臣をめぐる対立が激化し、源義朝と平清盛が激突。清盛が勝利して義朝が敗死し、平氏政権樹立へ向かう。
結果とその後
結果
後白河天皇・平清盛・源義朝の側が勝利し、崇徳上皇・源為義・平忠正ら敗者は配流・処刑された。武士が朝廷の政治決定を左右する存在として台頭するきっかけとなった。
一族が骨肉の争いを演じ、武士が戦後処理(処刑)まで担ったことで、朝廷の権威は実質的に低下。3年後の平治の乱では清盛と義朝が激突し、武士同士の政権争いへと発展した。
登場人物
人物

崇徳上皇

乱の一方の旗頭(敗者)

鳥羽法皇から疎まれ、長年院政を認められなかった。乱後に讃岐へ流され、怨霊伝説を残した。

後白河天皇

乱のもう一方の旗頭(勝者)

即位わずか1年の天皇。勝利後に譲位して院政を行い、以後30年以上にわたり政界に君臨した。

平清盛

後白河側の武将(勝者)

乱での活躍を足がかりに昇進を重ね、1167年に武士として初めて太政大臣に就任した。

源義朝

後白河側の武将(勝者)

夜襲を進言し戦局を決した。父・為義を処刑するという苦渋の決断を強いられ、その後の平治の乱で敗死する。

藤原頼長

崇徳上皇側のブレーン(敗者)

「悪左府」と呼ばれた左大臣。兄・忠通(後白河側)と対立し、崇徳上皇を擁立したが戦死した。

キーワード解説
用語
院政
天皇が譲位した後も「上皇・法皇」として政治の実権を握る制度。1086年の白河上皇を嚆矢とする。
配流(はいる)
都から遠い地方へ強制的に追放する刑罰。崇徳上皇は讃岐(現在の香川県)へ流された。
白河北殿(しらかわきたでん)
崇徳上皇側の拠点となった邸宅。源義朝らの夜間奇襲で焼かれ、乱の趨勢が決した。
棟梁(とうりょう)
武士団をまとめる頭領のこと。源氏・平氏それぞれに棟梁がおり、保元の乱では双方に分裂して参戦した。
もっと知りたい
豆知識

1崇徳上皇は日本三大怨霊のひとり

讃岐に流された崇徳上皇は、都へ戻ることなく現地で亡くなりました。その後、朝廷では相次いで不幸が起き、「崇徳上皇の怨霊のせいだ」と恐れられるようになります。菅原道真・平将門と並び「日本三大怨霊」のひとりとされ、現在も京都の白峯神宮などで祀られています。

2義朝は父・為義を自らの手で処刑した

源義朝は、敗者側についた父・為義の助命を願い出たとされますが、後白河天皇側はこれを認めませんでした。結局、義朝自身が父の処刑を行ったと伝わります。「武士の世」への転換を象徴する、肉親への苦渋の一刀でした。

3乱の呼び名は年号から

「保元の乱」という名称は、乱が起きた年の年号「保元」(1156年)から来ています。同じく3年後の「平治の乱」も年号「平治」(1159年)から。年号を使った乱の命名は、後の「応仁の乱」「承久の乱」なども同様のパターンです。

4乱を境に武士の処刑が常態化

それ以前の内乱では、敗者の貴族や武士を死刑にすることは珍しく、流罪が一般的でした。しかし保元の乱では処刑が相次ぎ、「武士が武士を殺す」という新しい慣習が生まれます。これが武士社会の論理が朝廷に持ち込まれた証拠として歴史家に注目されています。

5清盛と義朝、3年後に激突

保元の乱では「共に後白河側」として肩を並べた平清盛と源義朝ですが、わずか3年後の平治の乱(1159年)で真正面からぶつかります。この逆転劇が、平氏政権の確立と源氏の東国再起(頼朝による鎌倉幕府)への布石となりました。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
保元の乱は1156年。語呂は「いい頃(1156)保元の乱」。平治の乱(1159年)と年号・構図をセットで覚える。
勝者は後白河天皇・平清盛・源義朝。敗者は崇徳上皇・源為義・平忠正。取り違えに注意。
保元の乱と平治の乱の違い:保元の乱は「天皇家+摂関家の内紛」に武士が動員された乱。平治の乱は「武士同士(清盛vs義朝)」の争いが主軸。
この乱以降、武士が政治的な実力者として台頭し、平清盛が1167年に太政大臣になる流れにつながる。
語呂クイズ
「いい頃 保元の乱」= 保元の乱は西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 保元の乱はなぜ起きたのですか?
A. 1156年に鳥羽法皇が崩御し、院政の空白が生じたことで、崇徳上皇と後白河天皇の対立が表面化しました。そこに藤原摂関家(頼長vs忠通)の内紛も絡み、双方が武士を集めて武力衝突に至りました。
Q. 保元の乱で勝ったのはどちらですか?
A. 後白河天皇側が勝利しました。平清盛・源義朝らがこの側に加わり、源義朝の夜襲作戦が勝敗を決しました。敗れた崇徳上皇は讃岐(香川県)へ流されました。
Q. 保元の乱と平治の乱の違いは何ですか?
A. 保元の乱(1156年)は崇徳上皇と後白河天皇という天皇家の対立に武士が動員された乱です。平治の乱(1159年)は保元の乱の勝者である平清盛と源義朝が今度は敵対し、武士同士が直接ぶつかった乱です。
Q. 崇徳上皇はその後どうなりましたか?
A. 讃岐(現在の香川県)に配流され、都に戻ることなく現地で亡くなりました。死後は怨霊として恐れられ、菅原道真・平将門と並ぶ「日本三大怨霊」のひとりとされています。
Q. 保元の乱は武士にとってどんな意味がありますか?
A. 武士が朝廷の政争を武力で決着させる役割を担った最初の大きな内乱です。戦後の論功行賞や処刑にも武士が関わり、武士が単なる「貴族の手足」から政治的な実力者へと転換する画期となりました。
まとめ

保元の乱は、「天皇家と摂関家の内紛」という貴族社会の争いに武士が全面動員され、その武力で決着をつけた歴史上初の大規模内乱です。勝者・後白河天皇側についた平清盛と源義朝はこの乱で名を上げましたが、わずか3年後の平治の乱では今度は二人が激突します。「いい頃(1156)保元の乱」の語呂とともに、誰が勝って誰が負けたかをしっかり押さえ、平治の乱・平氏政権・鎌倉幕府へと続く「武士の台頭」の流れの出発点として理解しておきましょう。

編集メモ(ファクト)
崇徳上皇の配流先は讃岐国(現在の香川県)。配流後の在地での活動や怨霊伝説は平安末期の公家日記にも記録がある。
源義朝が父・為義を処刑したかどうかは諸説あり、史料によって記述が異なる。断定を避け「伝わる」と表現している。
乱の開戦日は保元元年7月11日(ユリウス暦1156年8月16日)。記事中は西暦1156年で統一している。